不可逆性を嘯け

それは突然のことだった。

「…なんだ、これ」

重く暗い雲が垂れ込める、風の強い日のことだった。二日すれば台風が来るという予報通り天気は下り坂。今日は幼稚園が大掃除のため午後から閉園で、莉子は先生に連れられ昼過ぎに家に帰ることになっていた。

母が仕事を休めないため夕方まで莉子は一人で留守番になる。私はいつもの放課後の自習時間を取らず、授業が終わるとすぐ真っ直ぐ家に帰った。

そうしてドアを開け、ただいまを言いながらリビングに足を踏み入れた時、私を待っていたのは嵐の去った後のように散らかされた部屋だった。

「何が…?」

ちょっと思考が追い付かない。登校前はそれなりに片付いた部屋だったのに、なぜこんな。

本棚の本は手当たり次第に出され、引き出しの中身は床に散らばり、洗濯物はぐしゃぐしゃになって積み上がっている。
開け放たれた窓から吹き込む生暖かい風がカーテンを不気味に靡かせ、その向こうにはベランダに放り投げられたクッション。

ただ立ち尽くして部屋を見渡し、ある一点に目が止まった瞬間、真っ白になっていた思考に稲妻が走った。

「―――莉子」

ソファの影、座り込む小さな体。
否、それは座り込むなんて言い方じゃ間に合わない。まるで床に散らばる洗濯物のように、無造作に投げ捨てられたかのような、そんな。

「…莉子?どうしたの、これ。誰か来たの?」

胸騒ぎがする。背筋を駆ける冷たい悪寒。
震えそうな足で駆け寄り小さな肩に手を伸ばし、息を呑んだ。幼い妹の小さな手は血まみれだった。

「これ、手、」

小さく捲れた皮、細かい切り傷。どれも血自体は乾いていて傷は大きくない。
けれど何より目を引いたのは、二重にも三重にも刻まれた、生々しい歯形の鬱血だった。…この子の、莉子自身の歯形だ。

この子がやったのか。

再び部屋を見渡して愕然とする。そうか、食器棚が無事だったのはこの子の背丈じゃ届かなかったからだ―――…。

「…莉子、どうしたの」

覗き込む横顔に表情はなかった。鎮座する虚無。がらんどうの瞳は、開け放たれた窓の下、風に踊るカーテンを映して静止している。
これ、確か、あの時の。

心臓が冷たく波打つ。キン、という耳鳴り。コマ送りに再生される映像がちかちかしながら眼前に迫り眩暈がする。罵声、振動、母の声。壊れたラジオのようにぶつ切りになった騒音が神経を掻き回す。天井と家と血の臭い。

「…っ、」

違う、これは私の話だ。この子とは何も関係ないだろう。
猛烈な吐き気がして身体を折った。せり上がる胃液を無理矢理押し止めるのがやっとだ。耐えなければ。でないとあの時と、あの家でしたのと同じになる。

「…莉子…っ」

スムーズに命令が行き届かない腕を持ち上げて、小さな身体を抱き寄せる。妹の存在を、自分の身体の居場所を確かめつつ、どうしようもなく震えながら吐き気に耐えた。

あの時は昔の家で、傍には母さんがいてくれた。けれど今、ここは私の家で、逃げ出す先の場所はない。この子を抱き私を連れて、飛び出してくれる人はいない。

唐突だった。どうして。ずっと調子が良かったのに。この前なんか人見知りのこの子がバレー部の見学に行きたいだなんて言って、珍しいほど饒舌になっていた。本当に楽しそうにして、岩泉くんや花巻くんにも優しくしてもらって、何も…何もおかしなことなんて無かったのに。

「莉子、莉子、どうしたの。何がくるしかったの」

返事はない。反応もない。
私、この子の何を見落としてたんだ。

スイッチが切れたように表情がブラックアウトするまで、莉子、おまえは何を抱えていたの。ここまでなるまで、どうして私は気づいてやれなかったの。

「莉子、」

幼い妹は答えてくれない。ただ強まる風に踊るカーテンを無感動に見つめて、微動だにしない。酷い胸騒ぎと不安で心臓が押し潰されそうになる。

母さんが帰るまで何時間だろう。それまで私、どうすればいいんだろう。

己の無力さを思い知る。この子の心をどっぷりと染め上げる闇の深さを思い知る。
兄ちゃん、と自分を称してくれた岩泉くんの顔が脳裏をよぎって涙が滲んだ。慈しみを帯びた綺麗な瞳、愛情の溢れる温かな声。

「…いわ、いずみ、くん」

言葉にして吐き出した彼の名前が、私の喉を締め上げた。彼の眼差しが、手の温度が、優しさがどうしようもなく恋しかった。
ここに彼がいてくれたら。そうすればきっと、私なんかよりもっと勇敢に、的確に、彼はこのどうしようもない閉塞を打ち破ってくれる。大丈夫だ落ち着け、そんな一言できっと全ては上手く回り出すのに。

私に出来ることは、風に晒され冷え切った小さな身体を抱きしめて、この子の心が戻って来るのを必死に祈り続けることだけなのだ。たとえそれがどれほど無力で愚かしいとしても。

To be.
150510
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