「、あ」

思わず漏れた声は幸い、彼女には聞こえていないようだった。窓辺の風に揺れる落ち着いた黒髪と、伏せられた静かな瞳。直接的なかかわりはほとんどない。しかし彼、温田兼生は、その女子生徒のことを、そしてその手の中にあるパッケージのことを、一方的に知っていた。


チームメイトの松川が同輩を庇って先輩命令による性質の悪い罰ゲームに甘んじてから三か月以上。その飄々としてソツの無い友人が感情を剥き出しにし、普段の姿からは想像できない一波乱を起こして以来、一か月が経とうとしていた。

激昂した松川、その拳を身を挺して受けた花巻、駆けつけた岩泉の険しい怒気と底冷えする及川の声。そして教室の戸口、言葉を失い立ち尽くす女子生徒の揺れる瞳まで、一部始終を目にした温田にとっては未だに記憶に鮮やかだ。
あの後しばらくして、松川は温田にこっそりと詫びを入れに来た。止めに入ってくれたのに結局キレちまった。バツが悪そうに笑った松川に、温田は思わずグッときて「いいや松川、お前はカッコよかったぞ!」と力説した。そしてふと思い至って熱弁をやめた。戸口に立っていた女子生徒、あの子とは結局どうなったのか。

なあ松川、けど、あの子とは。
恐る恐る尋ねた温田に、松川はちょっと間をおいた。だがそのつんとした唇を尖らせて目を逸らす様はささやかな照れを隠していて、「まさか仲直り…!」と追撃すれば、「まあ、オカゲサマで」なんて素直じゃない返答を頂戴した。
(ちなみに後に温田が「いつも余裕な器用系男子」松川の純情さにキュン死しそうだったと証言すれば、「バッカそこは連写だろ!」だの「温田お前女子かよ」だの「男の照れ顔のどこにキュンキュンすんのさ!」だの、はたまた「くっそリア充爆発すんな!」「末永く不発しろ…!」だのと皆して好き勝手に言いながら、どいつもこいつも嬉しそうな顔をしていた天邪鬼たち(上から順に甘党・男前・残念なイケメン、以下略)が温田は大好きである。)


とは言え始まりが始まり、起きた波乱が波乱である。ひと悶着あった後しばらくは当然学年中で噂になったし、そのほとぼりもやっと冷めてきたという頃合いだ。野次馬共の介入で拗れるのはもう御免、松川の復縁とかの女子生徒との交際は一部の二年のみに伝えられ、緘口令が敷かれている。

そこはかとないタブー感、軽い厳戒態勢。無論腫れ物扱いをしたいわけではないのだが、松川自身そういう話をよくするタイプじゃないし、罰ゲームに参加せざるを得なかった立場上、皆してなんとなく聞くのは憚られた。

やっぱ詫び入れにいかねぇか。

しかしながら言い出したのは案の定というか、男前の代名詞・岩泉だった。不義理を良しとせぬ彼らしい提案に、しかし難色を示したのはその相棒たる及川だ。

事情がバレた時、あの子は俺ら全員との接触を徹底的に避けてただろ?あの様子からして、正面切って謝ったところで気まずい思いをさせるだけじゃないの。

そんなもっともな意見に、ではこうしてはどうかと手を上げたのは花巻だった。ノートを千切り、何かを書いて、買ったばかりのシュークリームの包みに張り付ける。いち早く察した及川は目を輝かせ、それにニヤッとドヤ顔を返した花巻は、皆に見えるよう突き出した。

『どうよ?』

それだ。
そこからは圧巻の速さだった。各々財布を掴み、チャリ部隊を編成(総隊長には温田が就任)、コンビニに走り込んでめいめい買い込んだお菓子に、総動員させた語彙力と謝罪を込めてマジックを走らせた。各自で購入したせいでどれもほぼ最小サイズのコンビニ袋に頭を抱えつつ、なんやかんやで苦労して詰め込んだそれを差し出せば、部誌を書くため遅れて戻ってきた松川は、半分シャツを脱ぎかけた体制のまま目を大きくして固まった。

『これ、あの子に、お詫びにって』

若干の息切れを隠せないまま告げた志戸の神妙な顔に、松川は見事に割れた腹筋を晒したままさらにしばらく黙り込んだ。そうしてようやくシャツから手を離すと、重みで若干伸び気味のコンビニ袋の取っ手を受け取った。
つん、と唇がとがるのは、目立たぬ彼の照れ隠し。そうしていつもよりやや小さな声で礼を述べ、ちょっと気まずそうに着替えを済ませた彼を、皆して神妙に、あるいはニヤニヤして送り出したのは数日前だ。



そうして今日、そのコンビニ袋に詰まっていたのと同じパッケージが今、ぱきり、彼女の手元で音を立てている。

広げたノートは自習中だったのだろう。その上で、開封したばかりの袋にそっと指が差し入れられ、取り出されたのは黄色のグミ。そう珍しいものでもなかろうに、つまんだそれをしげしげ眺める彼女、城崎ゆづるを、温田は息を殺して注視する。

彼女の視線が徐にパッケージへ、可愛げのない黒マジックのメッセージが綴られているであろうそこへ落ちる。あのグミを買ったのは確か志戸だ。
目を伏せた彼女が不意に髪を揺らす。その横顔が、くしゃり、可笑しそうな笑みをこぼすのが見えた。

「…!」

温田は眼を見張る。それに気づかぬゆづるは、指先のグミを口に放り込んだ。もぐもぐ、人気のない教室で一人グミを咀嚼する姿は、時折廊下で見かけてはこっそり伺い見てしまう整然とした横顔、大人びた空気をいささか幼くさせている。
一つ、また一つと取り出すたびにグミを見詰めるゆづるの眼差しは遠目で見ても温かくて、温田は胸がじんとするのを感じた。

ついこの間、今度は素直に口元を綻ばせて報告してきた松川の、嬉しそうな声が蘇る。

『太ってもいいから、ぜんぶ食べるって』

―――これは、皆に言わねば。
取りにやってきたはずの数学の課題はもう後回しで構わない。くるり、大急ぎで皆の元へ戻ろうと踵を返した温田はしかし、振り向いたすぐ後ろに立っていた渦中の人物の姿に絶句した。
いつからそこにいたのか、教室の扉の窓を覗くように立っていた松川は、人差し指を唇に当てて見せ、温田に沈黙を要求する。そうして温田にだけ聞えるように、ゆづるのためだけの色を含んだ瞳で囁いた。

「…いい子だろ」

悪戯っぽく自慢する松川に向かって、まるで自分のことのように破顔して頷いた温田に、松川もまたニシ、と笑う。
からり、戸を引いた松川は教室に入ってゆく。それでも聞こえた「お待たせ」の四文字はやっぱり緊張気味で、器用で大人びたチームメイトの純情に肩を震わせ笑いながら、温田は軽い足取りの音を殺して廊下を駆けだした。

160907
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