逝き急ぐ銀河系

きっかけは恐らく、晩のテレビで観たスポーツニュースに違いない。

いつもより食事を早く終え、課題を済ませた私は、読み聞かせをしたり一緒に折り紙を作ってみたりと普段より時間を取って莉子に構っていた。
寝る少し前、明日の天気を確認しようとたまたまつけたテレビでは、天気予報ではなくスポーツコーナーをやっていた。そこに出てきた大学バレー特集を見て、テレビを見やった莉子に、「はじめにーにととおるにーにもおんなじのしてるんだよ」と何気なく言ったのだ。

くるり、莉子にしては素早い反応だった。振り向いた大きな瞳はいつになく物言いたげで、けれどテレビから歓声が聞こえるとすぐに顔を戻した小さな妹は、結局画面が野球の試合結果に移り変わるまでテレビを凝視していた。

そうして翌朝の今日の食卓にて、自己主張どころか話すことさえ一苦労な莉子が、まさに玉砕覚悟といった面持ち(当社比ならぬ当家比だが)で、スプーンを握り締めたまま言った。

「…にーに、見たい」
「よし、姉ちゃんに任せな」

朝一番に顧問の先生に交渉してこようと決意した私は相当の姉バカに違いない。自覚はある。






「莉子、いい?絶対姉ちゃんの傍を離れないこと。わかった?」

さらにその翌日である今日、私はいつもより一時間早く莉子を迎えにゆき、Uターンして学校に戻ってきていた。可愛い妹の稀にみる自己主張だ、ワガママと呼ぶにも控えめなそれを叶えるためなら、使える手は全て尽くす所存。シスコン上等、ドンと来い。

「知らないひとにもご挨拶ね」

莉子は普段にない反応の速さでこくりと首を縦に振った。これはなかなか見ない反応だ。やや興奮気味らしい妹の手を引き、まだ練習中であろう体育館に向かいつつ思う。

土下座の一つこなしてみせると勇んで参った朝一番の職員室、バレー部顧問の先生は驚きこそしたものの二つ返事で了承してくれた。なんでも及川くんのファンで部全体がギャラリー慣れしているし、時には他校の女子も見学に来るらしい。私がきちんと傍についていさえすれば問題ないという。

部活中の生徒たちからちらちらと向けられる視線を、いつもとは逆に莉子よりむしろ私の方が気にしつつ体育館の入り口に足を踏み入れた。

「あれ?岩泉の…って、そのコ確か」
「、あ」

ぬ、と上から覗き込まれて思わず足が竦む。地毛というにはやや明るいピンクブラウンの短髪と、涼しげな目元。確か、

「えーっと…花巻くん?」
「、俺のこと知ってるんだ。岩泉から?」
「うん。多分知ってると思うけど、この前迷い込んだうちの妹」
「あーやっぱり?カワイー妹ちゃんだネ。お名前はー?」

へらっと笑って覗き込んできた花巻くんに、莉子は一瞬怯んで私の後ろに隠れようとした。そこを何とか背中を押して防ぎ、約束した通り挨拶するよう眼で促す。
やや驚いたのち戸惑い気味にこちらを見る花巻くんにそのままで、と口パクで伝えると、彼は何事かを察してくれて、かつ根気強く妹の反応を待ってくれた。
真下の小さな少女は全身の勇気を振り絞るように息を吸い、ようやく口を開く。

「……莉子…です」
「お、莉子ちゃんか。おにーさんは貴大デス。よろしくネ?」

私の足にしがみついたままの莉子は眼をぐりぐりさせて花巻くんを見詰めていたが、最後まで眼は離さずこくりと頷いた。私は花巻くんにお礼を告げる。

「ありがとう花巻くん、この子すごい人見知りで時間がかかるの」
「やー焦った。何事かと思ったわ」
「あはは…って、あ、先生」

私は急いで花巻くんに一言断り、入り口から現れた恰幅のよいジャージ姿の先生に足早に近付いた。もちろん莉子の手を引いてだ。

「先生、あ、監督」
「ん?おお、名字か」
「お邪魔しています。今日は見学をお許し頂きありがとうございました。ご挨拶出来ればすぐギャラリーに移動しますので、」
「いやいや構わんよ、そう畏まらなくていい。朝も言ったが見学者は珍しくないし、移動も練習が始まってからで十分だ。ただ流れ弾には気をつけてくれ、妹さんは特に小さいからね」
「…!お、お気遣いありがとうございます」

勝手に体育館に入ってしまったのを謝ろうとしたところで思わぬ心遣いを受け、私は深々と頭を下げ直した。横で莉子が私を真似してぺこりと腰を折るのが見える。
私のスカートの端を握ったままの莉子に、監督さんは孫を見るような目で微笑んでくれた。

「ゆっくりしていきなさい」「……はい」
「!」

莉子は目を合わせたまま、珍しく私が促すより早く返事した。監督は笑みを深くして頷き、コートの近くへ歩いてゆく。私は再び頭を下げ、ギャラリー席に向かうため踵を返した。

「…名字?」
「あ、岩泉くん。お邪魔してます」

階段を登る寸前、ちょうど体育館倉庫から出てきた岩泉くんに思わず足を止めた。彼は足元の幼い妹を見ると目を見開き、「見学か?」と尋ねる。私はちょっと笑って頷いた。

「そうなの。昨日バレーのニュース見てたとき、はじめにーにもバレーしてるんだよって話したら、見たいって言い出して」
「っ、おお…そうか」

一瞬たじろいだ岩泉くんが視線を泳がした。私何かしただろうか、と思ってハッとする。…今私流れでにーに呼びしなかったか。エッ何それ恥ずかしい。
家ではこの子に合わせて呼んでるからそれで、と弁解すべきか迷い、しかし決断する間もなく、彼はちょっと照れたように首裏を掻くと、莉子の前にしゃがんで視線を合わせてくれた。

「よく来たな、莉子。兄ちゃんのことちゃんと見てけよ」

――――あ。
あふれるような、なんて言葉が似合う優しさに満ちた声に、一瞬息が詰まった。

莉子の頭を撫でる厚い手に滲む温もり。悪戯げな笑みの中で細められた瞳には、見せ掛けでは作り得ない穏やかな色が湛えられている。

心臓が揺れる。呼吸が苦しい。
なんて優しい瞳をして、人を見るひとなんだろう。

「…うん、にーに、見る」

こくり、莉子が頷く。まるで一秒でも惜しむように彼の瞳をじっと覗き込む幼い妹を見て、つい数日前の表情の欠落を思い出し、ぷつり、どこかで張っていた緊張の糸が切れた気がした。

この子は見ている。人の眼に映る温度を、色を、普通より並外れて敏感に。
岩泉くんの優しさには裏表がない。呼べば応じてくれる、その純一な、真っ白な彼の温もりに、莉子はきっと直感的に惹かれたのだ。

兄ちゃん。何気ないその一言が如実に語る彼の愛情、そう、愛情と呼ぶべきその感情に、心臓が急に痛くなる。どっと押し寄せる衝動に耐えきれなくて、気づけば妹の頭から手を離し立ち上がった岩泉くんの手を夢中で取っていた。

「い、わいずみくん!」
「っ!?な、なんだ?」
「あの、その、莉子に、」
「お、おう…?」
「莉子に、…お、お兄ちゃんが出来た、みたいだ」

ちょっとまて自分。
完全に支離滅裂だった。我に返って頭が真っ白になる。落ち着け私今何て言った?何の感想文だ、何の言語崩壊起こしたんだ私。

あまりに酷い文脈破綻に恥ずかしさで顔が火を吹いた。俯いた先には彼の手と、それを握る自分の両手。一度意識したそれは大きくて固くて、指先がじんじん痺れるほど彼の指先や手のひらの感触を伝えてくる。
男のひとの、手だ。

「ご、ごめん、変なこと言った。あー、その、深い意味はなくて、だから」

穴があったら埋まりたい。そしてしばらく冬眠したい。
羞恥心に絞め殺されそうになりながら火照った顔を俯かせ、がちがちになった指を引きはがすようにして手を離す。だが彼の手は一瞬ぎこちなく宙をさ迷った後、持ち上がって視界から消えた。
突然、頭に乗る知らない温度。

「…お前、やっぱそっちの顔のがいいな」
「、え」
「名字ってよ、大概姉貴の顔ばっかしてんだろ。けど俺はそうやって普通に笑ってる方がいい思う」

言われた意味が一瞬わからなかった。

さっきまで莉子の頭に乗っていた大きな手が、私の頭を、その下の思考をかき回す。心地よい低音、笑みを含んだ声音。
思わず顔を上げた。注がれる眼差し、その凛々しい瞳の帯びる温もりが、致命的な熱となって心臓の奥底まで突き刺さった。

燻る心臓が破ける。踏み込むべきではないと騒ぐ直感(でも何に?)。どろりとした何かが溢れ出す錯覚。脳みそがけたたましい警鐘を鳴らすのに、その甘い―――そう、甘い温もりに、ずっと浸っていることを望む自分がいる。

「あ……、」

触れあう場所から焦げ付きそうな私に構わず、頭を撫でる手は止まない。策も言葉もないまま立ち尽くす私の鼓動は、どくり、誰かに強く握られたように大きく脈打った。

「名字も見てけよ、ちゃんと」
「…う、ん」
「…ただ、俺ァお前の兄貴になる気はねぇからな」
「え?あ…うん。それはもちろん…」

惰性で頷きながら、自分の中で相反する感情がせめぎ合うのがわかって困惑する。
何故だかわからない。距離を開く言葉に安心する自分がいる。何故だかわからない。開いた距離を惜しく思う自分がいる。
大きな手が離れてゆく。矛盾するその感情のどちらが勝ったのかは、あー、と言葉に困って頭を掻いた岩泉くんの顔を見れば瞭然だった。

「ちげーよ、んな顔すんな。そんな意味じゃなくて、」

いつも迷いのない物言いをする彼らしくなく言いよどんだその声は、集合を知らせるホイッスルの長い音に遮られた。コートの方を見やった岩泉くんはちょっと顔をしかめて、まあいいか、と呟く。私はくしゃくしゃになった髪を少しだけ整えた。

「今日なんか用事あんのか?」
「よ…用事?いや、ないけど…」

この流れはまさか。何を聞かれるか読めた気がして焦る私に、案の定彼は言った。

「なら部活終わるまで待てるか。送る」
「いっいや!この前だってそうやって…悪いよそんな、」
「俺がしたいっつってんだ、お前は許可するだけでいい」
「っ…!」

ああ、まただ。
ずぐり、焦げつく心臓が燻り出す。近づいてはいけない。触れてはいけない。何に対してなのかわからない防衛本能が悲鳴を上げるのに、全身を巡る熱が駆り立てる欲求だけは明白に見えている。

触れたい。
彼の温もりに、優しさに、もっと深く。

どうしてこんなに息が苦しいんだろう。ただただ困惑して、駆け上る熱に振り回されそうな私の代わりに答えを出したのは、スカートを引っ張る小さな手だった。

「にーに、いっしょ…?」
「!莉子、」
「おう。兄ちゃんと一緒に帰ろうな」

私が応じるより早く、岩泉くんが返事する。莉子は唇をむぐむぐさせ、私のスカートを握り締めて頷いた。それを見てしまった私に、もはや逃げ道は残されていない。

心臓が揺れている。この熱を冷ます方法がわからない。

コートに駆け戻る彼の背中がどうしようもなく格好良く見えて、けれどなぜだろう、そんな自分のことがどういうわけか恐ろしかった。

To be.
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