松風さんは私たちに目もくれず、前を通り過ぎていった。遊郭で見たときとは印象が全然違う。化粧もほとんどしていないし、服も髪も、地味な町娘のようだ。けれどだからこそ、普段廓で生活する彼女には、かえって浮いてしまっていた。
「……おふみちゃん、今の女の人、知ってる?」
「いえ……うちの者ではありません」
「だよね……」
「今の方、どうかしたんですか?」
「えっとね……私とさっきのおじさん、実はあの人を探してたの」
「え……」
「あ、犯罪者ってわけじゃなくて、捜索依頼が出てるだけの普通の人だから安心して」
 だからちょっと様子見させてね、と松風さんが曲がっていった建物の角から、そっと三人を窺った。窺いながら、トシにも一報を入れる。
 言い争っていた男女と松風さんが視界に入る。男は二十代、女は三十代くらいだろうか。松風さんが現れた途端、ふたりの声がぴたりと止まった。
「母上……? 何で母上が幸吉さんと一緒に……?」
 松風さんがそう言って、女の頭から足先まで視線を走らせ、息を飲んだ。幸吉とは、おふみちゃんの婚約者である男のことだろう。では松風さんはその男に会いにきて、そこで偶然母親と会ったというのだろうか。
 訝しげに松風さんを見ていた女の顔が、みるみる青白く血の気を失っていく。
「あんたまさか、おちか……? どうして」
 言葉を遮るように、松風さんが女に迫った。
「何でおさちを売ったの……? 絶対にちゃんと育てるって、私の分まで幸せにするって、約束したはずでしょう!?」
「……私だって生きていくのに精一杯で……」
「精一杯!? これのどこが! こんな贅沢な生地の服着て、抜け目なく化粧もして!」
「わっ、私だってそれくらいの楽しみがあったって……っ」
 松風さんが勢い余って女に掴みかかる。
「おさちをちゃんと育てるのが先でしょう! 私が送った金は!?」
 女は黙った。松風さんの手から力が抜けると、女は乱暴にその手を払った。
 おさちとは誰だろう。売られたというのは、松風さんと同じように遊郭に? 母親だという女が売ったとすると、おさちとは妹か、それに近い親族か。
「おちか、あんたどうやって……何でここに」
「……おさちが売られたって知って、抜けてきたの」
 そこで、松風さんがやっと存在を思い出したように、ずっと呆然と突っ立っている男を振り返った。
「幸吉さん。ぬし、わっちを身請けするつもりだとおっしゃいんしたな」
「え? あ、まあ……」
「わっちの代わりに、おさちを……わっちの妹を買い戻してくれんせんか?」
「は……」
「そこの女……わっちの母上が、妹を吉原に売りんした。けど今は水揚げもまだの十三歳、わっちを身請けするよりはるかに安く済みんす」
 なるほど、売られた妹を助けるべく、身請け話の出ていた客を頼って足抜けしたというわけらしい。
 けれど、肝心の男は目を泳がせ、情けなく狼狽えている。
「いや、でも……」
「この通りでござんす!」
 松風さんが地に手と頭をついた。
「やめてくれ、頭を上げろ松風」
「お願いでござんす! 今後ぬしの登楼のときはわっちが全額出しんす」
 地面に額を擦りつけるように、松風さんはいっそう身を低くして頼み込んだ。
 場が静まりかえった。おろおろとする男に、呆然とふたりを眺める女、頭を下げ続ける松風さん。
 その空気を破ったのは、女の乾いた笑い声だった。
「はは……そういうことだったのかい……。幸吉、あんた私が渡した金、遊郭でこの娘に使ってたんだね。私の娘とも知らずに。おちかはそうやって稼いだ金を私に送って、私はまたあんたに金を渡して……こんな狭い中で金が巡ってたなんて、とんだ笑い話じゃないか」
「……え?」
 女は一歩松風さんに寄り、彼女を見下ろした。
「おちか、あんたばかだねえ。遊女のくせに閨での甘言を真に受けるなんて」
 松風さんがゆっくりと女を見上げる。
「大方、伊勢屋の若旦那だって見栄張ってたんだろうけど、幸吉がそうそう勝手に使える金なんてないんだよ。なんせ入婿だからね。それも、正確に言えばまだ長女と婚約してるだけの若旦那見習いだ。今の旦那が引退して幸吉が身請けできるほどの自由な金が手に入る頃には、あんたの年季も明けてるだろうよ」
 松風さんが男の方を向く。男は黙ったまま、地面を見つめている。
「……まあ、ばかなのは私もだけどね。入婿は肩身が狭い、お前といるときが一番心が安らぐなんて言葉にすっかりほだされちまって。新しい商いを始めて軌道に乗れば一緒になろうなんて、そんな話信じて金まで渡してさ」
 母娘そろってばかだねえ、と女が自嘲気味に笑った。
「……幸吉さん、嘘でござんしょう……?」
 松風さんが懇願するような声をあげた。男は変わらず、視線を落としたまま黙っている。
「何とか言っておくんなんし!」
「……お前の……母親の言う通りだよ。俺にはそんな金も、そもそもお前を身請けする気もねえ。閨の戯言で、お前もそれくらいわかっていると思っていた……。だから、悪いが帰ってくれ」
 おふみちゃんは、男の本性を知っていたのだろうか。ふとそんなことを思い、背後に意識を向けたとき、松風さんが懐に手を入れた。嫌な予感がした直後、そこから小刀が現れた。私は反射的に松風さんの方に走り出した。
 彼女の母親に向けて振りかざされた腕を掴み、松風さんの正面から身体ごと受け止めた。そのまま建物の方に押し込む。
「放して! この女を殺して、残った金品と臓器でも売っておさちを買い戻す!」
「松風さん落ち着いて!」
 両手首を掴んで建物に押さえつけた。

 *

 伊勢屋の建物をぐるりとまわり込む途中、さっきの娘が壁に寄りかかっていた。
「凛子……真選組の女はどこにいる」
「この先です……」
 青白い顔で指さす先に向かうと、松風――二度会ったときとはだいぶ印象が違うが、間違いなく彼女だ――が凛子によって壁に押さえつけられていた。それを顔面蒼白で眺める若い男と中年の女。全員の視線が俺を向く。
 一体どういう状況だ。
「……土方さん……?」
 俺を認識した松風が、はっとしたように凛子の方に向き直る。
「あんた、この間うちに来てた真選組の……?」
「そうです。足抜けしたあなたを探しにきました」
 凛子が淡々と言う。松風の顔から生気がすっと抜けた。
「……そんなの、警察の仕事じゃないでしょう……? 警察ならそこの女捕まえなさいよ! あの女、私のことも私の妹のことも遊郭に売ったのよ! 人身売買でしょ!? 捕まえるならあっちでしょ!?」
「……」
「……どうしたの、吉原は幕府公認だからできないなんて言わないでよ……」
「……」
「……放して。あんたたちの代わりに私があの女を裁く。そのあとなら吉原でもどこでも行くわよ」
「人を裁く権利はあなたにも警察にもありません」
 それに、と凛子が続ける。
「臓器売買はつてを持ってないと簡単にはできません」
 一体何の話だ。全く状況が読めない。松風を売ったということは、中年の女は彼女の母親のようだが、どうしてこんなところにいる? 一緒にいる男は何者だ?
「……何なの……私が遊女だからって、ばかにしてるの!?」
「してません。ただ、たとえあなたがお母さんを手にかけたって何も解決しないので止めてるんです」
「あんたに関係ないでしょう!? 放して!」
 松風が再び暴れ出した。遊女が凛子に敵いはしないだろうが、松風の手が揺れるたび小刀が凛子の顔付近を掠めている。加勢しようと一歩踏み出したときだった。
「たとえばお母さんの金品を売ったとして!」
 凛子が叫んだ。
「話を聞いた限りでは妹さんを買い戻すお金にはきっとなりません」
「じゃあこのまま何もしないのと変わらないじゃない! だったらあの女を殺してやる!」
「変わります! 妹さんが一生犯罪者の妹として生きていくことになります!」
 松風の動きがはっと止まる。
「妹さんを買い戻す方法は思いつきませんが……ただ、せめて妹さんの苦労は増やさないようにしませんか……」
 全員が固唾を飲んで見守る。松風の手からするりと小刀が落ちた。凛子が掴んでいた手をゆっくり離すと、松風はその場にへたりこんだ。
「……松風さんのお母さん、幸吉さん。本当に、妹さんを買い戻すお金ないんですか? そもそも、買い戻せるものなのかもわかりませんが」
 凛子がふたりを振り返る。ふたりとも何も言わず、ただばつが悪そうに視線を背けるだけだった。
「そうですか」
 あくまで淡々と、凛子は言ってまた松風の方を見下ろした。
 松風が鼻をすすりはじめた。
「……年季まで、十五年くらいあるのよ……それまで健康で生きていられる遊女が、どれほど少ないと思ってるの……運よく元気でいたって、身請け話でもない限り、遊女あがりが生きていくなんて茨の道なのよ……今すぐ買い戻せないなら意味がない……」
 涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。そこで終いの雰囲気が漂ったが。
「……そうじゃなくたって、妹が毎晩毎晩、男のはけ口にされるのが耐えられない!」
 突然語気を強めた松風が小刀を拾い、自分の首に押し当てた。
「おい!」
「近寄らないで!」
 さらにぐっと刃を食いこませるので、俺はその場で立ち止まるしかなかった。凛子の距離であれば松風が動く前に止めることができるはずなのに、当の凛子はただ松風を眺めている。
「凛子!」
「止めないで!」
 松風が叫び、少しの間呼吸を整えるように肩を上下させた。そして凛子に話しかける。
「……ねえ、あんた、私が死んだあと、私の部屋の物を売ってできたお金で妹のこと買い戻してよ」
「……その場合は、おそらく見世に……」
「わかってるわよ、普通にしてたら見世に全部吸い上げられることくらい。だからあんたにお願いしてるの。幕府関係の人間ならどうにかできないのかって言ってるの」
「……私みたいな末端の人間には……どうにもできません」
 薄く笑っていた松風の口元から笑みが消えた。そう、と小さく呟き、さらに刃を肌に食い込ませた。つと細く血が流れる。
「おい! 凛子!」
 一瞬躊躇う様子を見せたが、凛子は松風の腕を掴んだ。
「放して! あんたにはこの生き地獄わからないでしょう!? 身体を売る以外にたつきのあるあんたには! そのたつきを失っても、色目を使えば誰かひとりくらい養ってくれる男は作れるでしょうしね! もしかしたら、それ目当てで男ばかりの職を選んだのかしら!?」
 松風は興奮して支離滅裂なことを叫んだ。凛子は反論も何もせずに黙ったまま、それをずっと無表情で受けていた。

 一連の事情聴取などを終え、松風を吉原に送り返したのは数日後になった。
 俺は報告書を記載するにあたり、情報を整理した。
 まず、ひったくりの被害に遭った娘について。伊勢屋の長女、おふみ、十六歳。伊勢屋には彼女と十三歳の次女、さらに十歳の三女と、三人の娘がいるが跡継ぎとなる男児がおらず、おふみに婿を取らせることにした。それがあの場にいた男、幸吉、二十一歳。
 幸吉は小さな料亭の次男であり、おふみとはまだ婚約の段階ではあるが、修行も兼ねて伊勢屋に住んでいる。しかし、まだ婚姻が済んでいないため肩身は狭く、自由に使える金はあまりない。容姿端麗で女道楽を好み、それは伊勢屋の旦那と女将――幸吉にとっての義両親――やおふみの知るところでもあったが、商才の見込みがあったため見逃されていた。それをいいことに、金づるとなる女を作っていた。
 そして見つけたのが松風の母、それと他にも何人かいた。彼女たちから得た金で遊郭も覚え、松風の馴染みとなった。金づるの女たちには適当な耳ざわりの良い言葉を投げ、松風にも身請けをするなどと言っていた。
 次に、松風の家について。大黒柱である父親が早くに亡くなり、母娘三人で生きていかれず、松風が遊郭に売られた。その際松風は妹であるおさちだけは守ってくれと母に懇願し、母もそれを約束した。しかし、母はすぐに男に溺れた。元来、男に依存する性質だったのだ。最初は生活を支えてくれる男を捕まえていたが、年齢を重ねるにつれ難しくなり、男に貢ぐようになった。そうして幸吉にそそのかされておさちを遊郭に売り、その金も幸吉に渡してしまった。
 その後吉原にて、おさちが売られたことが松風の耳に入った。自分の身請けの代わりに妹を買い戻すことを一刻も早く幸吉に頼みたいのに、次に幸吉が来るまでしばらくある。焦れた松風はすぐに忍を雇い――足抜けの協力を請け負う忍がいるらしい――、足抜けの手筈を整えていた。
 そして決行当日、見世に凛子が現れた。自身の境遇に追いつめられていた松風は、男と対等な仕事に就き、あげく女の身で遊郭にやってきた凛子に対して憎悪の念が湧いた。その腹いせに、雇っていた忍に切手を盗ませた。足抜けは元々予定していた手筈で行ったため、切手は使っていない。ちなみに、切手を探して戻ってきた俺たちが話した見世番は、雇っていた忍だった。
 外に出た松風は、一日置いて伊勢屋に向かった。一日置いた理由は、馴染みであった幸吉のところには翌日必ず追手が来ると見越していたためだ。それが幸だったのか不幸だったのか、自身の母と幸吉の修羅場に立ち会ってしまった。
 以上が話の経緯だった。順を追うと、色々と腑に落ちた。凛子が切手を失くしたこと、おふみが異様に男を恐れていたこと、松風の凛子に対する当たりがやけに強かったことの理由が。
 しかし、ひとつだけ、腑に落ちないことが残っている。
 文机を挟んで向かいに目を向ける。報告書記載内容確認のために呼び出した凛子が座っている。
「……何であのとき松風のこと止めなかった」
 あのときとは、松風が自分自身に刃を向けたときのことだ。幸い傷は浅く、表面が切れただけで済んだが、そもそも凛子の距離ならば傷がつく前に止められたはずだ。
「わざと止めなかっただろ」
 事件後この話をしたのはこれが初めてではないが、毎度のらりくらりとかわされていた。事後処理のために問いつめている暇もなく、うやむやになったままだった。
 凛子は少し考える様子を見せたが、観念したらしかった。
「……松風さんは、妹さんの幸せを心のよりどころに吉原で生きてきたわけでしょ」
 苦界で、ひとりで。
「それを失って……そのうえ吉原に帰っても、待ってるのは寄り添ってくれる誰かじゃなくて厳しい折檻で、それが過ぎれば、また春をひさぐ生活がずっと続く。今度は妹のためっていう希望もなく。生き地獄だと思った」
「……だったら、死んでもいいってのか」
「……少なくとも、それでも頑張って生きろとは言えない」
 思わずため息が漏れた。額に手を当て、うなだれる。呆れたわけではない。
「……同情する気持ちはわかるがな」
「わかってる。正式な任務じゃないけど、松風さんを連れ戻すのが仕事だったのに、自分の感情を優先させてしまったのは反省してる。二度とないようにする」
「……」
 俺は戸惑っていた。というのも、凛子のことはもう少し融通の利くタイプだと思っていたからだ。器用に清濁併せのめる、諦めるところは諦めるが必要なものはきっちり拾っていけるような、そんなイメージを持っていた。
「……まあ、わかってるならいい」
 単に、松風にひどく同情しただけかもしれない。凛子は淡々としてはいるが、何も心がないわけではない。むしろ、起伏が大きくないだけで感情そのものは豊かな方だろう。今回の件は、俺よりも女である凛子の方が同情しやすい話だったとも思う。
 なのに、何かが引っかかる。一体何なんだ。