春と嵐と蜃気楼

「岩泉ー」
「ああ?」
「なんか女子がお前呼んでくれってよ」
「女子だぁ?」

及川関係なら部活で十分だぞ。厄介事じゃねぇだろうなと開きかけた弁当箱を閉じて立ち上がる。及川が押しかけてくる前に話が終わればいいが。席を立ち廊下に向かえば、クラスの仲間が要らん茶々を入れてきた。

「おっ?おいおい岩泉、お前まさか〜?」
「っかー憎いわこの男前ー!」
「ああ?おおかた及川絡みだろ」
「あ、あー…なるほど」
「相変わらずモテやがんの…」
「つったって岩泉だぜ?」
「まあな…男も惚れる男前、だろ?」
「キメェ」
「ひっでぇ!」

及川の名を出せば一瞬で萎えた奴らを見て同情半分共感半分。それでも懲りずに茶々入れしてくるヤツには辛辣な言葉を一つ。及川に関しては今日部活前に一発蹴り込んでやるかと決める。
だが廊下に立っていたのは髪を巻いたり化粧したり、といったいかにもな及川ファンではなく、自然な黒髪と膝丈のスカートの女子だった。

「名字?」
「久しぶり…ってほどでもないか。お昼中にごめんなさい」

あの一件から一週間ほど、廊下や下駄箱で会えば何かしら会話するようになった名字は、控えめに頭を下げて言った。何か用かと尋ねると、手に持っていた紙袋を手渡しながら言う。

「これ、遅くなったんだけどお礼に。何が好きかわからなくて勝手にチョイスしたから、気に入るかわからないけど…」
「礼って…妹のことか?大したことしてねぇっつったろ」
「ううん、ホントに助かった。むしろこれじゃ足りないくらい」

紙袋の中はシンプルに包まれた菓子が入っていた。パウンドケーキの類とクッキー、それに絞り出したような形のチョコレートがいくつか。
素人目にも手間と時間がかかったことがわかるそれは、普段及川が女子からもらうのを見かけるばかりで自分にはまるで縁が無いものだ。手の中に収まる繊細な焼き菓子に、何ともむずがゆい気恥ずかしさが湧き上がる。

「…わり、なんか逆に気ィ遣わせたみてぇだな」
「え、いや全然!ホントに見た目ほどの手間じゃないんだ。莉子も手伝ってたから、よかったら」

あ、これ、少ないけど及川くんにも。
少し身を屈めた名字が袋を覗き込み中を指さす。ふわり、柔軟剤か何かの匂いが鼻をかすめて一瞬どきりとしたが、平然を装い細い指の差す先を追った。なるほど、端の方には幾分か小ぶりの包みがもう一つ収まっていた。

「あ、でも及川くんは普段から貰い慣れてるか。アレだったら適当に配っちゃって」
「ああ、まあさんざん受け取ってっけど、差し入れと礼は別だからな。ちゃんと食わせる」
「…、あはは、ごめん今及川くんの口に押し込んでる岩泉くんの姿が浮かんできた」
「そりゃいいな、実行するか」

一瞬止まった名字が肩を揺らして朗らかに笑う。その年相応の笑みを見て、俺は勝手ながら少し安心するのを感じた。
随分年の離れた妹に言い聞かせる、辛抱強さと強い想いが滲み出る口調を思い出す。職員室から出て暫くは酷く狼狽え混乱していたのに、事情を聞き終えた頃には凛然として妹を諭す姿には目を引くものがあった。

終始丁寧に受け答え、幾度も頭を下げては申し訳なさげに小さくなっていた姿。特別親しかったわけではないが、一年間クラスが同じだった相手だ。“年相応”と呼ぶにはいささか大人びすぎたその姿が纏っていた空気が、俺の知る限りの名字が普段纏っていたものとは何か違っていたことは何となくわかった。

「帰りに食うわ。ありがとな」
「ううん、私の方が本当にありがとう。…あと、よかったらまた、莉子の相手してやってくれないかな。あの子、滅多に人に近付かないんだけど、岩泉くんにすっごい懐いたみたいで」
「俺に?そりゃ構わねぇけど…」
「あ、無理ならいいんだ。部活もあるだろうし、」
「あー待て勘違いすんな、及川のが扱い上手かったから不思議に思っただけだよ。手もかかんねぇし、機会さえありゃいつでも構ってやる」
「…ホントに?ありがとう、あの子きっと喜ぶ」

名字は酷く嬉しそうに微笑んだ。さっきの無邪気さを潜めたその淡い笑みにはきっと、慈愛とかそういう、辞書以外で使いそうにない綺麗な言葉が似合うのだと思う。

だが俺やはり、それを手放しで賞賛したり、褒め称える気分にはならなかった。むしろ感じるのはそこはかとない違和感。決して偽善的とか二面性が伺えるとか、そんなことが言いたいわけじゃない。ただ、大袈裟に言えば聖母のような、そんな綺麗な笑みより―――…

「いーわーちゃんっ!何してんのー…って、あれ、名字さん?」
「あ、及川くん。ちょうど良かった、この前のお礼がしたくて」
「え?いいのに、俺何もしてないよ?」
「お前の分だとよ。感謝して食え」
「何で岩ちゃんが偉そうなの!てゆーか岩ちゃん良かったじゃん、女の子の手作りなんて滅多に食べらんないでしょ?」
「うるっせぇんだよクソ川ァ…!」
「いだだだ痛い痛いアイアンクローはナシナシ!!」

この腹立つ顔面マジでいっぺん握り潰してやろうか。
もやつく思考を放り出しとりあえず騒ぐ及川を容赦なく締め上げていれば、ぽかんとしてそれを見ていた名字がたまらず吹き出した。
ああこれ、…こっちはさっきと同じ顔。

「ふはっ、あはははは、ごめ、ごめん……いいね、二人。見てて楽しいよ」
「「どこが(だよ)!?」」
「え、そういうところ?」

口元に手をあてて肩を震わす名字は、及川が現れても他の女子のように色めくことなく自然体のままだった。それから俺に向き直ると、どうにも他とは滲むものが違うあの淡い笑みを向ける。

「本当にありがとう。それと、そんなので良ければ私、いつでも焼いてくるよ」

―――ああ、そうか。
踵を返す名字を見送った俺は、隣でぶつくさ言っていた及川を見やる。怪訝そうに俺を見返してきた幼馴染の顔を見、独り言のように呟いた。

「…お前に似てんのか」
「え?何が?」
「名字の笑った顔」

名字の背中が隣の教室に消える。それを最後まで見送れば、いったん放り出した靄つきが胸の内に戻ってくるのがわかる。けれど一つ晴れたものがあった。あの、捉えどころのない違和感だ。

「あいつ偶に、妙に大人び過ぎてるキレーな笑い方すんだよ。お前が女子に見せてる顔となんか被るんだわ」
「…えーと、つまり?」
「こう、無理やりじゃねーけど自然でもねぇっつーか」

上手く言えないもどかしさを抱えながら教室に戻る。珍しく静かについてきた及川が椅子に座りながら、一言一言選ぶように口にした。

「似てるって言われたあとでこう言うのはなんか気が進まないんだけどさ…
本人が意識してるかどうかはおいといて、どこか演じてる、みたいな?」

演じてる。

まあ俺の場合はある程度自覚があるけどさ、と続けた及川の言葉をなぞる意識が鈍く停滞した。
重ねて言うが、名字と俺はさして親しいわけじゃない。だがクラスが同じだった去年の彼女を思い出せば思い出すほど、その笑顔に微妙な違いがあるのは今に始まったようには思えない気がする。
俺はやはり釈然とせず首を捻った。

150402
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