こたつの天板にジャンプが投げ置かれた。湯呑みの中の冷めきったお茶が一滴、食べ終わったあとのみかんの皮に跳ね、定春が薄く目を開けてまた閉じた。ジャンプを投げた銀さんが身を縮こめる。こたつの上は、ジャンプ、湯呑み、みかんの皮以外にも雑多に物が散乱している。床も似たようなありさまだ。
 いくら決まった休日がないとはいえ、月曜日の午前中からこの体たらくはあまりにひどい。かといって僕が片付けてやる義理はない。さらには仕事もないので、結局僕も同じようにこたつに入ってぼおっとしている。
 朝のかぶき町は、夜の猥雑さを忘れてゆったりと時が流れる。そもそもが世間から外れた時間の流れで動いている万事屋の中だ、まともな生活を送るには並の精神力では太刀打ちできない。
 ゆるやかな角度でやわらかく差し込む陽の光を受けながらうとうととしかけたとき、玄関の戸が勢いよく開いた。その振動で湯呑みが倒れ、買って数時間のジャンプが水浸しになり、銀さんが跳ねあがる。
「ああァァアアア!」
 これ以上ないくらい汚い『あ』の音だった。軽快に廊下を蹴る音が近づいきて、玄関と同じくらいの勢いで襖が開いた。定春もしっかり目覚めてしまったようだった。
「四等が当たったアル!」
 取り乱す銀さんを尻目に「商店街の抽選?」と訊くと、頬を赤くした神楽ちゃんが大きく頷く。
「本当は一等の温泉旅行が良かったんだけど」
「一等はなかなか難しいからねえ。何が当たったの?」
「カッコーマンの生醤油アル! 四等だけど二等や三等よりも良い物だったから結果オーライネ」
「え、二等と三等は何だったの……?」
「何かよくわかんないチャラついたキッチン家電的なやつとか。でもこの醤油ならいつもの安物と違って卵かけご飯のクオリティ爆上がりヨ」
「そっか……神楽ちゃん卵かけご飯よく作るもんね……」
 物に対する価値基準は人それぞれだ。とはいえキッチン家電より生醤油に喜ぶ少女には可愛げがあるけれど、ジャンプのことで我を失う三十路手前には苛立たしさしか感じない。
「おい! 湯呑みが倒れる勢いで玄関開ける馬鹿がどこにいる!」
「銀さん、もう読み終わったんだからいいでしょ。神楽ちゃんだってわざとやったんじゃないんだから」
「おまっ、デスノート一回読んだだけで理解できると思ってんのか!? 来週から話についていけなくなったらどうしてくれんだ!」
「ジャンプ卒業のいい機会アル」
 ああ、油に火を注いでしまった。
 穏やかな午前は瞬く間に戦場と化した。
 ため息をついたと同時にチャイムが鳴った。タイミングが良い。これで喧嘩を強制終了させられる、と玄関を開け、僕は驚いた。
「あ……あなたは……」
 そこまで言って、あとが続かない。誰だかはわかる。よく覚えている。真選組の女性だ。なのに、そうだった、名前をまだ聞いていないのだ。スナックお登勢で男が暴れた日、確か土方さんが名前を呼んでいた気がするけれど。
「こんにちは、新八くん」
「こ、こんにちは。ご無沙汰してます。あの……ごめんなさい、僕あなたのお名前まだ伺ってなくて」
「あ、私自己紹介しなかったんだっけ? ごめんね、北川凛子です」
「北川さん、どうかしたんですか?」
「依頼に来たの。困ったら相談してって言ってくれたから」
「ありがとうございます! じゃあ奥で詳しく伺いますね。どうぞ」
 いまだ揉めるふたりを居間に連れ出し、汚い部屋の襖を閉じた。
 北川さんがふたりに自己紹介をしている間、お茶を淹れてお土産のケーキを切りわけた。それを全員の前に置き、僕も席につく。
「依頼ってのは?」
 他と比べてあまり面識のない人だとはいえ真選組の一員であるので、顔には出さないけれど銀さんはおそらく不審がっている。神楽ちゃんはケーキに夢中だ。
 北川さんが懐から二枚の紙を出した。一枚はふたつ折りにされていて、もう一枚はどこかの住所が書かれている。
「こっちの紙、手紙なんですけど、これをコピーしたものをこの住所に送ってほしいんです」
 銀さんが住所の書かれた紙を手に取って眺める。
「伊勢屋……この住所のあたりだと仕出屋の伊勢屋か? 近所じゃねえか。わざわざコピーまでして代理を頼むってことは、あんたが差出人だって割れたくねえからなんだろうけど」
 銀さんが視線を上げる。北川さんもまっすぐに銀さんを見る。神楽ちゃんがケーキを食べ終えた。
「……何か胡散臭えな。厄介事に巻き込まれるのは勘弁だぞ」
「犯罪や道徳に背くような話じゃないので万事屋さんに迷惑はかけないと思いますけど……」
 北川さんは一瞬迷うように目線を下げ、また銀さんの方を向いた。
「じゃあ少し長くなりますが、事情をお話しします」

 ✳︎

 この間、寝る前に水を飲みに食堂に行ったら凛子ちゃんがいたんだ。日付も変わった頃で、やかんでもなく鍋で湯を沸かしていたから何してんだって訊くと、瓶の蓋が開かないって言うんだ。見たら手元に輪ゴムの巻かれた瓶があって、俺がそんなに硬いのかって覚悟して回してみたらあっさり開いちまってな。凛子ちゃんは腕も立つししっかりしていて忘れがちだけど、こういうところは普通の女性なんだよなあ。いや、普通よりは強いのかもしれんが。まあ、それはいい、どちらにしろ瓶の蓋が開けられないことがあるわけだ。
 そのとき俺は反省したんだ。今まで俺たちは凛子ちゃんのことを男だ女だ関係なく仲間としてやってきて、それなりに上手くいっていると思っていた。けどもしかしたら、凛子ちゃんの方は今回みたいに何か困ったことがあっても、誰にも頼らずひとりで解決してるのかもしれねえってな。性格なんだろうなあ。周りは日々鍛えてる男ばっかりなんだからこんな瓶の蓋くらい頼ってくれよとは言っといたがな。だからお前らもちょっと気にかけてやってくれよ。俺も気をつけるからさ。
 休憩中、居間でそんな雑談を始めるとともにバナナを剥く姿がいよいよ本格的にゴリラだったので、俺は思わず目をしばたたかせた。そしてもう一度よく見てみたが、ちゃんと近藤さんだった。
 その話をきっかけに、周りにいた何人かが凛子のことを話し始めた。
「凛子さん、男の腕軽く捻ってませんでした?」
「あれは身体の使い方が上手いだけで、純粋な力勝負じゃねえだろ」
「でも力以外に俺らに劣るところ、あります? いつかの巨大ゴキブリ発生のときも、凛子さんが誰よりも率先して鳴く間もなく斬り倒しまくってくれてたし」
 するとすかさず総悟がこちらを向いた。
「本当でさァ。土方さんなんてあのときびびって何もできなかったってのに」
「ああ? 誰がびびってたって?」
「最初はびびる隊士たちに情けねえだの何だの言ってたくせに、あのゴキブリの正体が実は今まで退治してきた屯所のゴキブリの怨霊だって俺が言った途端、凛子さんの背中に隠れてたじゃねえですかィ」
「あ、あれは、適材適所っつーか、部下の育成っつーか、何か……そういうあれだ」
「そもそもゴキブリの怨霊なんているわけねえってのに」
「お前が言い出したんだろうが! つーか別に、んなもん信じてなかったし」
「やめろお前ら。……俺が言いたかったのはな」
 近藤さんが食べ終わったバナナの皮でぺちんと座卓の天板を叩く。
「確かに凛子ちゃんの不得手なもんなんてぱっとは思いつかねえが、女と縁遠い俺たちにゃ思いもよらん不便があるかもしれねえ、その意識だけは持っておいてくれってことだ」
 そう締めて、近藤さんは仕事に戻っていった。忘れているのかわざとなのか、バナナの皮を卓に残して。
 それを眺める俺の頭に過るのは、人知れず不便に立ち向かう凛子の健気さではなく、そんな時間に開けようとしていた瓶への疑惑だった。
「副長、普通のジャムの瓶ですからね」
 俺の思考を読んだように、山崎がこっそり耳打ちする。
「何でんなこと知ってんだ」
「局長が蓋を開けた翌朝わけてもらいましたから。飲み屋の女将にもらったんですって」
「……それは本当に同じ瓶なのか」
「局長に開けてもらったって言ってましたよ」
 付き合いきれないとでも言いたげな呆れた顔をされた。
 半月ほど前——松風の足抜け騒動が落ちついた頃、凛子がひったくりに遭ったおふみの様子を見るため伊勢屋に向かった。業務ではなくプライベートだ。そのときは面倒見のいいことだと思っただけだったが、その日以降、凛子の挙動が変わった。ぱたりと照会システムを覗かなくなり、毎度のようにあちこち出かけていた休日も外出の頻度が減った。そして、仕事中はしっかりしているが、飯時などたまに空を眺めたまま手が止まっていたりする。といっても、俺のように細かに観察していなければ気付かない程度のことではあるが。
 伊勢屋が関係しているのはおそらく間違いない。だが、一体何があったというのだ。その日も山崎は尾行していたが、中での会話までは聞いていない。
 まさか、おふみと出会ったことが既に何かしらの計画の一部だったんじゃないだろうな。それどころか、松風の件から――いや、さすがにそれは考えすぎか。
「何で夜中にわざわざこっそり蓋を開ける必要がある」
「さあ。小腹が空いたんじゃないですか」
 いよいよ山崎の返事がいい加減になってきた。膝で尻を蹴り上げると控えめな抗議の声が上がったので、舌打ちで黙らせる。
 とにかく、そんな風だったため尾行も数日前に打ち切った。山崎も本来の業務があるし、そうでなくともこれ以上は成果も見込めない。終に注意しておくようには言ってあるが、山崎がほぼつきっきりで監視してだめだったのだ、あまり期待はしていない。伊勢屋も今は跡継ぎ問題で内輪揉めしているが、商売自体は清廉潔白で妙な組織や人間と繋がっている様子もない。だから、凛子が伊勢屋を通して悪事を企てている線も薄い。
 そうなると、もうこれ以上何も調べようがなかった。
 だが、何かは確実にある。しかし、ひとつとして点と点が結びつかない。気持ちが悪くて煙草が増える一方だ。

 そんな矢先だった。凛子が大怪我を負ったのは。