テレビが一番よく見える席にトレイを置き、ひと息ついた。お昼のピーク時は笑ってよきかなのために争奪戦になる席は、午後一時も過ぎて閑散とし始めた今誰も関心がない。今流れているのは、江戸のあちこちを散歩する番組だった。それを眺めながら昼食をつついていると、向かいの席にトレイが置かれた。
「凛子さん、お疲れ様です」
「総悟くん。お疲れー」
 総悟くんはテレビに目を遣ってから着席した。
「どこか行きたいとこでもあるんですかィ?」
「どこっていうのはないんだけど。江戸の定番はひと通り回ったから、変わったところとかないかなって」
「変わったところねえ……」
 考えながら、総悟くんは手を合わせた。
 彼は屯所内では珍しく、食事のマナーが良い。ひとりで食べるときもきちんと手を合わせていただきますを言うし、ご飯もかき込まない。普段突拍子もない行動が多いけれど、意外にもこういうところはまともだ。
「かぶき町とかどうです?」
「この間行ったばっかり。ほら、詐欺グループ捕まえた日。あのとき私ひとりでかぶき町観光してたんだよね」
 詐欺グループを捕まえ、万事屋に猫を届け、階下のスナックで飲んでいたら暴行事件の起こった目まぐるしい一日だった。あれから一ヵ月ほど経つ。
「ああ……ありやしたね、そんなこと」
 しゃくしゃくとキャベツの千切りを咀嚼する姿は、ともすれば、触れるだけでも壊れてしまいそうな儚ささえ感じる。伏せた目から伸びるまつ毛の先まで繊細で、とてもじゃないけれど、どこかの家屋を吹き飛ばしたり、一晩中誰かに呪詛の言葉を唱え続けたりするようないかれた少年には見えない。
「……あ。じゃあ」
 話すときも、飲み込んでから。
 ふと、米とマヨネーズを口いっぱいに頬張りながら話す男が比較対象として頭を過った。食事マナーに関しては圧倒的に総悟くんに軍配が上がる……と思ったけれど、よく思い返してみると、ところ構わず煙草を吸うわ、誰かに敬語を使っているところを見たことがないわ、食事どころの騒ぎではなかった。総悟くんの普段のやんちゃが目立つだけで、いい歳してそんな生活態度であるあの男も、普段常識人ぶってはいるけれど、だいぶいかれているんじゃないかという気がしてきた。
「吉原とかどうです?」
「吉原って……遊郭の?」
「ええ。別に店の中に入らなくても、街の中散策するくらいなら女性でも問題ねえでしょう」
「……女がひとりでって、何か、ひんしゅく買わないかな」
 売られている女を、観光気分で眺める女。男が同じことをするよりも遥かに気分の悪い光景のように思える。
「業者の女性も出入りしてやすし、女性がひとりで歩いてても悪目立ちしやせんよ」
「行ったことあるの?」
「仕事で街中までは。店に入ったことはありやせんが」
 それを聞いてもあまり乗り気になれなかった。とはいえ、江戸にある主な街は見ておいた方がいいとも思った。仕事をするうえでも、それ以外でも。けれど、女ひとりでというのはどうしても抵抗が残る。
 ちょうどそのとき、十番隊隊長原田と九番隊隊長二木が総悟くんの後ろを通った。「お前明日非番だろ? 吉原行かねえか?」と耳を疑うくらい都合のいい会話をしながら。
「ねえ! それ、私も一緒に連れてってくんない?」
 渡りに船と立ち上がって申し出ると、当然ふたりは驚いて顔を見合わせる。
「凛子さん……え、あんたそっち系だったのか?」
「違うわ。観光で行きたいんだけど、ひとりで行くのはちょっとなあと思ってたとこなんだよね」
「俺らが登楼してからはどうするつもりだよ」
「もうお店決まってんの?」
「決まってねえけど」
「じゃあ女の子選び終わるまでついていかせてよ」
「いやあ……いくらあんたでも、知り合いの女に見られながら遊女選びするのは気まずい」
「えー、そういうもん?」
「そういうもんだ」
「うーん……。あ、じゃあこうしよう。一周だけ付き合ってよ。一周したら私帰るから、その間横目で女の子眺めて、私が帰ったあとにゆっくり吟味してよ」
 この通り、と両手を合わせる。原田と二木はもう一度顔を見合わせ、渋々ながら了承してくれた。

 *

 地下遊郭吉原唯一の出入口であるエレベーターから降りると、途端に別世界になる。藍色の世界に誰哉行灯の奥ゆかしい灯りとネオンの眩い光がちぐはぐなコントラストを生み出し、媚びる女と浮かれた男たちの声が清搔の音色に乗って流れてくる。潜入捜査では何度も足を踏み入れたことがあるけれど、プライベートでは未だ一度も訪れたことがない。今日ももちろん、前者だ。ただ、仕事かどうかは微妙なところだ。
 入口で切手を発行している凛子ちゃんの後ろを通り抜け、すぐ近くの店先に並ぶ床机に腰掛けた。吉原は一般女性も出入りができるけれど、男と違って入口で切手を発行する必要がある。ここを出るときに、通行証として必ずその切手を見せなければならないのだ。何故女性だけなのかというと、ここは苦界、遊女の逃亡を防ぐためだ。
「凛子さん、その切手なくすなよ」
「大丈夫大丈夫」
 俺の前を、三人が話しながら通り過ぎる。彼らは吉原に入って真正面、街のど真ん中を貫く大通りを進んだ。俺は声が拾えるくらいの距離を空け、そのあとをついていく。
 凛子ちゃんはぐるりと周りを見渡し、ふたりに話しかけた。
「思ってたより広そうだね。一周するの結構かかりそう」
「そうだよ。だからちょっと見たらすぐ帰れよ」
「そんなこと言わずにさあ、ちょっとくらい付き合ってよ。がっついてると粋じゃないって遊女に馬鹿にされるんじゃないの?」
「うるせえな」
 実際は、男の足で脇目も振らずに歩けばそうかからず端に辿り着く程度ではあるけれど、すべてが物珍しく見えるらしい凛子ちゃんがあれは何だこれは何だと逐一足を止めるので、なかなか奥に進まない。鋭い凛子ちゃんに見つからないように、念のため普段と違った格好をしておいたけれど、必要なかったかもしれない。それくらい凛子ちゃんは初めての場所に夢中だ。
 俺も遊女を吟味する振りをしながら、一定距離を空けてついていく。
(どう見てもただの観光だよなあ、今日は……)
 格子に手をかけて思わずため息をつくと、誤解した遊女に中から睨まれてしまった。
 
 数日前、副長に呼び出され、凛子ちゃんに対する内偵を突然命じられた。
 もちろん俺だって、いくら副長の指示とはいえ、意図がわからないまま丸ごと呑むわけではない。当然説明を求める。
「……それ、何のためにですか?」
「凛子の部屋に万事屋の名刺が置いてあった」
「……」
 てっきり、入隊時のようにまた彼女を追い出そうとしているのかと予想していた俺は、一瞬言葉に詰まった。
「えーと、それはつまり……浮気調査的なことですか?」
 つっこみどころはたくさんあったけれど、考えるのが面倒臭くなってそう言うと、副長は大きく舌打ちをした。
「斬られてえのか」
「いやだって、名刺一枚で何でそんな話になるのかとか、凛子ちゃんの部屋に勝手に入ったのかとか、内偵なら三番隊じゃないのかとか、そういうことまとめて辻褄が合うのがそれしかないので」
「話を最後まで聞け」
 なら頭出しをもっとわかりやすくしろ、というのは心の中に押し止め、はあ、とだけ答える。
「あいつ、ここんとこ毎日のように捜索照会システムを見てる」
 捜索照会システムとは、捜索願の一覧を照会する警察機構全体のシステムのことだ。現在出されている捜索願だけでなく過去に出されていたものも照会することができ、屯所からも閲覧できる。
 確かに毎日眺めるものでもないけれど、だからといって、それがどう内偵の話に繋がるのだ。
 俺が腑に落ちないでいると、副長は煙を吐いてから話を続けた。
「それに、非番の日は必ずひとりでふらっとあっちこっち出かけてんだろ」
「それはただの観光なんじゃないですか、彼女まだ江戸に出てきて数か月ですし」
「俺も最初はそう思ってたが……この間、あいつがかぶき町をひとりでうろついてた日、覚えてるか」
「詐欺グループの事件と飲食店での暴行事件があった日ですか? 両方凛子ちゃんが解決したっていう」
「ああ。その飲食店が万事屋の一階にある店だったんだが、そこの店主によると、どうも凛子は情報の集まる場所を探してる様子だったらしい。あの店で飲んでたのも、店主が情報通だって話をどっかから聞きつけたからだっつー話だ」
 副長はその情報をどこからどうやって仕入れたんだと思わないでもなかったけれど、それよりも、そこでやっと俺の頭の中で万事屋の名刺と話が繋がった。
「……凛子ちゃんが誰かを探してるってことですか?」
 照会システム、情報集め、万事屋――使えるものを駆使して。
 副長が黙って頷く。
 まあ、そこまでは理解した。けれどまだ解せないことはある。
「で、それで何で俺が内偵することになるんです?」
 そう訊くと、俺の察しが悪いことに苛立ったような顔をされる。ふざけるな。
「あいつが何企んでんのか探れ」
「いや……誰か探してるのかって、自分で訊けばいいでしょ」
「アホか、何か裏があったら警戒されんだろ。……そもそも、とっつっぁんが身元を保証するっつってうやむやになっちまったが、あいつが何で急にやくざの護衛辞めて真選組に来たのか、実際のところわかんねえんだぞ。初めは妙な動きもなくよく働くから気にせずにいたがな」
「今更そんな……」
 呆れてそう言いかけ、俺は口を噤んだ。
 副長は、まだ半分も吸い終わっていない煙草を灰皿に押し付けた。いつもなら一本吸い終わってもまたすぐに次の一本を取り出すところなのに、そのときはそうせず、じっと煙草の箱を見つめていた。

 通りの半分と少しくらいまで来たところで、ところどころ建物の間から延びる路地を凛子ちゃんが指さした。
「路地の奥にもお店あるの?」
「あるけど、端の方は河岸見世ばっかだから行かねえぞ」
「カシミセ?」
「安くて汚なくて、とりあえずやれりゃいいような情緒も風情もねえ店のことだ」
「吉原にもそういうところがあるんだ」
「そりゃピンキリだろ」
「へえ……何か、きらびやかな店ばっかりなのかと思ってた」
「そりゃここが中心の大通りだからだ。河岸見世の方は治安悪いから、俺たちと別れたあとにひとりで行ったりすんなよ」
 食堂で連れて行ってくれとせがまれたときは渋っていた割に、原田は案外きっちり案内してやっている。
 結局、俺は内偵の命を受け、食堂で彼女たちの会話を聞きつけて吉原までついてきたというわけだ。副長の言い分に同意したわけでも、凛子ちゃんを疑い始めたわけでもない。けれど、かといって副長命令だからと納得しないままやらされているわけでもない。
 じゃあ何故か。
 副長も本意ではないのだと感じたからだ。本意ではないけれど、立場上見逃せない疑念を払拭したい――つまり、凛子ちゃんがクロであることではなく、シロであることを証明したいのだ、副長は。
 そうはっきり言ってくれればもっと話は早かったし、俺も早々に快諾したというのに。
 まあ、それができる人じゃないのは俺もよくわかっている。まったく、世話の焼ける上司だ。