二度とは還らぬ

「莉子ちゃん、お姉さんお迎えに来てくれたよー」
「、」

ぱ、とこちらを見た莉子がクレヨンを片付け鞄を掴み、ぱたぱたと駆けてくる。それをしゃがんで抱きとめると、柔らかい温度が胸一杯に広がった。

「お帰り莉子、楽しかった?」
「…」

肩越しに上下する小さな頭を撫でて立ち上がり、先生に頭を下げる。

「お世話になりました。明日もよろしくお願いします」
「お迎えご苦労さま。ええ、明日もどうぞお任せくださいな」

お勉強は大丈夫?小声で尋ねた先生にちょっと笑って頷く。本当は少し成績が落ちた。でも構わない、むしろいい機会だ。奨学生で居続けるだけの成績は十分保っている。
テストで一番を取るより大切なことがいくらでもあることを、私は理屈として頭で理解するだけではなく、事実行動して示す必要がある。

「今日はオムライスにしようか」
「、……」

こくん、頷いた妹の小さな手を引いてスーパーに向かう。午後6時、迎えの最終時間に莉子を引き取り、スーパーに寄ったり寄らなかったりしながら帰って夕食を作る。それが、二年ほど前から続く私の放課後だ。




「莉子、トマト洗ってレタス千切れる?」

小さく頷いてプチトマトを洗うため足台に立つ妹の横でケチャップライスを炒める。タマネギと人参、ベーコンとピーマンを混ぜ込んだケチャップライスに卵を乗せる、それが母が作り私が覚えたオムライスだ。

帰宅は大体6時半。家に帰って夕食を作り、莉子と食べて片付ける。莉子を風呂に入れ自分も入浴を済ませ、風呂を洗い洗濯機を回す。
それが終われば9時過ぎには莉子を寝かしつけ、少しゆっくりして、12時まで勉強。寝る前に夜干して就寝。
初めは酷く疲れたものだが、今では立派に日常となったルーチンワークのあらましだ。

我が家に父親なる存在はいない。娘二人を養う母さんは昼過ぎから働きに出て日を跨いだ真夜中に帰ってくる。
莉子の朝の送りは母さんがしてくれるが、夕方の迎えは私の任務だ。一般に比べてやや特殊でかなり融通のきく幼稚園であるため、迎えに行く時間も学校が終わる4時半から1時間半足した6時頃。
本当は妹の相手をするべきところなのだろうが、幼稚園の先生方の提案に甘え、私はその空き時間を予習や復習のための貴重な時間に割いている。

ぺた、と小さな足音がして、私は広げた英語のテキストから顔を上げた。振り向くと本棚の傍、パジャマ姿の妹が立っている。
目の前には何冊か並んだ絵本の背表紙。莉子はただ突っ立ってそれを眺めているばかりだ。私にはそれが読みたいからの行動なのかどうなのか、確証を得る手段が無い。

「莉子、何か読もうか?」

立ち上がり、小さな体の傍まで行って隣にしゃがむ。ゆっくり私を見上げた大きな瞳に、一瞬時が止まった。

真っ暗な瞳。光を反射するだけの、空っぽの漆黒。

「……じゃあ、…これにしようか」

声がブレた。平静を装い本を抜き出しながら、私はタイトルすら確認せず選んでいた。
小さな手を引きテーブルの傍に座る。何か言葉を掛けるべきだろうか。黙っていることが気遣いある見守りなのか、単なる逃げなのか、私にはそれも見分けることが出来なかった。

「むかーしむかーし、あるところに…」

小さな妹は大人しく傍に座って絵本を見つめている。私は浮遊しそうな意識を握り締めながら、ひたひたと忍び寄る実感が私の首をゆっくりと締め上げるのを感じていた。


良い姉だと、よく言われる。
近所の人にも事情を数少ない親戚にも、私という存在は忙しい母を手伝い小さな妹の面倒を見る孝行娘として映る。
事実それは私が自分で決意し目指したものであるのだから、その評価は有り難いだけでなく、私のやってきたことに対する他者からの承認でもあるはずだ。

けれど彼らは知らない。その小さな妹が時折、何の前触れもなく、以前のように表情も瞳の色もどこかに落としてきてしまうことを。
私はその度、ただ気づかぬフリをしていつも通りに接する以外に術を持たないことも。

痛い、辛い、悲しい、嬉しい、楽しい。莉子にはそのどれも、自分で捉えて上手く形にすることが出来ない。
今でこそかなり表情から読み取れるようになったし、拙いながら言葉にすることも増えた。
けれど不意に、あの虚ろな表情が現れる度に、この子は未だ底知れぬ深い闇に半身を浸したままなのだと思い知るのだ。

私には莉子の本音も望みも、なったこともない“姉”になる方法も真実にはわからない。

自分の覚悟の本質が自己満足の境界線と曖昧になっているとしても、それさえ自覚出来るか危うい中で、私には“姉”の理想像を模倣することしか出来ない。

姉妹ごっこ。
幼い子供がお姉さん気取りで女の子の人形を連れ回すより、ずっと屈折してゆがんだ姿を連想する。


「…でした。…莉子、眠い?」
「…、」

こくり、幼い妹は頷く。
イエスかノーか、それを教えてくれるようになっただけで御の字なのかもしれないけれど。

小さな頭をただ見下ろしながら、私は寒々しい矛盾と閉塞感で指先が冷えてゆくのをじっと耐えていた。

私はきっと、この子の本物の姉にはなれないのだ。

To be.
150415
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