接待の翌日。その日は年に何度とないような晴天だった。だからなのかは知らないが、非番の近藤さんがお妙さん日和だとかなんとか言いながら出ていった直後から、とっかえひっかえ客がやってきた。何でよりによってこんな日に、と悪態をつく間もなく対応しているうち、あっという間に日は暮れてしまった。連絡なくふらりと客がやってくることはあれど、こう何組も重なることなど普段ないというのに、それがよりによって今日でなくても。まったく、とんでもない厄日だ。まあ、訪問客の方もどうせなら愛想の良い近藤さんと話す方が、わざわざ足を運んだ甲斐もあっただろうが。
 とにかく、今日一日そんな風に来客で手一杯であったため、雑務をすべて非番の予定だった凛子に頼んでしまった。彼女が隊内の何でも屋的な扱いとはいえ、向こうからの申し出であったとはいえ、俺の小姓というわけでもないのに申し訳なかったが、かなり助かった。
 最後の客を見送ったその足で、自室、そしてその奥に並ぶ灯りのついていない部屋を、いくつか通り過ぎる。
 この辺りは来客用や予備といった普段使われることのない部屋が固まっているため、この時間になると月明かり以外に照らすものはなく、暗くしんとしていて不気味だ。この並びの一番奥に凛子の部屋がある。女ひとりであることを慮って他とは少し離れたところを、と思ってのことだったが、かえって良くなかったかもしれない。あまりに人気がなさすぎるし、それに何より、俺が夜にここを通りたくない。できれば早足に過ぎてしまいたかったが、歩速を上げるとそれに合わせて何かが追ってきそうな気がするし、そういう意識をしていると気取られればそこにつけこまれるような気もして、結局俺はいたって平静だという風を装って、普段通りの速度で歩いた。
 そうしてぽつんとひとつだけ灯りのついた部屋の前で足を止める。
「凛子、開けるぞ」
「はーい」
 障子を開けると、微かに柔らかい匂いが漂った。
 男所帯での暮らしが長いせいか、何度来てもこの匂いに一瞬たじろいでしまう。なんとなく、男が立ち入ってはいけない場所のような気がするのだ。何かを撒いているわけでも焚いているわけでもないらしいから不思議だ。女にとって男は臭うというのはよく聞く話だが、確かにこの匂いを自然に放つ人間にしてみれば、そうなのだろう。
「悪かったな」
 しかし、嗅覚情報と視覚情報で、凛子の部屋は印象をがらりと変える。シンプル、とも言えなくはないが、殺風景と言う方がしっくりくる内装だからだ。なんせ文机と小さな用箪笥、あとは衝立があるくらいで、装飾品の類はもちろん、テレビなどの家電も何もない。文机と用箪笥にいたっては、屯所内に余っていた飾り気のない幕府からの支給品を使っている。
 その文机から凛子がこちらを見上げる。
「お疲れ。書類があと二枚で終わり」
「なら残りはやっとく」
「中途半端だし最後までやるよ」
「いいって」
「あっ」
 書類を奪い取ると一瞬不服そうにしたが、すぐに呆れたように笑った。気を遣ったのは俺の方のはずなのに、これではまるで俺が駄々をこねたみたいではないか。顔をしかめると、凛子は含み笑いをした。
「……何だよ」
「何でも」
 口元に笑みをたたえたまま、凛子は終わらせていた書類や資料を手際よくまとめた。受け取ろうとすると「一緒に持っていく」と立ち上がる。だが、紙類はせいぜいコンビニに並ぶ雑誌程度の量しかない。
「いや、いいっつの」
 取り上げるようにそれらを受け取り、何か言いたげにする凛子に「お前はもう上がれ」と背を向けようとした。
 が、その途端、ふとさっき通った暗い廊下が頭に浮かび、足が止まる。
「……」
 いやいや。ちょっと歩くだけだ。時間にして十秒程度。たったそれだけだ。
 そうは思うが、さっきの光景がいっそう鮮明に浮かんできて、足が重くなる。
 断らなければよかった。だが、今更やっぱり一緒に来いとはとても言えない。
 そう逡巡したのはほんの一瞬、だったはずだが。
「お腹すいちゃったなあー、食堂行こうかなあー」
 かなり演技がかった口調だった。ご丁寧にわざわざ腹に手まで当てて。
「……」
 わざとらしく寄越してくる視線と目が合い思わず舌打ちをすると、とうとう凛子が吹き出した。
「何なんだよさっきから!」
「あっはは! ううん、早く行こっ」
 背中をぱしんと叩かれる。一緒に廊下を歩いてやろうという親切心が半分、俺の反応を楽しむのが半分……いや、一対九くらいかもしれないが、いずれにせよ、俺の躊躇を一瞬で察してのことだ。
「書類、あと二枚くらいやっちゃったのに。もしかしたらまだお客さん来るかもしんないよ?」
「もう九時過ぎだぞ。それにこんな時間に来る非常識な奴は客じゃねえ、追い返す」
「二度あることは三度あるよ。団子賭ける?」
「団子と言わず土方スペシャル賭けてやるよ」
「それ私にメリットないんだけど」
 その勘の良さと気安さで、凛子は隊内に受け入れられたのだ。空気が読めて仕事もできるが、気取らない。かといって変にへりくだりもしない。俺だってそういうところをありがたく思うことは何度もあった。
 できることなら疑いたくはない。凛子には、気にかかる行動はあっても、裏切者によくありがちな胡散臭さを感じたことはないのだ。
 だが一方で、だからこそ疑わなければいけないとも思う。そういう懐に潜り込むことが得意な人間こそ、潜入向きであるからだ。
「あ」
 凛子が足を止めた。ひとつにまとめられた髪が揺れるのを見つめていた俺は、顔を上げ思わず「げ」と声を漏らした。
「おうトシ、近藤はどうした?」
 向かいからとっつぁんがやってきたのだ。
 凛子が振り返り「団子でお願いします」と苦笑いした。

 追い返すと息巻いていたが、とっつぁんを部屋にあげないわけにいかず、結局凛子も一緒に俺の部屋で残りの書類を片付けることになった。
「栗子のことで話があったんだけどなあ、近藤も総悟もいねえなら仕方ねえ」
「総悟はどっかにいんだろ。つーか、また娘の色恋沙汰に首突っ込む気か? もう二度とあんな野暮なことに付き合うつもりねえぞ」
「付き合うつもりはねえだと? 当然だ、栗子と付き合うなんざ認めん」
「話を聞け! それよりあんたの娘、もう十七だか十八だかなんだろ? 小せえガキじゃねえんだ、自由にさせてやれよ」
「もうじゃねえ、まだ十七だ。なあ、北川」
「そうですねえ……まだ子どもって思っちゃいますよねえ」
「だろォ?」
「おい凛子、忖度しなくていいんだぞ」
「そんなつもりはなかったけど。トシだって総悟くんのことまだ子どもって思ってるでしょ?」
「ああ? それはまた話が別だろ」
「何が違うの」
 凛子がこらえきれないという風に吹き出した。
「総悟はすぐさぼったりちょっかいかけてきたりするから……」
「さぼるのは自分だってこの間、勤務中に原田と映画見てたじゃん。あのとき総悟くんはちゃんと犯人の説得しようとしてたよ?」
「は、ちょ、待て、お前何でそれを知って……」
「あの日のトシ本当ひどかったよね。総悟くんはちゃんとターミナル傷つけないように動いてたのに、あんたは爆撃するし、それをエイリアンのせいにするって失言をマスコミに拾われて暴力で揉み消すし、避難するときもひとりパトカーに乗ってるし」
「何だお前、役職持ってちったぁちゃんとしたかと思ってたが、相変わらずだな」
「いやあんただってターミナル破壊しようとしてただろうが……つーか、何で今そんな話になってんだよ!」
「あ、ごめん、つい。私が言いたかったのは、子どもの頃から知ってるといつまでも子どもみたいに感じるもんだってこと。さぼってるから子どもなんじゃなくて、子どもだと思ってるからさぼりに目がつくの。総悟くんは、私には年齢相応にしっかり大人に見えてるよ」
 あとちょっかいかけてるのはトシに対してだけだから、と最後に言われてしまえばぐうの音も出なかった。
 完封された俺を見て笑うとっつぁんにも
「だから娘さんだって、松平さんが思うほど子どもじゃないんですよ」
 としっかり釘を刺し、「男と女じゃまた違う」とあがくのを見て凛子は笑った。
 本当に、周りのことをよく見ている。果たしてそれは、隊に馴染むための涙ぐましい努力であるのか、何かのための情報収集であるのか。
 話をしながら器用に書類を捌いた凛子が二枚の紙を整えたとき、とっつぁんが「そうだ」と話を切った。
「もうひとつ話があった」
「何だよ」
「トシ、お前の馴染みの遊女いるだろ、名前何つったっけ」
「馴染みぃ? そんなもんいねえよ」
「何言ってる、昨日呼んでもねえのにお前んとこ来たくらい気に入られてたじゃねえか」
「ああ……松風のことか? 別に馴染みじゃねえよ」
 以前同じように接待であの見世に連れていかれたとき、彼女と同衾した。といっても、屯所に帰るのも面倒臭いほど疲労困ぱいの日で、抱く気力などは当然なく、ただゆっくり寝かせてもらったのだが、一日何人をも相手にしなければならない遊女からすれば相当に有難かったらしく、すっかり気に入られてしまった。
「そうだ、松風だ。あの遊女が昨日、足抜けしたらしくてなあ」
「足抜け……?」
 思わず、凛子の方を見た。同じタイミングで凛子もこちらを向いた。
「あそこは幕府関係者御用達の見世だし、俺らが登楼した日だったもんで、まさか関わっちゃいねえだろうなって上から睨まれてなあ。んなわけねえだろとは言ったけど……」
「……」
 俺たちが息を飲んだのを見て、とっつぁんが眉に力を入れた。
「お前ら、まさか……?」
「いや、あの……関係、あるのかわかりませんけど……昨日私、切手をなくして……」
 とっつぁんの顔が、普段の八割増しくらいで渋くなっていった。