下駄箱に背を預け、彼を待つ。

単語帳に落とした視線がアルファベットを上滑りする。文庫本でも用意しておけば少しは気を紛らわせたろうか。つい先週電池交換をしたばかりの時計はやっぱ故障したんじゃ無いかと思うほど針の進みが遅い。むしろ故障してるのは私の体感時間なんだろうが。重症である。
だが微笑ましく振り返るには未だ余りに鮮明過ぎるもろもろを通過したこの場所で、彼と待ち合わるのはどうしたって落ち着かないのだ。

委員会で少し遅くなるのだと、再開したラインで何気なくこぼした一言がきっかけだった。会話を繋ぐ世間話程度に送った文面に、「ならその日、一緒に帰れない?」という一言が返ってくるまでには、既読から半日の間があった。

一度削除したトーク画面に並ぶ吹き出しの数はまだ少ない。会話も初めて連絡を取り始めた頃以上にぎこちない始末で、その酷さは友人らにまたも要らぬ心配をかけさせたほどである。
この下駄箱で彼と、和解と呼んでいいのか、とにかくもろもろのケジメをつけるに至った放課後からもう二週間。その間出来たのは二日に一度ほどのラインと通話を一回きりだ(それも絶望的に会話が続かずトラウマになるかと思ったレベルである)。

で、結局どうなったの。
険しさを消せないといった顔で神妙に尋ねた友人二人に、私はどうしたものかと言葉を濁した。起きたことはもちろん話せる。花巻くんの説明のおかげで事実関係はほぼ理解したし、誤解は解け、謝罪は受けたしこちらも述べた。連絡も再開し、…好きと言われ、言いもした。
ただその結果今後どうなるのかと言われれば、正直なところはっきりしていないのである。(ちなみにそれを聞いた元ヤンの友人が再び殴り込みをかけんとしたのを全力阻止したのは最早お約束である。)

おかしな話かもしれない。和解した、想いも通じた、多分付き合ってはいる。…今思い出したら屋上から身投げしたくなるレベルのスキンシップすら存在した。のに、今や挨拶を交わすのも手一杯というこの現状は何事か。いやむしろあのスキンシップが原因というなら理解できるかもしれな、

「―――城崎」
「ふおっ、」

びっくりしすぎて奇声が出た。アッ駄目だコレ屋上行きたい。ちょっと一回飛び降りたい。

単語帳が滑り落ちそうになるのをすんでで掴んで振り返った途端、眠たげな瞳に見下ろされて一気に緊張に呑み込まれた。忍び寄る沈黙の端っこを隅に押し込むように言葉を探す。何か言わなければ。

「ご…めん、気づかなかった」
「いや、…待たせてごめん」
「や、全然、さっき来たとこ」

ぶんぶん首を振り、単語帳を鞄に片づける。視線を合わせられない。びっくりするほど呆気なく仕舞われていった単語帳により、一層手持ち無沙汰になる。スクールバックの持ち手を握りしめるが、刻々と膠着せんとする空気を止める手立ては思い浮かばない。
気まずさが頂点に達しそうになる前に、口を開いたのは松川だった。

「じゃあ、帰ろっか」
「あ……うん」

ああきっと今ものすごく気を遣わせてしまっている。踵を返して歩き始めた彼の後に続き、途方に暮れて思った。何でもないような落ち着いた声音にはしかし、隠しきれない気まずさが滲んでいる。
居たたまれない思いになりながら靴を履き替える。少し離れたところでそれを待つ彼を盗み見ると、松川は昇降口の方を見ているようだった。ふと見れば長く伸びた彼の影は、私の足元にまで届いている。

くせっ毛の頭、横顔と、綺麗に浮かぶうなじのライン。不意に指先で触れた髪の柔らかさと、刈り上げられた襟足のくすぐったさがフラッシュバックする。ああこれ絶対駄目なヤツだ。これ以上なく強く感じた彼の匂いが蘇り、居ても立っても居られない羞恥心が駆け上ってくる。
立ち竦む私を彼が見る。怪訝そうな顔が見えて、慌てて上履きを下駄箱に突っ込んだ。待たせてはいけないけれど、距離を詰めるには迷いを捨てられない足がなんとか小走りに動く。

「…行こうか」
「…うん」

夕陽が眩しい。西日に横から照らされて、並んで歩く影は重なったが、彼と私の間には人ひとり分ほどの間隔が横たわっている。
好き、と紡いだ彼の言葉を、信じられないわけじゃない。間違いなく現実だとわかっている。それでもあれは自分の都合のいい夢だったんじゃないかなんて妄想が頭をよぎるくらいには、この足元は不安定なままなのだ。

「そうだ」
「、ん?」
「これ」

校門を出て少し、不意に立ち止まった松川が徐にエナメルに手をかけた。ようやく途切れた沈黙に安堵しつつ、悟られないよう足を止める。がさり、引っ張り出されたそれは白のビニール袋だった。何だろう。しかし首を傾げるより早く目前に突き出されたそれに、私は目を瞬かせた。

「…私に?」

頷く以上の返事をしない彼に、事前説明をする意志はないらしい。恐る恐る受け取り中身を覗きこむ。そして一瞬呆気に取られた。袋一杯に詰め込まれていたのは、色とりどりのお菓子のパッケージ。

「…え、お菓子…?」
「城崎に、…バレー部の何人かから」
「、」

ほとんど反射で顔を上げ松川を凝視した。咄嗟に感じたそのままを表情にしてしまった私に、弁明する間もなく彼は顔を強張らせてしまう。あ、と思うももう遅い。

「いや、どうしても謝りたいって奴らが、でも押しかけたらヤな思いさせるんじゃないかって、それで」

いつもの感情を読ませない色合いから落ち着きを手離した彼の視線が、僅かな焦りを過ぎらせ足元に落ちる。普段より早口な弁明の言葉に、咄嗟とはいえ無遠慮な警戒心を差し向けたことを酷く申し訳なく思った。腕の中の袋に目を落とす。そして気づいた。

「面白がってたヤツらとは無関係だから、」

彼の言葉が途切れる。私が袋の中身に手をかけたからだ。取り出したポッキーの箱には、マジックペンで書かれた文字があった。ぶっきらぼうで真っ直ぐな『ごめんな』の四文字。

シンプルな板チョコの裏には修正ペンの白で『すみませんでした』。パッケージの主張が激しいレモンのグミには『もう絶対しません』。期間限定のイチゴキャラメルにくっついていた付箋のメッセージには、思い当たる節があった。『酷いこと言ってごめんなさい』。校門前のひと悶着だ。
チロルの袋、じゃがりこの蓋。ちょっと潰れてクリームがはみ出したシュークリームの袋には、切り取られたメモが張ってあった。筆圧の薄いくせ字が一行。

『俺らはいいから、松川だけは許してやってください』。

「…あいつら、」

松川の声の動揺からして、彼らはこのメッセージたちを内緒で準備したのだろう。随分工夫して詰め込んだのか、文字やメモを隠す犠牲となったらしいひしゃげたシュークリームに、胸がいっぱいになって笑ってしまった。そうでもしないと込み上げてきたいろいろが、別のところから別の形で溢れてしまう気がした。

「すてきな人たちなんだね」

心が呟くそのまま口にした言葉に松川が息を呑む。彼にはこんな仲間たちがいる、感じたそれが自分でも驚くほど自分のことのように嬉しくて、袋を抱える腕に力が籠もった。

「ありがとう、ぜんぶ食べる」
「……食べきれる?」
「うん、食べる。これのためなら太っていい」

気まずさはすでにほとんど感じなかった。堂々完食を宣言して彼を見上げれば、眠たげな瞳を大きくしていた松川はまなじりを下げ、つんと尖った唇に綻ぶような笑みを乗せた。
黙っていれば二つは年上に見える大人びた彼が途端に見せる高校生の顔。それが友人たちの厚意が無事届いたことへの喜びであるのは一目瞭然で、いい人だなとか素敵だなとか、込み上げる感情を巻き込んで残ったのは、ただ好きだなあなんていう噛み締めるような実感だけ。

「お礼を…、」
「ん、伝えとく」

はにかむように笑う彼に頬がじんと熱くなる。ああ困った、まだ帰り道は長いのに。
会話が途切れれば、どちらからともなく再び歩きだした。何を言うでもなく私の家の方角へ足を進める彼に、やや迷って家はどちらの方なのかと尋ねる。しかし松川はすい、と瞳を流して私を見やると、すぐに視線を前に戻し、そんなに変わんないよ、と見透かしたように返答を躱してしまう。さり気ない先回りで遠慮の台詞が封じ込まれたのを悟り、私は黙って彼の隣を歩いた。

大通りに出たところを歩道へ進む。道幅が狭まりおのずと縮まる距離が、思い出したように既視感を呼び起こした。そうか、初めて一緒に帰ったあの日も、この歩道を歩いたはずだ。
緊張は伝染する。なんとなく、隣を行く彼もそれを意識しているのがわかってしまう。一度は緩んだはずの空気が再び強張り始めるのは気のせいじゃない。

ちりん。緊迫を破って背中をせっついたのは自転車のベルの音。思わず振り向いたのは松川も私も一緒だった。ローファーのつま先がアスファルトに引っかかる。大げさに揺れた手元の袋を引き寄せ、躓くように脇へ避けた――――手が。

「っ、」

甲が触れる。息が止まった。骨ばった関節にぶつけた指が、衝撃でびりびりと痺れている。自転車が近づいてきて、…小指を、取られる。

ブレザーの肩が擦れ、自転車が通り過ぎてゆく。痛いほど脈打つ心臓をどうにもできなくて、ただ息を殺して立ち尽くした。伺うように、試すように、酷く慎重に私の薬指へと伸びるそれは、引っかかっていると言えるかすら曖昧な危うい繋がりでしかない。

きっとわずかでも拒む素振りを見せれば、この温度の低い長い指は二度とこの手には触れてくれないのだろう。思った瞬間手が跳ねる。松川の手が動きを止めた。
一瞬の間、そうして案の定打って変わった迷いのなさで離れてゆこうとする指先を、寸でのところで捕まえた。今度は彼の手が跳ねる。そうして膠着。

頬が熱い。顔なんて絶対に見れない。それでもどうかこのままで。

「…手、つないでいい?」

耳朶をかすめるような低音は、胸を締め付けるような緊張に掠れていた。余裕がないのはこっちだって同じだ。頷くのも精一杯なのに、深く吐かれた息の後、よかった、なんて囁く声の余りの甘さに死にそうになった。

酷く優しく包まれた手が彼を感じて震えている。泣いてしまいそうなほどなのに、もっと触れていたいと願ってしまうのだからどうしようもない。
何も言えずにつないだ手へ力を込めた。間をおいて深々と包み込んでくれる手の大きさが、並んだ距離がゼロになることが息苦しくなるほど幸せだと思った。

このひとが好きだ。わかりきってるこの想いはそれでも、言葉にして伝えるにはまだきっと私の手には余るのだ。

160902
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