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「あ、」
「ん?」
「アレ」
「、お。岩泉見に来たんだ?」
「多分な」

今日も今日とて我らが主将目当てに集ったギャラリー達の後ろ、綺麗に結ったり巻いたりした長い髪の中に、やや異色の短髪が映える。
人工的な巻き髪には成し得ない緩く波打つ黒髪と、その下の落ち着いた面持ち。それはついこの間それはもう傑作な…いやなんというかマジで、外野としては腹抱えて笑えるレベルの紆余曲折を経て岩泉の恋人となった、名字名前のものだ。

あーあこれだからリア充は羨ましいことで。
さて、青春真っ最中の副主将にからかいの一つでもふっかけに行こうか。なんてニヤニヤしつつ方向を変えようとした花巻の爪先を止めたのは、名字とその横に並ぶ何かと危なっかしいあの友人の様子だった。

会話の内容は聞こえないが、何事かを熱心に話す友人に、名前は黙々と耳を傾けながら一言二言返すばかりで笑みはない。ついに万策尽きたとでも言わんばかりに困った顔をした友人が、所存なさげに視線を落としたのが見えて、花巻と松川は顔を見合わせた。どうやら単なる彼氏の部活を見学しに来ただけの可愛らしい話ではないらしい。

部活はまだ完全には始まっていない。今は各々アップを始めたり終えたりと、部員の様子はまちまちだ。
体育館を見渡せば、当の副主将は黙々とアップに取り組んでいる最中だった。

「岩泉、まだアップしてるな」
「気付く前にちょっと聞いてみっか」

実は大した話じゃないかもしれないし、岩泉に知らせるのは様子を見てからでいいだろう。思って二人はふらりとコートを離れ、体育館の入り口でまだ何やら話している少女達の方へ近付いた。

「…名前、だからそれは…」
「よっ名字。お友達ちゃんと見学?」
「、花巻。ちょうどよかった」
「?」

何話してんの、と言うより早く、名前が乗り掛かった船とでもいうように花巻を捕まえる。なんだなんだと見てみれば、その手にはプリントをまとめたファイルが一つ。

「監督さんに渡すよう、うちの担任から頼まれた。今お会い出来る?」
「…、まあ、呼べるっちゃ呼べるけど…用事ってもしかしてソレだけ?」
「?うん」
「「………」」

至極当然のように頷く名前に、一瞬形容し難い沈黙が場に流れる。その横に立ち尽くす友人を見やると、彼女は実に途方に暮れた顔をして二人を見返した。まさに「言ってやってくださいよ!」と言わんばかりの表情に、二人は事の成り行きを察知して生温い目をした。
つまり結論から言って、名字名前は相変わらず名字名前であるということである。

「はい名字名前サン、質問デス」
「?」
「アナタは岩泉一のカノジョですネ?」
「はい、私はそうです」
「何その英語の例文みたいなやりとり」
「じゃあ普通の練習とは言え、部活に勤むカレシの勇姿を見学して帰るって選択肢はナイの?」

アイツ、喜ぶと思うけど。

花巻はどっと疲れるのを感じながら、からかい一割、呆れ三割、岩泉への同情六割の笑みを浮かべて付け加えた。
同じくぐったりした様子で肩を落とした友人を見て苦笑する松川も、及川に檄を飛ばす岩泉の声を聞きつつ思う。これはからかってやるのも気の毒だ。今や戦意喪失どころか憐れみの気持ちで一杯である。

名前は基本的には常識人だ。成績は優秀、課された仕事は必ず果たす責任感と真面目さには定評があり、しゃんと伸びた背筋は不義を否む彼女の芯を彷彿させる。表情こそ多彩ではないが無表情でもなく、多弁ではないが無口でもない。まず相手に耳を傾ける姿勢は好ましく、自分の感情の手綱を握る冷静さもある。

そんな目立ちこそしないが知る者には一目置かれる存在である名前の最大の欠陥こそ、この唐突に炸裂する常識の崩壊である。

普段は感心するほど思慮深いのに、突然人を心肺停止にするような発言をしてみたり、いっそこっちの常識が間違っているのかと不安になる自然さで皆の度肝を抜くような奇行に出るのは序の口だ。
何より問題なのは本人が至って真面目であり、彼女の思うところの正しい選択をしたまでであって、全く以て悪気がないことである。

そんな彼女のぶっ飛び具合はこと恋愛沙汰においてはさらなる磨きがかかるらしく、初めのころは度重なる不意打ちに赤面し、想像を越える行動パターンに振り回される岩泉を見るのは一度や二度のことじゃなかった。その度に本当に申し訳なさそうに謝る名前を、せめてもの照れ隠しに苦い顔を作った岩泉が、しかし結局はため息一つで許してやる姿も。

とは言えさすがと言うべきか、彼も今でこそある程度慣れてきたらしく、仲間たちの前で真っ赤になって黙り込む姿を見ることは減った。そもそもそれさえなければ普段は実に落ち着いた付き合いをしており、及川からはよく子供じみた僻みをぶつけられすらしている似合いの二人なのだが。

そんなことをつらつら考えていた花巻の思考を引き戻したのは、解決したとばかり思っていた案件を根底からひっくり返す名前の返答だった。

「ううん、ない」

…ワッツ?

松川と花巻は名前の友人を見た。そして、半笑いで首を振る彼女の苦労の片鱗を察し、松川は思わず自分より頭二つ小さい彼女の頭を撫でてやる。
突然のスキンシップで真っ赤になる友人の彼女には気付かず、松川は花巻と目配せした。岩泉を見ているだけで幸せだと照れもせず断言した名前が、その彼の部活の見学の誘いに対し一体何を思ってNOを出したのか。
俺たちには理由を聞く義務がある。断じて野次馬ではない、純然たる親切心である。

「…その心は?」
「私が見に行くと、彼の調子が悪くなる」
「調子?岩泉の?」
「私に気付くまでは普通にしてるのに、一度目が合うとミスが増えるの。この前も、二年生の部員さんが、なんか今日岩泉さん調子悪いっすねって」

淡々と落ち着いた声音はいっそ他人事に聞こえなくもないのだが、彼女との関わりが一番薄い松川でも、床に落ちた名前の瞳が陰るのがわかった。しかし一度決めた自分の決断を曲げないあたりが、名前の長所であり短所でもある。

「でもいいんだ。私、岩泉くんの一番のファンになりたいから、邪魔になるなら見に来ない」

乏しいなりに悄げた表情をした名前が心なし肩を落としながら、それでも揺るがぬ様子で言い切るのを見下ろし、二人はしばし沈黙した。それから松川が名前に尋ねた。

「それどんなヤツが言ってたの?」
「?確か、明るい髪の…ちょっと及川くんみたいな雰囲気の男の子」
「…矢巾か」
「俺ちょっと可愛がってくるわ」
「ほどほどになー」

さくさく歩み去った松川は、途中丁度こちらに気づいたらしい岩泉の腕を掴み、擦れ違いざま何事かを囁いた。ぴしっと固まり一瞬彼に食いかかりそうになった副主将を宥め、松川はそのまま二年生セッターの元へ歩いてゆく。ボール小脇に棒立ちしていた岩泉は、体育館の入り口付近で心なしうなだれた恋人と、その横で呆れたように笑って手招きするチームメイトを見て、観念したように歩み寄ってきた。
彼の接近に気付いた名前は肩を揺らし、珍しく所存なさげに身じろぎする。しかし岩泉は構わずぎゅっと眉間にシワを寄せたまま、花巻に短く言った。

「悪い花巻、五分で戻る」
「オッケー、誤魔化し込みで貸し一つな」
「ああ?…わーったよ、帰り何か奢る」
「やりー」

ニヤリと笑んだ食えないチームメイトに舌打ち一つ、岩泉は困った顔で自分を見上げる名前の腕を掴む。体育館の外に爪先を向けようとした寸前、思い出したようにその友人を振り向き言った。

「コイツ借りんぞ」
「えっ?あ、はい!どうぞ!」

要領を掴めていない名前を友人がぐいぐい押し出す。彼女の手にあったプリント類は既に抜かりなく花巻の手中に渡っているので問題ない。岩泉は彼女の腕を引いて体育館を後にした。
「あの」とか「岩泉くん、」などと戸惑った声を上げる名前が遠ざかるのを聞きながら、友人は肺を丸ごと吐き出しそうな溜め息をついた。

「はあああ……」
「おつかれサン、相変わらず振り回されてんね」
「あはは…名前に悪気は一切ないんだけどね」
「ま、大丈夫じゃない?アイツもだいぶ扱いに慣れてきたっぽいし」
「そうかなあ」
「青城の男前代表をナメんなヨ」

にやり、実に楽しげに口端を持ち上げる花巻を見上げ、友人の彼女は一拍置いて吹き出した。矢巾を可愛がって(という名目でイジって)くると言った松川も、そろそろ戻ってくる頃だろうか。






「あのな、名字」
「、はい」

きり、と佇まいを直して自分に向き直る恋人のやや緊張した面持ちに、掴んでいた腕をそっと離してやる。痛くないよう気遣いはしたが、その細腕をどんな力で引いてやればいいか、彼にはまだその微妙な加減が曖昧だ。
先ほどまで装っていた平静を一旦放り出した岩泉一は、何から言ったものかと首裏を掻いて思案した。

『彼女ね、自分が来るとお前の調子が悪くなるから、見学して行かないんだとさ』

愛されてんねー、なんて余計な一言と共に実に腹立たしい身長差からニヤニヤと投げよこされた松川の言葉が蘇ってくる。盛大につきたい溜め息と顔に集まる熱を堪え、岩泉は目元を覆って深呼吸した。落ち着け、コイツの突拍子のない不意打ちにもだいぶ耐性がついたはずだ。

「……まず訂正する。別に俺はお前が見に来るせいで不調になったりしねぇよ」
「でも、ミスが増える。集中の邪魔になってるよね?」
「う、…まあ…そりゃ」

…くそ、無駄によく見てやがる。

やりづらいよなあ。岩泉は苦く顔をしかめる。否、ミスの増減に気付けるほど見られているということは、実に彼氏冥利に尽きる喜ばしい話なのだろう。だがその事実自体が突発的不調の最大の原因であるということが、この肝心なところで抜けている少女にはわからないらしい。

わかってやってんならマジでシバくぞ、コイツ。
いつかも思った台詞を繰り返すも、名前の瞳は至って真剣だ。人の目に潜む打算の有無程度を見抜けぬ岩泉ではない。
しかし次の一手に迷う岩泉の沈黙をマイナスに捉えたのだろう、きゅっと眉根を寄せた名前はいつもより頼りない声で、しかし一言一言刻むように続けた。

「私はいつでも、岩泉くんの一番のファンでいたいんだ。だから、邪魔になることはしたくない」

俺が勝手に集中切らしてるだけだ、何もお前のせいじゃない。
すぐに言えるその言葉はしかし、十分な納得なしには彼女にとって意味のあるものにまならないだろう。
名前の顔が見えるよう少し屈んで、彼は噛んで含めるように尋ねた。

「…邪魔にならねぇっつったら、見に来んのかよ?」
「…それは」
「わかった、言い方変える。名字は、…俺んこと見に来たくねぇの?」

名前の肩が揺れる。ぱちんと噛み合う視線の先で、滅多にじっと見つめてなんてくれない彼の瞳に真っ直ぐ射抜かれて、名前はますます所存なく身じろいだ。
唇を開き、閉じ、また開いて、それから岩泉の練習着の端をきゅっと握った。蚊の鳴くような声だった。

「…みたい、けど」

名前は彼の笑顔が好きだ。ボールを追う真剣な眼差しと、体育館の床を蹴る高い摩擦音と力強い跳躍も見ていて心が踊る。振り下ろされる腕の逞しさと、仲間と交わす厳しく真摯なかけ声、時折休憩時間に響く騒がしい遣り取り。教室では見ることのない、けれどどんな瞬間より輝いているに違いないその横顔を見るのがとても好きだ。
だからこそ、それを自分の存在が邪魔することが許せなくて、悲しい。しかし彼女はやはり気付かない。懸命に言葉を選んで語ったそんな思いの丈の一つ一つが、ようやっと取り戻されたはずの彼の平静を木っ端微塵に砕ききったことに。

「だから、」
「…いい、わかった、わかったから一回黙れ。な?頼むから」

畜生これだからコイツは。

目の前の柔らかな癖っ毛を力任せにぐしゃぐしゃかき混ぜ、岩泉は名前の言葉を封じる。頼りなさげに練習着にひっかかる細い指のいじらしさと来たら。嫌でも顔に昇った熱を感じずにはいられない。

よくもまあこんなこっぱずかしいことを真面目な顔で語るものだ。やっぱり先制しておくべきだった。何事も先手必勝。叩くなら折れるまで。いや違うこれはクソ川の十八番であってあんな悪趣味な座右の銘はいらない。

つまり言いたいのはこの限定解除で発揮されるどうしようもない鈍感ぶりと渡り合うには本音勝負が絶対であり、それをもったところでして勝てる見込みは良くて五分、何だかんだで彼女が可愛く思えて仕方のない時点で、彼の負けは決まっているということだ。

「〜〜っあークソ!緊張すんだよ、お前が来たら!最後まで言わせんな察しろボゲ!」

結局放り出すように白旗を上げた岩泉は半ば八つ当たりするように言い捨て、小さな頭を肩口に押しつけ彼女の視線を封じ込んだ。
え、あ、とこぼれる彼女の戸惑った声は聞こえないフリをして、とにかく火照った身体の熱が引くのを待つ。
タイムリミットの五分まであと一体どれくらいあるだろう。思いながらようやく僅かに戻ってきた余裕で一息ついた彼の指が、沈黙を守る名前の髪を何気なく弄ぶ。艶やかでありながら空気を含んで波打つそれを、言葉にしないだけで彼はとても好ましく思っていた。

しかし不意に胸元に収まる華奢な肩の揺れを感じた彼の視線が、名前の元に落ちる。
見下ろしたところに収まる柔らかな黒髪、そこから覗く小さな耳が、じわじわと真っ赤に染め上げられてゆく。
岩泉は気付かれないよう最大限堪えながら、しかし全衝動を昇華させるつもりで溜め息をついた。

「…名前」
「っ、…はい」
「ちったあ自惚れろ、アホ」
「…うん」
「…そのうち慣れっから、要らねー心配しねぇで見に来い」

お前が来ると、緊張すっけどやる気出る。

「…うん、行く、はじめくん」

俯いたままの朱い耳を指先でなぞり、ぶっきらぼうに、けれど隠しきれない甘さを孕んだ声音で付け加えた岩泉に、名前は精一杯の思いで小さく応じた。

断じて言おう、名前は天然ではない。それは岩泉も承知している。彼女は七割方常識人であり、ただ往々にして残り三割の肝心なところでぶっ飛んでいるだけだ。
それゆえ彼女は本来、好きで仕方ない彼から不器用に甘やかされて赤面せずにはいられない、そんなごくごく普通の恋する少女なのである。


定義後日談を一つ。もう別ページを作れという話ですね…
150121
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