正解に逆襲せよ

どん。

「あ?」

足元にぶつかった柔らかな衝撃に、少年は切れ長の瞳を大きくして下を見下ろした。

分厚いガラスの壁の向こうで悠々と泳ぐ魚たちが、青く落ちる光を揺らめかす。土曜日の午後、地元で一番大きな水族館。それなりに人気の多いそこで少年が見下ろす先には、青黒く艶めく黒髪の下から、目一杯に見開かれて凍りついた瞳が二つあった。子役にでもなれそうな愛らしい顔にはしかし、彩り豊かな表情は見あたらない。

これは…迷子か。
大きなぬいぐるみを抱えたまま、人形のごとく棒立ちになった少女に見覚えはなく、少年は眉根を寄せて眼を細める。それは無論苛立ちではなく純粋な訝しさからの表情だったのだが、悲しいかな元来の目つきが大変よろしくない少年の形相を見た少女―――その名を名字莉子は、もはや息も出来ないほど凍りついていた。

見たところ泣いてもいないし放っておこうか。少年は思ったが、この前皆でスポーツショップに行った際、彼の尊敬する一先輩はたまたま見つけた迷子の男の子の手を引き、迷子センターまで連れて行っていた。それを思い出した彼は、一瞬浮かした爪先を再び地につける。
迷子は迷子センターに連れてゆくべし。
少年は一人頷き、足元に凍り付いたままの莉子を見下ろして「おい、」と呼び掛ける。だがその無愛想極まりない呼び声に、瞬きすら満足に出来ず見開かれた瞳はいよいよ恐怖に染まって、その時。

「影山ァ!」
「あ?」

少女は見た。目の前に立ちはだかる黒髪の少年の向こう、鮮やかな橙をした髪が、人波を見事にかいくぐり見る間にかけてくる。
影山と呼ばれた少年―――烏野高校バレー部一年、影山飛雄の傍で急停止した彼は、小さな体全体で(むろん莉子よりはずっと大きいが)憤慨を表すように声を上げた。

「どこ行ってんだよ!先輩らが探して…はっ!はっはーん、お前まさか…迷子かぁ?」
「おう、よくわかったな」
「え゛!?」

ニヤニヤとからかいに出た悪い顔から一転、いっそ不気味なものを見るように恐れおののいた小柄な少年に構わず、影山はセッターの第二の心臓たるその指を上げる。促されるままその先を目で追った少年――――何を隠そうその名を日向翔陽は、その大きな瞳を落っこちそうなほど丸くして、足元で棒立ちになっている莉子を見詰めた。

「ほら、迷子だろ」
「へっ」

何故かドヤ顔で断言する影山の横、思わぬ事態にぽかんとしている日向を見上げ、莉子は拙い思考で不意に思い出した。マリーゴールド。この前の日曜、彼女の姉が花屋から買って帰り、二人一緒に手を泥だらけにしながら鉢植えに植え替えたそれと、彼の髪は同じ色をしている。

姉の優しい声、自分が不格好に植えた苗を丁寧に直してくれる手、帰ってきてベランダの鉢を見るなりうんと誉めてくれた母の顔。その全部が胸中を駆け巡った瞬間、莉子の大きな瞳にぶわりと涙が浮いた。

「っ、」
「うえっ!?あっわっ泣い、」
「!?おっおい、泣くなって、今迷子センターに…!」

早く連れて行かねばと影山が手を伸ばすも結果は当然逆効果。もはや逃げ出すこともままならない莉子はぶるぶる震えて怯えて後ずさる。
その哀れな姿に影山が密かにショックを受けるのもよそに、日向は殆ど反射的に持ち前のバネで飛び上がり、二人の間に割り込んでいた。

「バッカ影山顔近づけんなよ!怖がってんじゃん!!」
「誰がコワイだゴルァ!!」
「その顔だよ!!あだだだゲリツボ押してんじゃねー!!」

彼らの主将が見たら笑顔で般若を背負いそうな大騒ぎである。周囲の客らが驚き、あるいは迷惑そうな顔をするのも気づかずやいのやいのと言い合う二人は、急に飛び込んできた日向の勢いに押されてぺたんと尻餅をついた幼子にも気付いていなかった。
青く煌めく水槽の光を踊らせた漆黒の瞳が、自分を背に庇い立ち塞がるふわふわのオレンジ色を見詰める。不意に少女の幼い胸に、姉に弁当を届けるため決死の覚悟で潜り込んだ学校での出会いが蘇った。何も聞かないうちから自分を隠し、庇ってくれたあの大きな背中が、莉子は今も変わらずとても好きだ。

「ごめんなあ、アイツ顔チョーコワかったろ」

一方二人の間にはなにがしかの決着がついたらしい。日向が不意に莉子を振り向きしゃがみ込み、慣れた様子で彼女の脇を支えて立たせてやる。彼自身の大きな瞳に幼さを残した日向が覗き込めば、今度は莉子も怯えを見せなかった。影山は不満極まりない顔をして日向を睨んでいたが、もう怯えられるのは御免らしく、唇を尖らせて待機中である。

「おれ日向翔陽!なあ、名前なんていうの?」

莉子が口を開くまでは随分な時間がかかった。けれど日向は、まるで莉子が必ず口を開くと信じて疑っていないかのように彼女から眼を逸らさず、莉子もまたそんな日向をじっと見詰めていた。そうして彼女がようやく言った。

「……莉子」
「莉子ちゃんか!お母さんとお父さんと来たの?」

少女は首を振る。日向は少し驚いたが、ならばと質問を投げかける。

「じゃあお祖父ちゃん?お祖母ちゃんか?」
「…」
「えっ違うの?えー、うーん、じゃあ…じゃあ…」
「…兄ちゃんとか姉ちゃんじゃねぇの?」
「あっそうか!」

後ろから助け船を出したのは影山だ。日向ははっとして少女を見る。ビンゴだ、莉子はこくりと頷いた。その小さな腕には、彼女の姉か兄が買い与えたのであろう大きなクラゲのぬいぐるみが抱き締められている。
それにして兄姉となれば子供だけで来たのだろうか。やや不思議に思うも、ここで何ら疑いを抱かないのが日向仕様である。

「お姉ちゃんかお兄ちゃんはなんて名前?」
「…名前ねーね…はじめにーに、…と、」「おお、二人いるのか…よし、わかった!おれたちが姉ちゃんと兄ちゃん探してあげるから、一緒に行こうぜ!」
「おい日向、先輩たちはどうすんだ」
「大地さんにメールする!」
「なら迷子センター探した方が早ぇだろ」
「むっ、確かに…じゃあ迷子センター探しながら行けばいいんじゃね?」

テンポよく会話を進める二人は気付いていなかった。莉子が二人の兄姉の名を口にしたあとも、さらに出すべき名前を三つ準備していたことに。
完全にタイミングを逸してしまった少女はしかし、改めてこちらを見下ろしぱっと手を差し出した日向を見て、ぱくんと口を閉じた。

「じゃ、行こーか!」

ニカッと浮かんだ眩しい笑みを見上げる莉子の眼に、もはや恐怖はない。
差し伸べられた手に小さな手をちょこんと乗せて、少女ははぐれてしまった姉を探す小さな旅に出た。


150816
裂傷番外 ft.烏野。続きます。青城に負けないくらい烏野も好きです。
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