極彩色の勘違い

「…ん?ねえ岩ちゃん、あれ」
「あ?」
「名字さんじゃない?あの、小さい子連れてる子」

帰り道、もう随分日の暮れた道の前方、街灯の下に浮かび上がった人影を及川が指差して言った。言われて初めて気付いたそこには、白熱灯に照らされた華奢な後ろ姿が二つ。青城の制服の背にはリュック、左手には買い物袋、右側には小さな体が寄り添って歩いている。

二人のかなりゆっくりした歩みに難なく追いつき、後ろから声をかけた。

「名字」
「、あ」

くるり、振り向いた名字が驚きで目を瞬かせた。さっとその細い脚の後ろに引っ込んだ少女が、はたとこちらを見て俺たちが誰か思い出したのか、ぐりぐりと大きな目で見上げてくる。

「やっほー名字さん。家こっちなんだ、今帰り?」
「うん。二人も今帰り?遅くまでお疲れさま」
「ありがとー」

本人いわく爽やかな、俺には軽薄にしか見えない外行きスマイルの及川に、名字はいつもと変わらない穏やかな笑みで応じる。
重たげな買い物袋を持ち直す姿がやや気になったが、それより先に聞きたいことがあった。

「名字は委員会か何かか?」
「うん?いや、何もないけど…」
「ならいつもこの時間なのか?ほとんど俺らと変わんねーぞ」
「今日は少し遅いけど、だいたいこの時間だよ」

及川がしゃがみこみ、莉子と視線を合わせてヘラヘラ笑ってみせる(莉子は名字の影にますます引っ込んだ。及川ざまぁ)。その光景に視線を投げた名字はくすくす笑って何気なく言うが、俺は眉間に皺が寄るのがわかった。
買い物帰りなのに制服姿の彼女と、同じく幼稚園の遊戯服のままの莉子。日暮れからかなり経ったこの時間にはやや不釣り合いな組み合わせだ。

そんな俺の不審を読みとったんだろう、俺が口を開くより早く名字がやや躊躇って言った。

「6時にこの子を迎えに行って、そのまま買い物して半に家に帰るのがスタンダードなんだ。今日は買い物ゆっくりだったから、普段より20分ほど遅めかな」
「…そうなのか」
「4時半でも迎えに行けるんだけど、先生方のご好意に甘えて6時に。勉強時間のためにって」

どこか後ろめたそうに語る姉を、足元の莉子がさっと顔を上げて伺い見た。その視線を拾い損ねることなく向き合った名字は、安心させるように妹の真っ黒の髪をかき混ぜる。

「大丈夫だよ、莉子。なんともないから」

その声音に、指先に、あの形容しがたい慈愛が滲んで、一瞬目が離せなくなる。
まただ。それはきっと、愛おしげな、なんて言葉が似合うまなざしだ。

「親御さんは…忙しいのか?」
「うん。うちは三人家族で、母親は看護士だから夜勤が多いんだ。だから、昼間は莉子のことは私が担当」

名字が買い物袋を右手から左手に持ち替える。取っ手が食い込み真っ赤な跡をこしらえた手のひらが見えて、一も二もなく手を伸ばした。これを見逃したら男じゃない。

「貸せ。持つ。んで送る」
「え?」
「あ、岩ちゃんパス。莉子ちゃん抱っこしてあげれば?」
「、おう、そうする」
「はいはーい」

非常に癪だが、こういう時及川という男は本当によく俺の性質を理解している。いや、俺は及川ほど面倒かつ扱いづらい性格ではないし、むしろ割とわかりやすいタイプだと思うが、他なら一言必要な連携もコイツには前置きが要らないのだ。

及川が買い物袋を手に取り、俺は名字の後ろに立っていた小さな妹を抱き上げてやる。
まるで人形のように何の抵抗もなく抱き上げられたこの少女は多分、混乱すればするほど無抵抗かつ無反応になるらしい。
変に大人しくなった妹を見て慌てる姉を見れば何となしにわかって、莉子の背を優しく叩いてやった。

「莉子、家ついたら姉ちゃんに返してやっから心配すんな」
「あの、待っ、何を」
「名字も黙って甘えとけ。そもそもこんな暗い道、女だけで歩かせられるか」

荷物と妹を質にとられた名字が、目を見開いて言葉をなくした。酷く戸惑った顔は言われた意味がわからないかのように俺を見詰める。…そんなに驚くようなことか?あの腰の低さからして遠慮するのはわかるが、遠慮より困惑に近い様子の彼女に、こっちの方が首を捻る。
だがそんな姉に妹が反応し、もぞもぞ腕の中で動く素振りを見せると、彼女ははっと我に返って食い下がった。

「でも、部活帰りなのに」
「名字さんち、そんな遠いの?歩いてどれくらい?」
「…15分はかかるよ」
「でも方向こっちでしょ?変わんないから気にしないで、どうせ道一緒だし」
「そうだぞ。今日も朝不審者情報あったっつってたしな」
「……ごめん、ほんと、わざわざ…」
「もー、そういう時はありがとうって言うんだよ」

へらへら笑う及川に今ばかりは賛成する。名字は俺の腕に収まる妹を見、及川を見て、それからようやく「…ありがとう」と小さく言った。

莉子は瞬きすら惜しむように姉を見ていたが、それに気付いた名字は手を伸ばし、俺の顔の真横にある小さな頭を撫でる。
「莉子、よかったね」と優しく微笑まれ、少女はこくんと頷いてみせる。

「ちゃんと掴んでろ。落ちるぞ」

大きな瞳を見やって言えば、純一な黒をしたそれがこちらをまじまじと見つめ、それから片手ずつ順に俺のジャージを握る。相変わらず未知に挑むような慣れない手つきが可笑しくて笑うと、莉子はぱちぱちと瞬きして俺を見上げ、それから名字を見た。

「…ねーね、」
「、うん?」
「……おなまえ、」

喋った。いやそりゃ喋るだろうけど、何というかすごく珍しい。
ごくごく小さく可愛らしい声に面食らう。だが何を言いたいのかはわからず、及川と揃って顔を見合わせていたら、名字が一人さも当然のように応じた。

「お兄ちゃんはね、上のお名前はいわいずみっていって、下のお名前ははじめっていうんだよ」
「ああ、俺の名前か」
「!はいはい、俺は及川徹だよー!とーるお兄ちゃんって呼んでね、莉子ちゃん!」
「変態くせぇこと言うなクソ川、バカが感染る」
「うわひっど!?岩ちゃんが傍にいる方が教育上よろしくないでしょ、口が悪「…にーに」いのとかイチバ…ン?」
「……え。」

一斉に足を止めた高校生三人が幼稚園児を凝視した。幼いながら綺麗な顔立ちの中、くりくりした大きな目が純真無垢な光を湛えて自分を抱く男子高生を見詰めている。
その小さな桜色の唇は意を決したように開かれ、愛らしい声音が確かめるように再び呼んだ。

「…はじめにーに、」
「「「っ…!?」」」

がつん、鈍器で頭を殴られたような、なんて陳腐な表現がよく似合う衝撃が走り、間違いなく一瞬茫然自失になる。
「にーに」って。なんだ「にーに」って。膝から崩れそうになるのを耐えて思う。これが天使か。

「かわ…っ」
「うわああ岩ちゃんずるい!!岩ちゃんが照れたって全然可愛くないんだからね!莉子ちゃん俺も!俺もにーにって呼んで!」
「あああ莉子待ってそんな馴れ馴れしい呼び方…!」
「てめーこそ可愛かねーしキメェわ!つーかいちいち一言多いんだよクソ川!」
「く…?」
「ああああ違うから!違うからね莉子!?とおるにーにだからね!?」
「ヤメテ岩ちゃん莉子ちゃんが下品な言葉覚える!!」
「悪い莉子忘れろ、及川の存在自体忘れちまえ」
「それどういう意味!!」

近所迷惑も甚だしかったに違いない帰り道の15分は全て、いたいけに首を傾げる幼い少女の記憶から及川の愛称(?)を抹消するために費やされた。最終的に「とーるにーに」を覚えた莉子に悶える及川には、普段通り容赦なく蹴りを入れておいた。

だが突然の兄貴認定に加え、名字に渡そうと腕を離しかけた俺を見上げた莉子の、心なし眠たげな顔と「…にーに…」の一言は十分破壊的だった。
及川に言っておいて何だが、一瞬開いてはいけない扉が開きかけたのは気のせいだと信じたい。

「またな、名字、莉子」
「またね〜」
「うん、また明日。岩泉くんも及川くんも、本当にありがとう。…莉子、お礼は?」

小さな妹を抱いた名字が柔らかな声音で促す。それはあの聞いているこっちがくすぐったくなるほど優しい甘さに満ちていて、不意にまた何かが引っ掛かった。
きっと何ら深い意味のない好奇心からだ。その声が自分に向けられたらどんなだろうだなんて思いが胸をよぎり、俺は思わず頭を振った。何おかしなこと考えてんだ。

「…にーに、ありがと」

精一杯の勇気を振り絞ったのだろう、俺と及川の両方を見て言った莉子は、もぞもぞ動いて名字の肩に顔をうずめてしまう。その様子を見て嬉しそうに笑った名字は、妹を抱き直し、そのままの淡い笑みで同じように俺たちに手を振った。

「ありがとう、また明日」

自然に傾げられた首、耳元の黒髪がさらりと肩に落ちる。視線が絡んで、どくり、心臓が跳ね上がった。

こういうのを確か、何ていうんだっけか。世間一般じゃ、…いやまさか。

140423
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