ほどなくして、松風さんが馴染みが来たと出ていった。
お膳の料理がすっかり空になった頃、イマさんが瀬川さんと奥の部屋へ消え、それでようやく解散となった。帰ろうとしていたウダさんを、松平さんは「せっかく来たんだから」と遊女を半ば無理やりつけ部屋に押し込んだ。
「さあ、すまいるで四次会だ」
近藤さんの肩を組んだ松平さんが親指でどこかを指さす。遊郭でキャバクラの話とは、なんて節操のないことだろうか。
うきうきしはじめた近藤さんと対照的に、トシが小さくため息をついた。
「俺は帰るぞ、接待終わったんだから」
「かーっ! お前はつれねえなあ、いつも」
「こいつひとりで帰すわけにもいかねえだろ」
え、と思わず声が出た。ここで帰るための口実であることは百も承知だけれど、似合わない台詞だと思った。トシが絶対言わない台詞五選その一、みたいな。
「帰んねえのか?」
「え、いや……私もここで失礼します」
私が頭を下げると、仕方ないという風に松平さんは近藤さんを引き連れ部屋を出た。
「はあ、やっと帰れる」
自分の肩を揉みながら、疲れの滲んだ声でトシが言った。
「私がいてよかったね」
「……まあ、いつも最終的には振り切って帰るけどな」
「そんな頻繁に誘われるの?」
「まあな。断っても結局べろべろになった近藤さん迎えに行くはめになったりするけど」
今日は行きたくねえな、と頭をかきながらトシが部屋を出たので、私もそれに続いた。
しかし、廊下に出た途端、私は思わず息を飲んだ。
来たときは宴会が行われているような雰囲気だった廊下が、じっとりと湿度の高い場所に様変わりしていたからだ。部屋という部屋から、艶めいた声と妖しい音が聞こえてくる。どの部屋も、本格的に床入りをしたのだ。
消えかけていた気まずさが舞い戻ってきた。
こんな生々しいところを、職場の人間と歩くことになろうとは。
斜め後ろから窺ってみると、幽霊に怯え倒す男にとってこの状況はなんともないらしく、平然としている。
いつか、このうちのどこかで、この男もさっきの美しい遊女を抱いたのだ。そのときも、今みたいにすましていたのだろうか。仲直りひとつするのにも恰好がつかず、マヨネーズの妖精に誘われて壺に頭を突っ込む男とは、全然結びつかない……いや、知り合いのそういうことは想像するものではないし、したいわけでもないけれど。
この妙な空気の漂う廊下は、気分をおかしくさせる。
長い廊下を渡ってやっと表に出たときは、小さな冒険でも乗り越えたような心地がした。建物から出てもまだ地下施設内ではあるけれど、建物内にいるよりは遥かに正気に戻った気がした。
松平さんと近藤さんはさっさと先に進んでしまい、それを少し遅れてトシが追う。そのあとに続こうとしてふと、通行証として発行してもらった切手のことを思い出した。原田にもなくすなと言われたように、あれがないと女は吉原から出られないらしい。
切手を入れていた帯の中を探っていると、不意に頭上から鋭い視線を感じた。勢いよくそちらを振り返ると、たった今出てきた建物の二階の窓から、松風さんがこちらを見ていた。彼女は私と目が合ったことにかなり驚いたようで、肩を大きく跳ねさせ、すぐに障子を閉めた。
呆気にとられて、閉じられた障子から目が離せなくなった。
何だったのだろう。殺意や憎悪というような強烈なものではなかった。けれどはっきりとした、濃く突き刺さるような視線だった。トシのことがよほど名残惜しいのか、とも思ったけれど、そういう甘い類のものでもなかったし、そもそも、彼女は明らかに私を見ていた。
「……」
やっぱり、観光気分で来るところではなかったのかもしれない。
「凛子、どうした」
ずっと廓を見上げる私を怪訝に思ったトシが、先の方から声を張った。
「ううん、今行く」
すっきりしない気持ちを消せないまま、早足にトシの方へ向かった。
しかし、帯の中を探りながら、そんなことは一瞬で頭から抜け落ちていった。
「あれっ!?……や、やばい、かも……」
「ああ?」
「切手、なくした」
「切手、って……はあ!? 嘘だろ!?」
「私探していくから先帰ってて」
「待て待て、もし見つからなかったらどうするつもりだ、お前ひとりじゃ絶対出れねえだろ」
「トシがいたところで出れるの?」
「わかんねえけど、でもいねえよりはましだろ。幸い俺は隊服着てて融通利くかもしれねえし」
「……ごめん、疲れてるのに」
「悪ぃと思うならさっさと見つけろ」
しかし、さっきの見世では落ちていなかったと言われ、来るときに通った大通りを客引きたちに訊きながら戻っても見つからなかった。
そうしているうち、見世を出てから一時間半も過ぎてしまっていた。仕方がないので入口の番人に交渉してみるも、当然通せないと言われる。
「俺が保証人になるっつーのもだめなのか? ほら、警察手帳、俺の身分証だ。こいつがもし遊女だったって後からわかったら真選組まで問い合わせりゃいい話だろ」
「できやせん。実はあんたらが駆け落ちを企んでて江戸の外に逃げられでもしたらこっちはもう追いかけらんねえし、心中でもされちゃ大損害でさァ」
「んな堅ぇこと言うなよ」
「できねえもんはできやせん」
「んだよ融通利かねえな……」
トシは舌打ちをして私を一瞥する。
「つーか、そもそもこいつ遊女って柄じゃねえだろ」
「そんなの主観で測れるこっちゃねえでしょう」
「ほら見ろ、毎日刀握ってるから手もマメだらけだ、こんな遊女いねえだろ」
ぐいと手を引かれて番人の前に差し出される。必死になるあまり少々引っかかることを言っていることに、自覚はないのだろう。まあ私も同意ではあるけれど。
手を開き言う通りマメだらけの掌を見せても、番人は話にならないという風にため息をついただけだった。
「そもそも、発行した切手をなくしたってのが相当怪しいんでさァ」
「はい、それはまあ、大変お恥ずかしい限りで……」
ごもっともな意見にふたりで閉口してしまう。おっしゃる通り、普通はなくさない。
「あ、じゃあ、今から一軒一軒まわって、見世の方に私が遊女じゃないって証明してもらうのはいかがです?」
非現実的な提案だとはわかっている。吉原にある見世は百は下らないからだ。当然番人は顔を顰めて何かを言おうとしたけれど、先にトシが口を開いた。
「お前な、万が一うちの遊女だって言われたらどうすんだよ。そのまま働かされるかもしれねえぞ。向こうからしたらタダで女がひとり手に入るわけなんだから」
「た、確かに……」
ならどうすれば。
「どうした」
困り果てていると、背後から女性の声がした。トシとふたりで振り返る。
「ああ、月詠殿……いやね、この女が切手をなくしたけど出してくれって」
「切手を?」
月詠と呼ばれた女性は、煙管の煙を吐きながらじっと私を見つめた。
「おい番人、こんな遊女は見たことがないぞ」
「そんなの俺ァ知りやせんよ。切手を出せば済むのに、ねえから怪しいんでさァ」
月詠さんは呆れたように息を吐いた。
「……ぬし、吉原へ何をしに?」
「私は真選組の隊士で接待をしてたんですけど……切手をなくして、身分を証明できるものも今持っていなくて」
「真選組……」
そうして今度は、今気付いたかのように隊服姿のトシの方を見た。
「……ならばぬし、刀傷のひとつやふたつあるじゃろう。番人、わっちがこの女の身体を確認しんす。傷があれば遊女でないということで、帰してやりなんし」
「ええ……いくら月詠殿とはいえそんな」
「先日足抜けしようとした遊女、わっちらが捉えて事なきを得たが、ぬしが居眠りをしている間に門を抜けていったこと、上に報告してもいいのか?」
「か、勘弁してくだせえ。わかりやした、その女は月詠殿に任せやす」
番人はさっきまでの強気な姿勢が嘘のように、哀れなくらい弱りきってしまった。
こっちじゃ、と月詠さんが背を向ける。素直についていこうとすると、待てとトシに肩を掴まれた。
「何者なんだお前?」
「吉原自警団百華が頭、月詠と申しんす」
「自警団……こいつをどこに連れてくつもりだ」
「安心しなんし、すぐそこでちょっと見るだけじゃ。心配ならぬしも一緒に来るがいい」
「は……いや、それは……」
「……何を想像してる、脱ぐところまで見ろとは言っておらぬ」
「わっ、わかってる! さっさと連れていけ!」
何じゃこいつは、と月詠さんの顔にありありと浮かんでいるのがわかった。私もそう思う。
連れてこられたのは本当にすぐそこで、番人さんの待機する掘立小屋の向かい側にある建物だった。中には口元を隠した女たちがずらりと並んでいて、その前に立たされた。
「ぬしら、この女に見覚えはないな?」
月詠さんが言うと、女たちは顔を見合わせ一様に頷いた。
「じゃろうな。切手をなくして出られぬというので揉めておった。わっちも覚えのない顔じゃったが、念のためぬしらにも確認した」
「切手を……?」
一連の説明をされた女たちは、また一様に、切手をなくしたことにざわめきはじめた。相当前代未聞の出来事らしいことに、改めて私は恥ずかしくなった。
「では送っていこう」
「え、あれ、身体の傷は……」
「ぬしが遊女でないことくらい一目見ればわかる。それに、わっちはもう幼い頃からずっとここにいて、ぬしの年頃の遊女であれば知らぬ者はない」
それに、と月詠さんが続ける。
「本当にあるんじゃろう、傷。そんなもの他人に見せたいものでもあるまい」
「……ありがとう、ございます」
そのときどうしてか、心の奥の忘れられた場所がざわついたような感覚があった。それと同時に、それまでまったく気にならなかった月詠さんの顔の傷に、目が向かってしまった。
初めて大きな傷を作ったとき、確かに得も言われぬ喪失感を感じたことを、唐突に思い出した。誰にも見せたくはなかったし、初めて人を斬ったときと同じくらい、信じ難いことだった。いつからか気にならなくなったのは、諦観なのか開き直りなのか強くなったのかわからないけれど、もしかしたら、私は持っておくべき何かをその感覚と一緒に失ってしまったのかもしれない、そんな気がした。
番人は、私たちをばつが悪そうな顔で迎えた。月詠さんは番人に問題ないことを告げ、気を付けて帰りなんし、と颯爽と吉原の街中に消えていった。
エレベーターに乗って吉原から出ると、硬い風が頬を突き刺した。それでやっと現実に戻ったような、そんな心地がして、同時にどっと疲れが押し寄せた。
「……ほんとごめんね、付き合わせちゃって」
「まったくだ」
早く帰りたいだろうのに、歩幅を合わせてゆっくり歩いてくれている。それどころか、おそらく、疲れた私を慮って、普段よりも心持ちゆっくりですらある。
吉原への人の出入りは少なく、澄んだ静かな夜道を、散歩のような速度でしばらく黙ったまま歩く。
ふと、月詠さんのことを思い返した。
先日、足抜けしようとした遊女を番人が取り逃がしたと言っていた。結局月詠さんが捕まえたとも。足抜けに失敗した遊女は、連れ戻され厳しい罰を受けるらしい。その危険を犯してまで逃げたかった場所に連れ戻される気持ちは、どれほどの絶望なのだろう。私の傷に配慮できる月詠さんが、それをわからないはずがない。どういう事情で自警団をしているのかは知らないけれど、彼女も彼女の苦界にいるのかもしれない。
煙草を新しいものに替えるタイミングで、トシが口を開いた。
「それにしても、お前もこういうことやらかすんだな」
「うん……こういう大事な物なくしたの初めてだったから、自分でもびっくりした」
「そうか。……まあ、いいんじゃねえか。むしろちょっと安心した」
「安心? 私何か不安にさせてた?」
からかい半分で言うと、トシの声が少しむくれる。
「そういうことじゃなくてだな。なんつーの、親近感が湧くっつーか。……お前の普段の仕事ぶりはありがてえんだが、何でもできすぎてたまに怖くなるときがある」
静かだった空気は、砂利道に入り、途端にふたり分の小石を踏みつける音が響きはじめた。
親近感が湧いた、というのは嘘ではないだろう。けれど、私のことを不安に思っているのも、また本当のはずだ。
ここ最近、ザキが私を尾行している。今日もしばらく見られていた。ザキが単独でやっているとは考えにくく、トシが言いつけているのだと私は思っている。私に勘付かれないよう念入りに、終くんではなくわざわざザキを使って。その甲斐虚しく私は気付いてしまったけれど、ここまで勘が働くとは思っていなかったのだろう。
私はやましいことは何もしていない。トシも何か絶対的な根拠があって尾行させているわけではきっとない。ただ、百パーセント白じゃないと納得できないだけだ。組織の要職に就く人間として、きっとそれは正しい。だから気付いていないふりをして、納得のいくまで尾行をしてもらおうと思う。どれだけ探しても何も出てこないから、泳がせるようでザキには申し訳ないんだけれど。
煙草の火が赤く大きくなって、灰が追い風に乗って飛んでいく。
幼くして両親を亡くしたり、人を斬る仕事に就かざるを得なかったり、私の人生も易くはなかったけれど、苦界と呼ぶには易すぎるなあ、と天に向かって感謝なんてしてみたりした。