一、氏名を確認すること
 二、本人に来訪者予定の有無を確認すること
 以上二点の確認が取れるまで部外者を屯所内に上げるべからず。
 書き上げて、頭を抱えそうになった。こんなことをわざわざ明文化しなければならないなんて。しかし実際事は起こってしまったのだし、同様のことは今後必ず起きる。その前にできる限りの手を打たねばならない。今まで何事もなく済んでいた事柄であっても、ある程度マニュアル化しなくてはいけないのだろう。
 手元の書類の束を手に取った。全員に今日、三親等までの家族を記載させたのだ。その提出者と名簿を照らし合わせ、丸をつけていく。記載されているのは家族の氏名と本人との関係だけであるが、ぱらぱらと見ているだけでも、入隊が最近になればなるほどその隊士のことをよく知らないのだと改めて反省させられる。
 束を捲っていき、ふと、思わずある紙で手が止まった。
 沖田ミツバ 姉
 いくつか枠が設けられたうちひとつだけに収まっている、書いた本人とは到底結びつかない繊細な文字。それが目に留まった瞬間、突風が吹いたようにあの頃へと意識が飛ばされた。武州の土や木漏れ日の匂いに混ざって彼らの住む家の匂いが蘇ってくる。古いが清潔な家の、ふたりの生活に満ちた柔らかい匂い。
 あれから片時も忘れたことはなかった、などとは言わない。想い合っていたなんて過去の話だ。口づけすら交わしたことのないような間柄で、もう四年も会っていない。連絡だって一度も取っていない。変わりなく過ごしているようなのを総悟越しになんとなく感じ取るだけで、記憶も想いも日に日に風化していく。
 幸せに過ごしていてほしい。あの頃と変わらぬ温度で思うことは、それだけだ。
 それに、武州でのことは正直言って忘れたいことも多い。素行悪く過ごしていた日々もそうであるし、彼女のことにしたって、良い思い出はいくらでもあるはずなのに、いつも最初に思い出すのはあの夜の出来事であり、旅立ちのときの様子だ。だから、あえて思い出そうとも思わない。
 それでも、彼女はいつも俺の頭のどこか片隅にいる。そして何かの拍子に浮かんできては曖昧な余韻だけを与え、妙な名残惜しさを残して消えるのだ。
 置いてきたのは、俺なのに。
 紙を捲り終わってみると、未提出は凛子だけだった。こういうものはすぐに終わらせる奴なのに珍しい、と時計に目を遣る。午後八時。取り立てて急かす必要もないが、あと一枚なので怪我の具合を聞きがてら、もう書かせてしまおうか。そもそも両親が死んでひとりで生きてきたという話だったはずだ、書く人間もいないのではないか。
 例の真っ暗な廊下を、ぽつんと灯りのついた部屋の前まで無心で突き進む。声をかけると、一瞬遅れて返事があった。
「怪我の具合はどうだ」
「大丈夫だよ」
「そうか。悪ぃんだけど、今日渡した親族の台帳、あとお前だけだからもう書いちまってくんねえか?」
「え、私だけ? ごめん……ちょっと待って。九時までに持っていく」
「それなら」
 別に明日でも。そう言おうとしたのと同時に、かんこん、と凛子の部屋で何かが落ちてぶつかった。はっと息を飲んだ。それが、あまりに聞き覚えのある、よくない音だったからだ。
「おい、今の」
「何でもない、大丈夫だから」
「開けるぞ」
「ま、待って!」
 何でもないわけがない。今のは、刀と鞘のぶつかる音だったのだ。今刀を抜く必要が一体どこにある。屯所内で刀を抜くなど手入れをするときくらいなもので、しかし、もしそうであれば焦る必要も隠す必要もないはずだ。
 制止を無視して障子を開けると、目の前に衝立が立ちはだかった。ぶつかるすんででそれを避け中に踏み込み、俺はぎょっとした。
 目に飛び込んできたのは、床の上で重なる刀と鞘、そして、通常より低い位置で帯を締めたまま上半身だけをむき出しにした凛子の背中だった。凛子は咄嗟に身体を隠すように前屈みに俯いた。
 これはまるで――。
「何してんだ!」
 後ろから肩を掴むが、凛子は上体を縮こめたまま頑なに姿勢を変えようとしない。まさか、と血の気が引いた瞬間、凛子が叫んだ。
「薬! 薬塗ろうとしてたの!」
「薬……?」
「化膿止め! 背中に手が届かないから、鞘で塗ろうとしてたの!」
 だから早く出てって、と困り果てたように言う声が、水を浴びせるようにして俺を冷静にさせた。よく見れば確かに鞘の先に何かが付着しているし、その鞘は抜き身の刀の上に重なっている。凛子が手にしていたのが刀の方だったのなら、そんな重なり方はしないはずだ。
 だんだんと状況を理解し、俺は慌てて部屋から飛び出した。
「わ、悪ぃ……っ」
「……だから待ってって言ったじゃん」
「てっきり腹でも切ろうとしてんのかと……」
「こんな長い獲物で切腹するわけないでしょ」
 普段聞くことのないいささか冷たい声でばっさりと言われ、ぐうの音も出なかった。そうだ、そんなこと、少し考えればわかったことだ。なのに勝手に思い違いをして、脱衣中の女の部屋に強引に押し入ってしまうとは。
 手のひらで顔を覆った。風紀がどうのと凛子の入隊を渋っていたくせに、蓋を開ければ故意ではないにせよ、俺が問題行動を起こしてばかりではないか。驚いた拍子に抱きついてしまったこともあった。
 そんなセクハラ行為や入隊時のパワハラ紛いの態度など、凛子にとっては嫌がらせとしか言えない出来事の数々が脳裏に浮かんでは消える。
 あまりに情けない。どうしようもない。
 すごすごと部屋に戻ろうとして、しかしまたはたと気付く。刀の鞘で背中に薬を塗ることの異様さに。いくら背中に手が届かないにしても、だ。
 近藤さんの声が蘇る。
――凛子ちゃんの方は今回みたいに何か困ったことがあっても、誰にも頼らずひとりで解決してるのかもしれねえってな
 続いて、昼間重い荷物をひとりで持っていた凛子の姿が浮かぶ。
 どうして気付かなかったのだろう。病院で薬をもらったとき、横にいたというのに。
 さっき見た傷は思っていたより広範囲に渡っていた。鞘を使ったとしても薬をきちんと塗るのは難しいに違いない。薬を塗るにも腹を切るにも、長すぎる。
 障子の向こうに声をかけようとして、しかしまた、いや待て、と思い止まる。
 背中全体だ。瓶の蓋を開けるのとはわけが違う。性格以前の問題なのではないか。男しかいないからこそひとりで済ませようとしているのに、さっきの今でこちらから薬を塗ってやろうかなどと申し出て、訝しまれでもしたらどうする。今後屯所で一緒に暮らしていくのに面倒なことこの上ない。
 やっぱり戻ろうかと一歩後退る。しかし、再び過去の出来事が頭に浮かんでくる。凛子が来たばかりの頃、隊士たちに筋肉を披露していたときのことだ。あのとき俺はお互いに気を遣えと言うつもりで注意したのだったが、結局フォローをしきれず、凛子に対してだけはしたない恰好をするなと注意したように思われたままであるはずだ。女なのだからと。
 それを気にして薬を塗るのを頼めずにいる、という可能性もあるかもしれない。
 思い返せば思い返すほど、ますます情けなくなる。凛子が屯所内の誰かに頼れないのだとすると、それは性格よりももしかして、俺のせいなのではないか。
 迷った末、結局声をかけることにした。
「……薬、塗ってやろうか」
「……」
 凛子からしてみれば俺の印象など最悪に近いはずで、だとすると悪行のひとつやふたつ、今更だ。そう思って申し出たはずなのに、いざ部屋の中からわずかに緊張が伝わってくると、途端に焦りが生まれた。ほんの数秒の、耐えがたい沈黙。
「い、嫌なら無理にとは……その、他の奴呼んできたっていいし。ほら総悟とか」
「じゃあ、塗ってもらっていい?」
「は……え、あ、ああ……」
 自分から申し出ておいてこんな間抜けな返事もない。だが、少しほっとした。
 凛子の準備を待ち部屋に入ると、凛子はさっきの恰好に、背中だけが見えるよう別の着物を前から羽織って座っていた。よろしく、と遠慮がちに言うその背中を前に腰を下ろす。
 改めて見る背中は傷だらけだった。新旧大小様々な刀傷や、いくつかの赤黒い弾痕、ところどころには火傷の痕。そしてそれらを上書くように、今回の傷が大胆に袈裟懸けされている。隊士全員の身体をまじまじと見たことがあるわけではないが、それでも、一目見ただけでわかるほど圧倒的な量の傷跡だった。考えてみればそれもそのはずで、凛子は真剣での実践経験が群を抜いている。十二歳から十五年。俺と同い年で人生の半分以上。片手で数えられる程度の俺たちとは、経験値がまるで違う。だからこの量も当然と言えば当然なのだが。
 昼間車で感じたものと同じ罪悪感が、また俺の胸中を過る。
「……ひどいでしょ、背中」
 思わず見入ってしまっていた。声をかけられ、慌てて薬を指に取る。
「あ、いや、悪ぃ……塗るぞ」
「うん、お願い」
 触れた背中の感触は、驚くほど頼りなかった。いや、しっかり鍛え上げられた逞しい身体ではある。だがそれでも、男に比べれば狭く、細く、弱々しい。そんな当たり前のことが、普段剣を握ったときの異様な強さばかりを見ているせいで、余計に主張をしてくるのだ。純粋な膂力では無力とも言える、この小さな背中にひしめく傷跡。凛子の人生の壮絶さを物語っていた。
「……お前、何で暴力団の護衛なんざやることになったんだ?」
 凛子がちらりと振り返る。
「両親が亡くなって、剣しかできることなかったから」
「じゃなくて。それはさすがに覚えてる。護衛なら他にもあったんじゃねえのかって話だ」
「ああ、そういう……」
 薬を塗り終わり、蓋を閉めて文机の上に置く。凛子が身体ごと振り返って、遠慮がちに言った。
「……ねえ、明日もお願いしていいかな」
「ああ」
「ありがと。実は……ちょっと困ってたんだよね」
「遠慮せずに言えよ、それくらい」
 どの口が言っているんだ。そう思ったが、凛子は「うん」と笑った。

 それからしばらく、俺は毎晩生々しさの残る傷跡に薬を塗った。一日数分の世話。そのたび凛子は千夜一夜物語のなんとか言う女のように、少しずつ俺に生い立ちの話をしてくれた。