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T 少女Bの困惑


「ナマエ、持つよ」
「えっいいよ!これくらい平気」
「階段あるし、バランス崩した時が怖い」
「…わかった、じゃあ」

全治三週間を言い渡された右足首を見やり、私は溜め息をついた。忙しないわけではないが無駄もない友人の手が、私の教科書や辞書類を集めてゆく。周りの目を配慮し、ノートや筆箱なんかの軽いものだけは持たせてくれる彼女の細やかな気遣いに感謝した。ここ最近の移動教室はいつもこのザマである。

廊下をゆっくり進む。何気なさを装う気持ちの裏側で、近づく教室番号のプレートに言いようのない緊張が込み上げてきた。でもきっと大丈夫、名前が右側を歩くおかげで姿は見えないはず。

「、あ」
「?」

不意にその友人が声を上げた。なんだと思って視線をあげた瞬間、彼女の顔を見るより先に視界に入った姿に凍りついた。

「おはよう、松川くん」
「おはよう名字さん」

160センチに満たない私より30センチ近く長身で、一切の無駄のないすらりとした痩躯。ちょっと尖った唇と眠たげな半眼が不思議とよく似合う色白の彼は、友人の恋人の友人という、まさに知り合いの知り合いと呼ぶべき人物であり、

「…ミョウジさんも、おはよう」
「うっうん、その、おはよう」

…今世紀最もどう接して良いかわからない気まずい相手である。

やや視線を泳がせた彼は、それでも会えば必ず私にも挨拶を向けてくれる。気まずいのはきっと私だけじゃないことが余計に妙な緊張を呼ぶけれど、彼の律儀さにまともな応答が出来ないような失礼だけはしてはならないと、毎度詰まりそうになる返答をなんとか押し出すことにしている。

「足、どう?」
「えっ、と、…全治三週間って」
「マジで?結構きつかったんだ」
「うん、けど、処置が早かったから良かったって、お医者さんが」
「、そっか」

ならよかった。

ふっと笑んだ松川くんの笑顔はやっぱりちょっと硬かった。きっと私の挙動不審っぷりが伝わって困らせているに違いない。
申し訳なさを言葉にしたいものの、何を形にして言えばいいかわからない。むしろそれを口にしてしまえばあの球技大会での一件の全てを清算せねばならないことが予想出来て、結局私は出来損なった笑顔を浮かべることしか出来ないのだ。

「移動だっけ?引き止めてごめん」
「!ううん、全然!」
「平気。またね、松川くん」
「うん、じゃ」

挨拶以降は終始黙していた友人が別れの言葉を告げて歩き出す。半分引きずる足でそれを追い、廊下を曲がったその時、何となく肩越しに背後を振り向いた。

「っ!」

ぱちん。廊下に立ったままこちらを見ていた松川くんと合わさった視線に、肩が揺れた。
理由もなく一瞬で確信する。ずっと見られていた。でもなんで?

―――及川のこと、好きなの?

蘇る彼の声に心臓が跳ね上がる。無理矢理息を吸い込んで急ぎ足で階段を降りた。

頭がぐるぐるする。あの問いの意味は何だったんだろう。何故彼はそんなことを聞いた?
そして何故、私はそれをこんなに気にしているんだ。

単なる好奇心だろうか。そうかもしれない。及川くんと松川くんは互いにチームメイトだもの、十分に有り得る。噂を楽しむような人には見えなかったし、ただの気紛れの可能性は十分ある。

それとももしかして、及川くんには彼女がいて、だから諦めるようさり気なく助言しようとしてくれてたとか。
…これはなかなか信憑性があるんじゃなかろうか。だって及川くんは当然モテるし、松川くんは多分、いやよくは知らないけど、きっと優しい人だろうから。それならあの気まずげに目を逸らし、弾まない会話を続けようと話題を振ってくれる松川くんの姿にも説明がつくかもしれない。

「…けど、なあ」

どうにも釈然としない。完全に納得がいかないのだ。もしそうなら、私に警告することを躊躇う必要が彼にあるだろうか。元々仲が良かったわけじゃない、共通の友人が恋人同士というだけの私に過度な気遣いは無用の筈。
それに、名前と岩泉くん経由で何となく知り合って以来、彼は割とフランクに接してくれていた。それがあの球技大会以来、どうしようもなく気まずい空気が流れるようになってしまった理由がわからない。

そして何よりわからないのは、

「ナマエ」
「あ…ごめん」

気づけば移動教室についていた。名前が私の辞書類を寄越してくれる。お礼を言わねばと顔を上げて一拍、何も言わずに私を見つめる彼女に、私は思わず言葉に詰まった。

「…名前、」

途方に暮れて呼んだ名に、彼女は少し眉を下げ、ただ頷いてみせた。無言のうちに寄り添われ、きっと彼女は私の様子の変化に気付いていて、だけどずっと黙って見守ってくれていたのだと、少しだけ泣きそうになる。

わからない。わからない。
一番にわからないのはきっと、その問いに、彼が差し向け、答えに窮した私を見て取り消したその問いかけに、どうして答えを出せないのかということだ。


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U 少女Aの黙考


彼はナマエの何が気に入らないのだ。

岩泉には万事問題どころか文句もない。花巻は多少読めない所もあるがお菓子と音楽の趣味が合う。及川は会うたび自分の三倍よく話し、しばしば岩泉との事を詮索されたが、最近は普通に話す程度だ。

だが彼は。名字名前は思っていた。
彼、松川一静にだけは、気を許すことが出来ない。

彼女自身に何かしてくるわけではない。話せば普通に接してくれるし、見ている分には節度ある振る舞いと意外なノリの良さが好ましい青年だ。

だが彼女の友人、体も気も小さいが底抜けに優しい名前の友人を相手にする時は違う。
他の女子にするような適度に親切で、しかし決して近すぎない他人行儀さを忘れず接するのではなく、松川はいつも彼女を―――ミョウジナマエを無用に困らせるのだ。

名前に対する態度は、岩泉と付き合い始めてから徐々に話すようになった花巻や及川となんら変わりない。しかしなぜかその友人であるナマエに対しては、からかう所業をやめるどころか、むしろバリエーションを増やしてきたのである。

廊下ですれ違いざま挨拶するのはいい。だがなぜわざわざナマエの寝癖を見つけて見下ろし、それを他の生徒もいる中で指摘して彼女に恥をかかせるのか。
どこから見ていたのか知らないが、テニス下手クソだったねーとわざわざ笑いに来る必要はあるのか。
靴を履きかえるナマエに「また明日」を言うために、その長身を折り曲げ覆いかぶさる意味は何だ(そしてそのオプションのニヤっとした笑みに理由は以下略)。

虐めと言うほどではない。明確な悪意も感じない。
まさにからかい、そんな軽さが余計に性質が悪いのだ。

からかわれる度に落ち着きをなくし、時に涙目にすらなる友人の身になってみろ。
凪いだ双眸をすい、と細め、その瞳に険しい光を宿していた名前の憤りは、ついにあの球技大会の一幕で露わとなった。

確かに彼の咄嗟の判断がなければ捻挫程度の怪我では済まなかったかもしれない。それは素直に感謝すべきだ。

だが彼には前科がある。可愛い友人を意味なくからかっては弄ぶ不逞の輩に任せてなるものか。
凛然と主張した名前に、しかし待ったをかけたのは彼女の恋人。

『アレだ、ガキん頃いただろ。好きな奴ほどイジめたいってヤツ』
『…ん?』

まさに青天の霹靂。
岩泉のちょっと呆れた笑みに聞き返したのも仕方ない。一瞬把握に遅れた名前に、岩泉ははっきり苦笑して続けた。

意外かも知んねーけど、アイツ結構分かりやすいとこあるんだよ。

あんなに大人びて見えるのに?聞き返そうとして名前は口をつぐんだ。先入観はよくない。それに、最近知り合った程度の自分より、岩泉の方が松川のことをはるかに良く知っているはずなのだ。
そしてその彼の見立てによると、松川はナマエが好きだということになる。

名前は黙考した。そしてくどいと思いながらも岩泉に尋ねずにはいられなかった。

『…、そうなの?』
『おう、多分な』
『でも、そんな風には見えない』
『そらお前は女子だしな』
『……』

これが男心というものか。
名前は不安こそ拭いきれなかったものの、自らの恋人への信頼ゆえに、松川に友人を委ねたのである。


そうしてそれから暫くたち、松川がナマエを意味なくからかう姿はとんと見なくなった。
しかし名前は素直に喜べなかった。言わずもがな、その理由は二人の間に突然流れ始めたどうしようもなく気まずい空気である。

会えば普通に会話し、これまでのように無用にナマエを困らせることもない。しかし明らかに態度を変化させた松川の振る舞いはどこかぎこちなく、それに対してただ戸惑うだけかと思ったナマエまで同じような、むしろ松川以上のぎこちなさで応じているのだ。

己が恋愛事にはアンテナ一本立たない名前だが、友人のこととなれば話は別であった。というより、たまたま同じような空気を見たことがあったのである。
中学の頃、告白した女子とそれを振った男子とが、一か月近くこれとよく似た居たたまれない空気を醸していたのだ。

もしやそういうことに。思って懸念し岩泉に尋ねてみると、そこまで松川が動いたようには見えないとのこと。ならば一体どうしたのか。
沈黙を守り一人考えを整理しようと奮闘しているのであろう友人の思い悩む横顔を、名前は焦れる気持ちを宥めながら辛抱強く見守っていた。ナマエが話したいときに聞く、それが自分の役目なのだ。


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** 変数Xの階乗


「保健室に行く途中にね、松川くんに聞かれたんだ」

良く晴れた中庭のベンチに腰掛け、弁当を開いたところで、不意にナマエが口にした。同じく弁当を広げていた友人がくるり、真っ直ぐな視線で彼女を見つめる。ナマエは弁当箱のから揚げに真剣なまなざしを注いだまま、考えを束ねるように瞬きをした。

「…何を?」
「及川くんを、…その、好きなのかって」
「、…」

岩泉の言う通り告白ではなかったらしい。しかし何もなかったわけでもないようだ。
名前は頷き、手に持っていた箸を膝の上に戻した。耳を傾ける体勢に入った友人に、ナマエは少し緊張が解けるのを感じた。

「…それで、ナマエはなんて言ったの?」
「…答えられなかった」
「…」
「びっくりしたのもあったけど、…冷静になったところで、なんて答えればいいかわからなかったんだ」

笑ってしまう。名前が岩泉のことを好きだと言ったとき、偉そうにラブかライクかと尋ねたのは誰だったのか。自分の方がよっぽど何もわかったいないじゃないか。

入学早々話題にのぼる格好いい男の子がいると聞いた。たまたま係りで一緒になったその人はうわさ以上に格好よく、優しくて、素敵な男の子だった。
人目を引く整った容姿と愛嬌のある性格、けれど何よりそのすべてを引っ込めて真剣な、それこそ近づきがたいほど険しく真摯で、けれどそれが好きで仕方ないことが痛いほど伝わってくる姿でバレーに打ち込む姿に魅せられた。

夢中になるのに時間はかからなかった。姿を見ればドキドキして、目が合えばそれ以上に緊張して、少しでも話が出来れば嬉しくて、――――けど、

「名前と岩泉くんを思い出してね、考えたんだ」

ナマエは今一度自問する。そうしてやはり頷いた。どうして今まで気づかなかったんだろう。
それを、その感情を、「好き」とか、「恋」と結びつけることは確かにあったのに。

「私、おかしな話なんだけど。及川くんの彼女になりたいって思ったこと、多分一回もないんだ」

松川の尋ねた「好き」の意味は、明白に恋愛的な意味での「好き」を差していた。それを本能的に察知したからこそ、返す言葉が出てこなかったのだ。

彼が何を思ってあんな質問をしてきたのかはわからない。でも多分、何か意味があったはずだ。
でなければ、あの日以来明らかに変化した彼の態度にも、あのどうしようもない気まずさにも説明がつかない。

ナマエは真剣だった。確かにこのところずっと思い悩んではいたが、終始真剣に考え、考えて、答えを導き出そうとするその姿に悲壮感はなかった。

彼女は松川の問いかけを、彼が咄嗟に隠し損ねた自分への何らかの感情を、それが何であるかわからないままにしろとにかく拾い上げ、馬鹿がつくほど正直に真剣に吟味し、向き合おうとした。

そうしてようやく、納得して彼へと提出できる答えを導き出したのである。

この他人に対する呆れるほどの優しさ、底抜けの誠実さこそ、名前がこの友人を誇り、褒め、好むために数ある理由の最たるものだ。

「つまりそれは…ライク?」
「うーん…というよりは、憧れ、なのかな。あ、ほら、大ファンのアイドルが目の前にいる!みたいな」
「…ファン。」
「…えっ違うよ?名前のファンはほぼラブと同義だけど私のは多分違うよ?」
「?なんだ、そうか」

ならばツッコむことはないと言わんばかりに弁当を食べ始めた友人に、ナマエは乾いた笑みを浮かべた。危なかった。ハイパーややこしい勘違いをされるところだった。
しかし話はまだ終わっていない。ナマエは気を取り直して友人に向き直る。

「だからね名前、私、松川くんにちゃんと話してこようと思うの」
「!え」

及川には彼女がいるから諦めるようにと心配してくれたのだったら、そういうんじゃないみたいだから大丈夫だよって言うし、今バレーで忙しいから邪魔してやるなということなら心配ご無用って言うし、それ以外の理由でも私気にしてないよって言う。
はたまた私の何かが松川くんの気分を害したことで今の気まずい関係があるのであれば、きちんと謝り許して貰えるよう頑張るつもりだ。

そう宣言すると、名前はしばらくまじまじとナマエを見つめた。そうして彼女にしては大変珍しく、何か言うべきか言わないべきか迷い、口を開いたり閉じたりして、結局何か納得したらしく、柔らかく笑んで最後にはこう言った。

「うん、それでいいと思う」

なるほど私はいつもこの友人をこんな心境にさせているのだろう。名前が普段の自分の地味な奇行を改めねばと再認識した、午後12時の中庭であった。


150411
すみませんもう少し続きます。
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