謹慎が明け、数日内勤で事務仕事をした私はついに外勤業務に復帰することになった。とは言っても、初日である今日は昼間の見廻りを時短で、ということだった。フルタイムで大丈夫だと言うと「いいから」と凄まれてしまった。
入院後からトシの様子が少し変わった。ついこの間まで尾行をつけていたと思えば、今度は妙に気を遣ってくれる。今回の討入りの功績で信用してくれたのかもしれないけれど、怪我を慮って重い物を持ってくれたりするのはまだしも、先日何の脈絡もなく、風呂や厠に不満がないかを尋ねられた。入隊して何ヶ月も経つのに、何をいまさら。どういう風の吹き回しか知らないけれど、試しに「ジャグジーついたりする?」と言ってみたら、呆れ顔で即時却下された。
まあ、でも、彼なりの歩み寄りなのかもしれない。相変わらず言葉は足りなくとも、私の意見を問おうとしてくれるあたり、問答無用でマヨ丼を食べさせるよりは遥かにスマートじゃないか。
屯所の門で相方を待っていると、同じく日中の見廻り当番の隊士が次々に「お、久しぶり」と声をかけて通り過ぎていく。
どうも私は屯所内で見かけることが他と比べて少ないらしい、ということを最近になって知った。私の部屋は皆とは離れた奥まった場所にあり、風呂や厠も部屋のすぐそばにあるのをひとりで使っているから、必然的に皆と顔を合わせづらくなるのだ。考えてみれば当たり前だけれど、私にとっては盲点だった。
共有スペースにいれば皆声をかけてくれるけれど、そうでなければ誰も私のところには来ない。それもそうだ。何の裏がなくとも、わざわざあんな奥まった場所にある女の部屋には行きづらいだろう。私も私で、ここへ来たばかりの頃は、早く馴染むため一番混み合う時間を選んで食堂に行ったり、足繫く休憩室に通ったりしていたけれど、最近はあまりしなくなっていた。そこへ入院、謹慎と続いたおかげで、すっかりレアキャラになってしまったわけだ。
もう少しコミュニケーションを取った方がいいだろうかと考えているうち、相方である総悟くんがひょっこり門から顔を覗かせた。
「ご無沙汰してやす」
見舞いにも来てくれて、比較的顔を合わせていた方である総悟くんですらこれなのだ。私は苦笑いした。
今日総悟くんと組むことになったのはたまたまではなく、手負いの相方のフォローができる腕の立つ隊士、という条件によって白羽の矢が立ったからなのだけれど、残念ながら人事ミスだ。
なぜなら開始から一時間も経たないうち総悟くんは、
「凛子さん、こんなに歩いて大丈夫なんですかィ? こまめに休憩した方が……おっと、ちょうどいいところに甘味屋が」
そんなことを言い出すし、
「そうだねえ、ちょっと休もっか」
私も総悟くんからの休憩のお誘いは断れないからだ。
これは今日に限ったことではない。総悟くんが提案すれば、私は必ず了承する。それでも総悟くんが律儀にと言うべきか今のような小芝居を挟むのは、そういう遊びなのだろうと思っている。いつだったかトシが「お前にはえらく懐いてるみてえ」だと総悟くんを評していたけれど、そうなのだとすれば、こういうところのおかげかもしれない。ついつい甘やかしてしまう。いや、彼の方が先輩なのだから、従うと言った方が適切かもしれないけれど。
注文は「いつもの」と言うだけで通ってしまうようになった。総悟くんはみたらしと小豆の団子を二本ずつ、私は一本ずつ。
いつもであればそれを同じくらいに食べ終わるのに、総悟くんがあっという間に四本を食べてしまう間、私はちまちまと一本しか食べられなかった。
「総悟くん。残り物で悪いんだけど、これ食べない?」
「あり、やっぱまだ本調子じゃねえんで?」
「運動量が減ったから食欲も落ちてるみたい。元気は元気だよ」
「ああ……そういうことなら遠慮なく」
四本もたいらげたあとだというのに、総悟くんはさらに一本ぺろりと食べてしまった。
前を向いてずず、とお茶を啜りながら、丸い瞳がぐるりとこちらを向いた。
「凛子さん、俺が食ってるとき、よく眺めてやすよね」
「あ……ごめん。たくさん食べてるの、元気でいいなと思うから、つい。ごめんね不躾で」
「まあ、別にいいんですけど、凛子さんだって元気でしょう」
「何だろう、十近く年下の子がたくさん食べて、健康で、元気だと気持ちいいっていうか、何か嬉しいというか」
「何ですかィ、急にババくせえこと言って」
「あはは。総悟くんのこと親戚のおばさんみたいな目で見てるかも」
総悟くんが湯のみを置き、頭の後ろで手を組み床机に寝転んだ。三寒四温を経るたび柔らかくなっていく陽射しに、総悟くんが目を細める。睫毛がきらめきながら透き通る。
「凛子さんといると、たまに故郷の姉上を思い出しやす」
「お姉さん? ああ、あの激辛せんべいの?」
「へい」
「私に似てるの?」
「いや、似てるわけではねえんです。姉上は清楚でおしとやかでたおやかで可憐で華奢で知的で上品で家庭的で器量が良くて、あんなできた人は他にいやせん。凛子さん……いや、宇宙中のどの女とも似ても似つきやせんから」
「え、急に何……むしろ何でそれで私からお姉さんを連想したの?」
「あ、歳は凛子さんと同じですぜ」
「共通点歳と性別だけじゃねえかコノヤロー」
「まあそうなんですが……どうしてか不思議と思い出すんでさァ」
「ああそう。ありがとね、私からそんな素敵な人思い出してくれて」
両腕を後ろについて見下ろした顔は、見たことのない無邪気な笑顔だった。そんな顔、できるんだ。いつも邪気まみれの黒い笑みしか浮かべないから知らなかった。
それは、そのうち光の中に溶けていってしまいそうなくらい、優しくて儚げで、私は思わず息を飲んだ。
外勤復帰から数日後、日課だった早朝ランニングを再開した。近藤さんにもトシにも渋い顔をされたけれど、半ば強引に押しきった。膂力で男に劣る私にとって持久力は必要不可欠なのに、これ以上衰えては困るのだ。
案の定、いつものコースをたった三分の一ほど走っただけで苦しくなってきた。今日は非番だからいいものの、明日からが思いやられる。元に戻るのにどれくらいかかるだろう。
げんなりしながら走っていると、前方に何か丸いものが見えてきた。何だろう、と走りながら目をこらし、近付いていくうち女性が蹲っているのだとわかった。咳き込んでいるらしく、背中が大きく上下している。
「大丈夫ですか!?」
慌てて駆け寄ってみれば、地面に小さな赤い水たまりができている。
「きゅ、救急車呼びますね!」
携帯を取り出すと、その手を掴まれる。
「だ、大丈夫、ちょっとむせただけですから……」
「血吐いてるのに大丈夫なわけが」
「これ、血じゃないんです」
「え?」
もう一度地面に目を遣る。血以外に口からこんな赤いもの――。
「さっき食べたタバスコ、吹いちゃっただけなんです」
紛らわしくってごめんなさい、と女性は懐からほとんど空になったタバスコの瓶を取り出した。私は一瞬、言葉に詰まった。
「……タバスコ……って、吹くほど食べます、っけ?」
「あら、あなたは召し上がらない?」
咳がまだ収まりきらない中、女性はまるでそれが世にも奇妙なことであるかのように、困ったような笑みを浮かべた。一食でマヨネーズ一本を消費する人間が存在するのだから、それがタバスコだという人がいたっておかしくはない、のかもしれないけれど。
私も、困ったように笑うしかなかった。
女性を近くの公園で座らせ、咳が落ち着いたあと自販機で水を買って渡した。血は本当にタバスコで、咳はむせたのではなく発作だということだった。
「ありがとうございます。お騒がせしてごめんなさい」
「いえ……本当に病院行かなくて大丈夫ですか?」
私も同じベンチに腰掛けた。
水を飲みながら、改めて彼女を見てみる。タバスコを持ち歩いて大量摂取するとんでもない女だし、少し顔色が悪いけれど、とても綺麗な人だった。色素の薄い髪と、それと同じ色の睫毛が、陽射しに照らされきらきらとしている。
「ええ。少し休めば自然に収まるものですから」
ほらもう元気、と彼女は両手でガッツポーズを作るような仕草をした。傾げた上体に合わせて短く切り揃えられた髪がさらさらと零れる。あまりに可愛らしくて笑ってしまうと、彼女も微笑んで姿勢を正した。
「ふふ、安心しちゃったわ。江戸の方も親切でよかった」
「よそから来られたんですか?」
「ええ。ついさっき着いたところなんです。きっと列車なんて慣れないものに乗ったから、疲れて発作が出ちゃったのね。いやだわ田舎者で」
緊張してタバスコもかけすぎちゃったし、と揃えた指を口元に当てて笑う。それは共感しかねるけれど。
「私も江戸に来てまだ一年経ってないので似たようなものですよ」
「あら、そうなんですか? 江戸へはどうして? 訊いてもいいかしら」
「転職です」
「まあ、かっこいい」
羨望を送るようなまなざしを向けられると、社交辞令にしても照れ臭かった。思わず「そんな良いものじゃ」と言うと「いいえ」と毅然とした口調が返ってきた。
「都会で自立してやっていくなんて、私にはできないことだわ。憧れちゃう」
他意のない、純粋な誉め言葉だった。そんなこと、まっすぐ見つめて言われると、いよいよ本格的に気恥ずかしくて私は目を逸らせてしまった。
「ありがとう……」
彼女はふふ、と笑って、ふと時計を見上げた。
「あ、もうこんな時間。発作も落ち着いたし、私そろそろ行きますね。ランニングのお邪魔しちゃってごめんなさい。本当にありがとうございました」
立ち上がって深々と礼をされたので、私も慌てて同じように礼をした。
「道中気を付けてくださいね。できるだけ人通りの多い道を」
「ええ、そうします」
公園の入り口で別れる際、彼女がそうだ、と振り返った。
「私、これから江戸に住むことになったんです。いつかまた会えたら、ゆっくりお話しましょうね」
「はい、是非」
彼女は会釈して、今度こそ背を向けて歩いていった。私はその薄柳色の着物が見えなくなるまで見送って、またランニングを再開した。
走りながら、別れたばかりの彼女のことを考える。
私と同じくらいの歳に見えたけれど、仕事以外で今から江戸に移り住むとなると、結婚だろうか。
結婚。
私にとっては選択肢にも入らない事柄だけれど、たまに考えることはある。両親が健在のまま京で育っていれば、私も今頃結婚して子どもを作るような、普通の人生を歩んでいたのだろうかと。そうありたかったと悔やんでいるわけではない。他人に羨ましがられるような人生では決してないけれど、幸せな出来事はたくさんあった。今だって充分幸せだ。強がりでもやせ我慢でもない。本当にそう思っている。
でも。もし、過去の望む瞬間に戻れると言われたら、私は間違いなく戻る。戻って、やり直したいことがひとつだけある。たとえそれで、私の人生が地獄に変わろうとも。