「だから俺、あれだけ早く言えって言ったのに」

及川徹は途方に暮れた顔でそう言った。
それはヤツがこの二か月言い続けてきたまごうことなき正論で、俺自身十分わかっていたことだった。


告白から数日経っても音沙汰のない彼女を見かけ、ほとんど反射的に登校を共にした。どう言おう、思っていれば見えてきた校門と仲間の背中に、思わず強張らせた表情は今思えばきっと見抜かれていた。出すべき言葉は出せず仕舞いで、彼女は友人の下へ駆けて行った。

自教室、教科書を借りにきた城崎に遭遇し、とっさに周りの目を気にしてしまった。話すきっかけになればと思い教科書を貸したものの、返却を理由に昼に会いに来られたらどうしようかと身勝手にも不安になった。けれど彼女は掃除の時間に来ると言い残し、あっさり去っていった。
どちらにせよ他人の眼がある場所じゃ言えなかった。そう結論付けて呑み込んだ。その引き際に安堵しなかったと言えば嘘になる。同時にその察しと物わかりの良さに、ともすれば事実を告げても誠実に謝れば、平和的に解決を図れるのではないかとも考えた。

部活終わりの薄暗い体育館横、やってきた彼女の手の紙袋とその中身に、いよいよまずいのではと焦った。下手に「その気」になられては困る。けれど目が慣れてきた暗闇の中、城崎の顔に見えたのは恋に恋するありがちな表情ではなく、知り合ったばかりの人間に対する純粋な緊張と、見る間に気まずげになってゆく強張った面持ちだけだった。

萎れてゆく表情に感じたのは無視できない良心の呵責だ。意を決して受け取った紙袋は軽く、返したフォローは無意識で、けれどほっと肩の力を抜いた彼女に感じたのは罪悪感。
もう言わなければ。意を決したまでは多分良かった。けれど帰り道を一緒にしないかと切り出した提案は、部員の目があることを理由に断られた。虚を突かれた。見抜かれていたことに、それを全く感じさせることなく自然に合わせてくれていたことに。

湧き上がる何かに駆り立てられて立ち去った城崎を追いかけた。やっぱり一緒に帰ろう、すぐ着替えるから待ってて。言うべきことは多分そんな類のことで、それが最善で、けれどそれを言うには憚りが勝り、結局逃げた言葉が告げたのは連絡先を尋ねるそれで。
申し訳なさそうにスマホを取り出した彼女に、謝るべきは俺なのにと顔がゆがんだ。


城崎は彼女面をしなかった。告白されて浮かれることも、好かれる側を楽しむ素振りも、思わせぶりに振る舞うこともしない。デートだの何だのと彼氏彼女のセオリーに乗っかる気配すらなく、いっそ無頓着にすら思えるほどのそれに悪意がないのは明らかで、それでも俺に向き合おうとする姿勢の真っ直ぐさは会うたびに俺の首をじわじわと締め上げていった。

いつ言おう、どう言おう。最初はタイミングを見計らって、試みて、本気で切り出すつもりでいた。けれど初めは間違いなく偶然に、意図せずいろんな要因で撤退を余儀なくされる、そんなパターンばかりだった。
けれどそこから「必死さ」がなくなるのに、多分時間はかからなかった。城崎の保つ距離感は心地よく、良き友人に対する好意を超えない彼女からの好意はゆっくりと罪悪感を薄めていった。

今日は無理そうだ。明日にタイミングを伺えばいい。大丈夫、まだいける。彼女が俺のことを好きな素振りはないのだから、まだ大丈夫。

そこからは転がり落ちるように、ゆっくりと、けれど確実に、歯止めが利かなくなっていって。


何でもないラインのやり取りをやめられなかった。城崎とのスローペースのやりとりは心地よく、時折送り込まれるぶっとんだ発言に吹き出すこともままあった。返事を待つ間の親指は、彼女の人柄と大人しい見た目にそぐわぬギャップが詰まったトーク画面をしばしば遡っては楽しんだ。

内容は別に恋人同士にあるような甘ったるい会話じゃない。出来立ての友達と親しくなろうとするような吹き出しの積み重ね程度、そうやって言い訳ばかりが上手になって。

昼飯を一緒にと誘われたとき、本当なら鳴らねばならないはずの警鐘が使い物にならなくなっているのに気づかないふりをした。気づけば了承のメッセージを送っていて、彼女の友人が送ったものだとわかった時にはフリーズした。期待したのに落とされた、なんて普通に不貞腐れて、けれどすぐに追いかけてきた弁解のメッセージに機嫌はあっさり上向きになって。
それから週に二度ほど共にするようになった昼食時間には、真実を切り出そうと思うことすらやめていた。


「…俺、電話した時言ったのかと思ってた」

花巻が言った。俺を首を振るしかなかった。

「延長戦」の期間も過ぎた頃、未だ付き合っているということを聞きつけて面白がった同輩にスマホを取られ、彼女に電話をかけられた。幸い彼女が出る前に奪い返して通話を切ったものの、メッセージを送るより早いコールバックに肝が冷えた。及川や岩泉の助けを借りて周りを本気で牽制し、大急ぎで部室の外へ出た。

冷水を浴びせられたようだった。これまでのらりくらりと躱してきた同輩らからの追及が城崎自身にまで及びそうになって、久方ぶりに漸く感覚を取り戻した危機感が俺を現実へと叩き落とした。このままでは外野の野次馬の口から真実が伝わりかねない。もしそうなったら。
駆け巡る想定に血の気が引く思いがした。それなのにまた言えなかった。

「なんで、」
「…顔が」
「顔?」
「…顔が浮かんできて」

電話越しに俺を案じる声に息が止まった。繕いきれない動揺をあっさり見抜かれ、それでいて無用に踏み込んでこようとはしない言葉に胸が詰まった。
俺の話に耳を傾ける彼女の、いつだって真摯で真っ直ぐな姿勢が瞼の裏に焼き付いて、そうしたらもう、何も言えなかった。

一緒に帰ろう。通話を終えた後やっとのことで作ったメッセージに、彼女は二つ返事で了承してくれた。これで最後にしなければならないとわかっていた。

それなのに、並んで歩く小さな背丈が、風になびく髪や長い睫が、つかんだ手の柔さが、泳ぐ瞳と染まった耳の朱色が、そんな決意を押し潰すほどに気持ちを膨らませて。


触れたい。
ぱちんとはじけた願望のまま抱き寄せた彼女が腕に収まった瞬間、高揚感と綯い交ぜになる絶望が全身に広がった。


「だめだった」


死にたくなるほど苦しくて、泣きたくなるほど好きだと思った。

どうしようもないほど、どうしようもなくなっていた。


机に突っ伏すようにしてこうべを垂れ、それ以上何も言わずに言葉を切った松川を、三人は言葉なく見下ろした。

松川がここまで大きな失敗をするのも、何よりここまで心底打ちのめされるのも、二年目になる付き合いの中で一度も見たことはない。そもそも彼は冷静なタイプで、物事を客観的に見る力がある。要領が良く理性的で、何か情に流されものを決めるような、そんな姿を見せたことはほとんどない。

松川なら。無論心配はしながらも、そんな楽観視があったことは否めなかった。平手打ちを食らうなりしばらく女子から非難されるなりしても、早いうちに、相手の傷が浅くて済むうちに、この性質の悪い罰ゲームに決着を着けてくるだろう。三人はそう信じて疑っていなかったし、共同責任者として肩を並べて頭を下げ、なんだったら一緒に女子から白眼視される心づもりだってできていた。

けれど彼自身が、そして周りが思っていた以上に彼は冷静ではなかったのだろう。正確に言えば、最善を選び抜くためのある種の冷徹さを持ち合わせていなかった。だがそもそも皆まだ高校二年だ。数えで17、まだ16の歳で、情動の何もかもを正しくコントロールなどできるわけがない。

「…とにかく、まっつん、俺らもなんとかならないか頑張ってみるから」
「まずどうにかして謝る機会作んべ。お前だけのせいじゃねぇ、止めらんなかった俺らも同罪だ」
「俺も頭下げる。アイツも一緒に来てくれるっつってっから」

おふざけを仕舞いこんだ声音で告げる及川に岩泉が迷いなく同調する。恋人共々庇われた花巻はとりわけ感じる負い目が大きいのだろう、矢継ぎ早に重ねた言葉には真剣さが滲んでいた。

それでも返事は辛うじて頷いた首の一振りだけ。声なき懺悔で項垂れる友人を前に、三人は雲行きの悪さを感じずにはいられずに黙り込んだ。

160719
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