不可逆性を嘯け

「…名字さーん、顔、カオ」
「、」
「すっごい強張ってるよ」

綺麗にセットされた茶髪の下、同じ色をした瞳が覗き込んでくるのを見て、少女ははっと顔を上げた。思わず見つめた彼の瞳の中に映る自分の顔の酷さに、彼女は思わず頭を振る。なんて情けない顔だろう。

「あ…ごめん、つい」
「大丈夫、すぐ見つかるよ。岩ちゃんは猟犬並みに鼻が利くから」

おどけて言った彼、及川の気遣いに、名前は力なく笑って見せる。だがそれも束の間、一層膨らむ申し訳なさで彼女は再びうなだれた。その横顔から引いた血の気は戻らない。及川は気付かれないよう困った顔をして頬を掻いた。

「ごめん、本当に…私がちゃんと見てなかったから…」
「それは俺たちも同じだよ。名字さんは女の子だし莉子ちゃんはまだ小さいし、俺たちが人混みで手を離すべきじゃなかったんだ」

慰めつつもきっぱりした調子で言い切った及川の声音は、名前によるそれ以上自責を封じ込める。そのさりげない巧みさと心遣いが有り難くも申し訳なくて、名前は曖昧に頷くしか出来なかった。
迷子センターの職員さんが視界の端で困ったように笑うのが見える。不甲斐ない保護者でお恥ずかしい。


土曜のオフを利用してバレー部四人が名字姉妹を誘ったのは、前に話に上っていた水族館だった。
休日の午後はさすがに人が多い。移動する時は皆が代わる代わる莉子を抱くなり肩車するなりして、迷子にならないよう注意するなど体制は万全のはずだった。

だが一通り館内を巡り、少し休憩しようとフードコートに向かった際、莉子は手洗いに行きたいと姉に頼んだ。名前はすぐに了承し、岩泉は腕から莉子を下ろした。それから皆と一旦別れて化粧室に向かった名前は、ついでに自分もトイレを済ませ、出口で妹が出てくるのを待っていた、のだが。
ここでフラグが立った。何時まで経っても莉子が出てこないのだ。
体調が悪いのか、何かあったのか。心配になってトイレの個室を確認した名前は真っ青になった。莉子はすでにトイレにいなかったのだ。

すぐに岩泉たちの元に走り、莉子が先に戻っていないか尋ねるも答えは否。五歳の妹は完全に姿を消していたのである。

岩泉はすぐにでも探しにゆこうとした名前を引き止め、迷子センターで待つよう言った。加えて及川が自分が名前につき、残りの三人で探してくるとそれに追随して申し出た。
当然名前は承服しかねたが、足元はヒール、行く先は人混みで、ただでさえ冷静でない彼女を一人行動させるのは避けたい。結局阿吽の二人が彼女を押し切る形で別行動は開始された。

すでに迷子の館内放送はなされてあるが、名前は期待出来なかった。まだ幼く人見知りも激しい妹が、自力で迷子センターまで辿り着く可能性はゼロに近い。
どこかで縮こまって動けなくなってしまっているのではないか、あるいはまさか誘拐されて。考えれば考えるほど螺旋状に落下する思考回路を振り払うのはもう何度目になるだろう。これでは岩泉が待機を言いつけるのも無理はない。

「…これって聞いていいのかわからないんだけどさ」
「、ん?」
「莉子ちゃんって…何か事情があったりする?」

不意に思わぬ話題を振ってきた及川に、名前は少し面食らった。その唐突さにではない。てっきり莉子に関してのことは岩泉が説明していると思っていたし、バレー部四人の態度は常にあの繊細すぎる妹の性質を心得たものだったからだ。

「もしかして、岩泉くんから聞いてない?」
「や、何も。かなり繊細な子だなってのは見てればわかったから、あとは事情を知ってるっぽい岩ちゃんに倣って接してたんだよね」
「うそ、…それでみんなあの対応?」

名前はいっそ耳を疑った。直感に特化した岩泉に対し、他の三人は意識的な頭脳派タイプとは察していたが、何の基礎情報無しにあの対応とは何事。幼稚園の先生だって一応は診断結果から説明に入ったというのに。
青城バレー部三年の予想を越えたスペックの高さに、名前は一瞬思考が吹っ飛んだ。

「新手のテロか…!」
「どこをどうしてそうなったの」

雷に撃たれたような顔をした名前のぶっ飛んだ一言に、及川が遠慮なく吹き出した。普段は過保護なくらい妹を可愛がる姉の姿を崩さない彼女だが、不意に見せる抜けた一面や、悪戯な笑みは同い年の女子と何ら変わりない。

(まあ、多分岩ちゃんの前が一番可愛いんだろうけど)

時折わざと顔を近づけたり引き寄せたりしては、ぎくしゃくする彼女に気付かないフリをして楽しんでいる幼馴染みを思い出し、しれっとイチャついてくれてさ、と及川は顔をしかめる。岩ちゃんのくせにナマイキ。

「ごめん、私てっきりみんなもう知ってるかと…」
「聞いても大丈夫なの?」
「うん、隠してるわけじゃないから」

名前は首を振り、莉子の出自、引き取った経緯を簡単に説明した。何でもないことのように話されるその話の予想を越えた重さに、及川はみるみる表情を強張らせて絶句した。何かトラウマのありそうな子だとは気付いていたが、よもやそれほど複雑な事情を抱えていようとは思わなかったのだ。

「…それ…結構壮絶だね」
「うん、ドラマみたいだよね」
「そんな呑気な感想でいいの!?」

のほほんと返す彼女の余裕には恐れ入る。となれば彼女はわずか二年前からそれだけ複雑な子の姉になったということか。ちょっと俄には信じられない。
及川は思わず名前をまじまじと見た。名前の莉子に対する愛情は普通の姉を遙かに越えている。感情の吐露が乏しい妹の言葉を辛抱強く待ち、良いことと悪いことを教え、時に叱り、頬を撫で髪を梳くたび莉子に向けるその眼差しは、いつだって溢れるような慈しみに満ちているのだ。それは自分の知る同い年の女子高生が持ち得るようなものではない。

「…名字さんって、他に兄弟いたりする?」
「いや、元は一人っ子だよ」
「じゃあ親戚に小さい子とか…」
「?私が末に近かったかな」
「…」
「どうかした?」
「…いや、俺も姉ちゃんがいるんだけどさ、」
「あ、ぽいね。すごくお姉さんいそうな感じする」
「え、それよく言われるんだけど…ってそうじゃなくて、だから思うんだけど」
「?」
「名字さんってすごいね」

これもいつだったか、名字さんはたまに俺に似ている気がすると岩ちゃんが表現したことがある。その意味は莉子ちゃんと関わるようになるうちに理解した。小さな妹を可愛がるよく出来た姉。彼女は時折、あまりに理想的な姉そのもの過ぎるところがあった。まるでそう暗示し演じているように。

岩ちゃんの勘の通り、多分彼女は幾分か自分に負荷をかけすぎていた感がある。今でこそ岩ちゃんが上手くガス抜き役になっているようだが、驚くべきはその理想でありたいという願いを、あそこまで徹底して実現する彼女の愛情深さである。
それが実の妹であっても大した話だが、16年間一人っ子で過ごしてきた人間が、突然やってきた3、4歳の、それも心に深手を負った妹のためにそれほどまでの愛情を抱けるものだろうか。

「俺思うんだけど、実際妹や弟がいる兄姉より名字さんのがお姉さんらしいよ」
「それは買い被りすぎだよ」
「いーや、及川さんの目をナメないで」
「そんな綺麗な目をナメたりしません」
「…名字さん素で照れるからやめて」
「及川くんが言ったんじゃない」
「いや、ホントに疑問っていうか、不思議なんだよ。戸惑ったりしなかったの?」
「戸惑い…」

名前は少し考える。戸惑い。あったかもしれないけれど、正直当時はそれどころの状況ではなかった。莉子はまだ入退院を繰り返していたし、養子縁組の手続きは難航、母さんは事情聴取だ裁判だで駆けずり回っていた。一時はマスコミも騒いでいたらしく(直後に誘拐事件が起きて一気に鎮火したが)、記者の目に留まらぬよう気も抜けない。

無論母親が舵取りしていたのは間違いないが、名前の傍について医者の話を聞いたり、食事をさせたりするのはもっぱら自分の役目だった。その切羽詰まった状況が、今この子を守れるのは自分の頼りない手しかないのだと骨の髄まで刻み込んだ。そんな気がする。

「子供風情がおこがましいって話なんだけど」

大袈裟に聞こえたかもしれない。思って苦笑いをしたが、及川くんは神妙な顔をしたままだ。
なぜ莉子を可愛がるのか。なぜいたこともない実の妹のように愛せるのか。自分でもよくわからないし、冷静に考えれば妙だとも思う。

「けど多分、あの子の姉になるって決めた瞬間から、全部が無条件になった気がするな」
「無条件…」
「うん。私にとってあの子に尽くすことは当然のことで、何の違和感もなくなったっていうか」

放課後の時間を割くことも食事を作り風呂に入れ読み聞かせをすることも、土日を潰して病院に行くことも訳もなく泣く時には夜通しで寄り添うことも、それが当然の日常になった。自分が食事をしたり風呂に入るのとなんら変わりない日常に。

それだけの衝撃があったんだろうと思う。打ち捨てられ、痩せ細り、僅か三歳で魂の死んだ幼い子どもを前にして、強烈な憐憫が心を打った。あれだけ酷い惨状を目の当たりにすれば、私でなくとも激震が走っただろう。

護らなければ。母さんがいない間、この子を守れるのは私しかいない。それはほとんど刷り込みに近い意識だった。
これから自分の妹となるこの子を、その存在を脅かす全てから何としても死守せねばならない。この子が与えられなかった大切なもの全てを補い、埋め合わせ、ただ普通に笑って普通に泣けるただの女の子にしてやらねばならないのだと。
文字通りの孤軍奮闘、雁字搦めの強迫観念。いっそ呪いにも似た自己暗示だったかもしれない。
たとえそうでも本気だった。母と二人で覚悟を決めたのだ。

「…君は本当にお姉ちゃんをしてるよ」
「、」
「姉ちゃんがいる俺が言うんだから自信持っていい。名字さんみたいな優しいお姉ちゃん、探しだってそういない」
「…弟をしてる人にそう言ってもらえると、嬉しいなあ」

心臓がしんしんとして俯いた。岩泉くんの仲間たちは皆優しい。水族館行きを提案してくれたのは松川くんで、パンフレットどころか前売り券まで準備してくれた。会うなり莉子の好きなお菓子をくれたのは花巻くん、姉のお下がりだけどと髪留めをつけてくれたのは及川くんだ。岩泉くんはいつも通り莉子を抱き、あの少し言葉足らずで不器用な、けれど真綿のように真っ白な優しさで、言葉の足りない妹の瞳が語る全てを事細かに拾おうとしてくれる。

『ねーね、』

優しい目で見守ってくれる岩泉くんの腕の中から、クラゲを指さし頬を染めて私を呼んだ妹の姿が胸をよぎった。思い出す全てに、思わず涙が滲むほど心が締め付けられる。
あの子には今、こんなにも素敵な兄たちが四人もいてくれるのだ。

「えっちょっと名字さ、」
「いやごめんなんか涙腺が事故で、うん」
「いやいやいや涙腺事故って…!」
「及川、名字!莉子は…って、」

なんというバッドタイミング。莉子らしき子供を見たという情報を受け、迷子センターに駆け込んできた捜索組三名の目に飛び込んできたのは、涙を拭う名前とその横で中腰のまま凍りつく及川。

岩泉の瞳に火花が散った。あ、及川死んだな。花巻が呟き、松川が手を合わせた。及川から血の気が失せる。違うコレ冤罪!

「…おいクズ川てめぇ、」
「ちょっ岩ちゃんストップ誤解し、」
「あっアレ!待合室って書いてありますよ!」

地を這うような声で凄む岩泉が背中に般若を背負って及川に迫った瞬間、ドア越しに聞こえたのは第三者の声。またも乱入者か。名前は驚いて身を固くしたが、しかし一方でどこか聞き覚えのある声にバレー部四人は一瞬顔を見合わせた。
彼らが答え合わせをする前に、迷子センターの待合室のドアが再び勢いよく開けられ、

「失礼しま―――エ゛ッ!?」
「ゲッ!?」
「あ?」
「え」
「は?」
「ちわーっす…って、あれ?」

飛び込んできた小柄な少年―――日向の瞳が及川を捉えた途端ズザァッと後退し、対して及川も彼のオレンジ色の髪を認識した瞬間身構え、そこから順に岩泉、松川、花巻の感嘆詞、最後に柔らかく響いたのは日向に続いて顔を覗かせた青年のもの。

「だ、だっ…大王様!?」
「チビちゃん!?」
「「烏野の10(2)番…?」」
「青城の、」

互いに指を差し合い叫ぶ及川と日向、驚いた様子の花巻と松川の向かいで、柔らかな灰色の髪に色の白い肌、泣きぼくろの目元が優しい彼と、奥で腰掛ける名前の目が合って、

「孝支くん…っ!?」
「おーよかった、やっぱり名前ちゃんだ」
「…は?」
「ねーね、」

席を立った名前が彼、菅原孝支の名を呼び、瞠目する彼女を前に菅原が朗らかに笑って、そんな二人に岩泉が呆気にとられ、ドアから完全に姿を現した菅原の腕に抱かれていた幼子が、姉に向かって小さな手を伸ばした。
揃いも揃ってガタイのいい男子高生たちが状況把握に手間取ってフリーズする様はシュール極まりない。なんたるカオス。一足早く思考回路を復旧して呟いた花巻に、同じく松川が無言で頷いた。

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