いつものランニングコースを休み休みまわりきり、屯所に戻ったのは昼近くだった。
早速コミュニケーションをと居間に寄ると、総悟くんのお姉さんが武州から来訪したという話でもちきりだった。
「また攘夷浪士の差し金かと思ったら、今度は本物の家族だったなあ」
「すげえ別嬪でよ。顔だけならまあ沖田隊長と似てたかも」
「沖田隊長が別人みてえにへこへこしてよォ。もうちっと早く帰ってきてたら凛子さんも見られたのに」
「結婚して江戸に住むとか言ってたから、そのうち見れんじゃねえか?」
話を聞いていくうち、まさかと思った。さっきの女性。思い返してみれば、表情や仕草こそ違えど顔の造形は総悟くんと似ていた気もする。それに、あの激辛せんべいを送ってくる人だ、あの量のタバスコも消費しかねない。
だったら、いつかと言わずまたすぐ会えるかもしれない。
少し楽しみになったけれど、それも束の間、その夜総悟くんのお姉さんは倒れ、翌朝すぐに入院してしまった。
総悟くんが屯所に戻ってきたのは翌日、お姉さんが入院した日の昼前だった。落ち着いてから声をかけようと思っていたら、総悟くんの方から尋ねてきた。
「もしかしてなんですが。昨日の朝外で女性を介抱しやせんでしたか?」
「うん。やっぱりあの人、総悟くんのお姉さんだったんだ」
「ええ。ランニング中の同年代の女性って言ってたんで、もしかしてと思って。その節はありがとうございやした」
「ううん、全然。それよりお姉さんの容体はどうなの?」
「今のところ落ち着いてやす」
そうしてほんの一瞬口を噤んで目を伏せ、再び私の方を見た。
「ところで、そろそろ昼休憩ですよね。よかったら今から一緒に飯行きやせんか?」
「え? うん、いいけど」
「店決めてもいいですかィ?」
「うん、総悟くんの行きたいとこついてくよ」
じゃあ、と総悟くんは早速歩きだす。
見廻り中以外に総悟くんから誘ってくることなど初めてだった。気を紛らわせたいのだ、きっと。細い髪の間から覗く表情はいつも通り飄々としていても、いつもは合わせてくれる歩幅が今日はとても広い。
ここですと言われた場所は、路地を少し入ったところの、看板ものれんも出ていない戸の前だった。戸惑う私をよそに、総悟くんは躊躇いなく戸を開いた。その先には黒く光る玉砂利の敷き詰められた廊下が伸びていて、向かって左側は小さな絵の飾られた壁、右側は座敷になっているのか閉じた障子が連なっていた。カウンター席やテーブル席はもちろん、玄関からの視界に座席が一切なかった。
てっきり大衆食堂のような店に連れて来られると思っていたので呆気に取られていると、飛び石を渡って店の女将らしい女性が迎えてくれた。
「あら沖田さん、いらっしゃいませ」
「どうも。いつもの席って空いてやす?」
「ええ。お通しいたしますね」
私はまたしても呆気に取られた。一見で入ったわけではないのはわかっていたけれど、まさか常連だとは。
ぽかんとしたまま女将についていくと、入口からまっすぐ、突き当たりを曲がってまたまっすぐ進んだ一番奥の、ふたりで入るには広い座敷に通された。女将は水だけを置いて障子を閉めた。座卓の上にお品書きはなく、私がそれに気付いたと同時に総悟くんが説明してくれた。
「ここ、昼時は稲荷のついた十割そばしか出してねえんです。美味いですぜ」
「そうなんだ、楽しみだな」
総悟くんは水を飲み、置いたグラスを手元でくるくると回した。落ち着かないのだろう。
お姉さんは親代わりとなって総悟くんを育ててくれた人だ、というのは昨日隊士たちに聞いて知った。ちょっと変わった人だったけれど、確かに綺麗で上品で、総悟くんが偏愛と呼べるほどの愛情を持つのはわかる。
「……凛子さん、姉上と会ったとき何話したんですかィ?」
グラスを見つめながら総悟くんが言った。
「話? 何だっけな……発作の話と、お互いよそから来たって話と、仕事の話、かな」
総悟くんの手が止まった。目が合う。
「仕事? 凛子さんが真選組だってことも?」
「ううん。言ってたら総悟くんの話になってるよ。転職で江戸に来たって話しただけ」
「……姉上は何て?」
「私にはできないって褒めてくれたよ」
「そうですかィ……」
「良い人だね、お姉さん」
「言ったでしょう、あんなできた人他にいねえって」
口元が少し緩んだ。蘇芳の色をした瞳が一瞬揺れる。
「……お姉さん、早く良くなるといいね。あ、そうだ、私もお見舞い行っていいかな?」
「そうですねィ。もう少し落ち着いたら一緒に行きやしょう」
「うん、お姉さんびっくりするだろうね」
「でしょうねィ……まだ真選組に女性がいることも知りやせんから」
「そうなんだ。仕事の話はあんまりしないの?」
「ええ。それに……大人数とはいえ、女性が一緒に暮らしてるって余計な心配かけそうでねィ」
「そっか」
「まあ黙ってりゃいいかと思ってたんですが、こんなことになるとは」
だから、と一度伏せた大きな瞳がこちらを捉えた。その瞬間、全身がぞくりと粟立った。
「俺が話すまでは、くれぐれも、姉上に凛子さんのこと気付かれないように頼みまさァ」
「……う、うん……」
抑揚のない淡々とした口調で深々と頭を下げながら、けれどもそれは、とても他人にお願いごとをする顔ではなかった。
私を見据える目から、殺気さえ感じるのだ。ばれたら殺すとでも言わんばかりに。
これはお願いごとなんて可愛いものじゃない、脅迫だ。お姉さんに心配をかけたくないのはわかるけれど、私ひとりくらいで何もそこまで。
「お待たせしました」
そんな異様な空気を、女将の声が破った。ぱっと金縛りが解けたような心地がして、そのときやっと、自分が息を止めていたことに気が付いた。そんな私をよそに、総悟くんは女将が出ていくとすぐ、今の出来事なんてなかったかのようにあっけらかんとして箸を手にした。
「俺ァ特別舌が肥えてるわけでもねえんですが、ここのそばが他と違うことだけはわかるんでさァ」
「そうだね、香りも食感もすごい良いね」
私も気を取り直そうと、まだ少しどきどきしながらそばを食べ始めた。
なのに今度は、
「ところで凛子さん、土方さんとは実際どうなんです?」
こんなことを言い出すものだから、すぐに手が止まってしまった。
「……どう、って、何が?」
「ちょっと前噂になってたじゃねえですか、おふたり」
「噂? 何の――」
言いかけ、思い当たった。そういえば一時期そんなことがあった。入隊したばかりの、隊士たちが蚊の天人に次々にやられた事件の頃だ。けれどあの噂はそのあと驚くほどすぐに落ち着いた。それこそその出来事そのものを忘れてしまうくらいに。
というか、そもそもあれは。
「噂になったっていうか、総悟くんが根も葉もない噂流したんだよね……」
障子が開いたことに怯えたトシが私に飛びついたことを、ちちくり合っていると屯所中に触れ回ったのだ。
「根か葉はあったでしょう。密室でふたり抱き合ってたわけですし」
「抱き合ってない抱き合ってない。全然そういうんじゃないから」
「じゃあ、どういうんで?」
嘆息しかけて、ぐっと飲み込む。落ち着け。
総悟くんのことは、非常識な言動もありながら、それでも年齢よりは案外大人びていると思っている。ものもよく知っているし、達観していると感じることも少なくない。けれどもこういうところを見るに、やっぱり子どもは子どもなのだ。あの噂が消えたのは、私とトシの間に男女の雰囲気なんて欠片もないことが一目瞭然だったからだ。恋愛ごとに関しては中高生のようなうちの隊士たちですら察せるというのに。
トシの名誉のために事実は話してこなかったけれど、仕方がない。
「あれは、急に障子が開いてトシがびっくりしただけ。あそこにいたのが私でも知らないおっさんでも無生物でも同じことになってたから。残念ながら総悟くんが期待してるようなことは何もないよ」
「そうでしたか、そりゃあ失礼しやした」
さっさと話を切り上げようと食事を再開したけれど、総悟くんが続けた言葉にまたぴたりと手が止まる。
「最近土方さんが毎晩凛子さんの部屋に向かってたもんだから、俺ァてっきり瓢箪から駒が出たのかと」
「……それは」
さっきとは違う理由で、ぞくりとした。
「背中に薬塗ってもらってたの。自分じゃ上手く塗れなくて」
こんな風に邪推されるのを懸念していたから、苦労してでもひとりで解決するつもりだったのだ。
こういう類の噂は、特に男社会においては本当に危ない。誰かと男女関係にあると認識されると――それが事実であろうがなかろうが――その途端、彼らの中で私は北川凛子でなく、誰かの女に成り下がってしまうからだ。
「でももう終わったから、トシも来てないよ」
「そうですかィ」
それでも結局頼ってしまったのは、多分あのとき部屋の前であれこれ散々、迷いに迷った末声をかけてくれたのだろうトシの申し出を、どうしても無碍にできなかったからだ。
「屯所の風紀を乱した罪で副長の座から引きずり下ろせるかと思ったんですがねィ」
「……本当に何もないんだから、やめてあげてよ?」
「冗談でさァ。まあ実際のところ、おふたりからそういう雰囲気感じたことねえんでね。念には念をで訊いてみただけでさァ」
なんだ、わかってたのか。
私が咎めるように目を細めると、さあ早く食べちまいやしょう、と調子良く言ってくる。普段から掴みどころがないけれど、本当に、一体何を考えているんだか。
真っ赤な空は、お手本のような夕焼けだった。道場から打ち合う音がしたので覗いてみると、トシと総悟くんが手合わせをしていた。珍しい組み合わせだったのでつい眺めていると、ふいにふたりは手を止め、深刻に話を始めた。すぐに立ち去るつもりだったのに、何だか不穏な話が聞こえてきたものだから、思わず立ち聞きしてしまった。
「奴を見逃せと言っているのか――そんな悪党とくっついて姉貴が幸せになれると思っちゃ……」
「もう……長ぇこと……ねえみたいなんでさァ――死ぬ前に一時でも人並みの幸せ味わわせてやりてえんですよ……見逃せとは言わねえ、ちょいとだけ時間を……」
悪党、見逃す、死ぬ前に――。漏れ聞こえる良くない単語が、頭の中で話を組み立てていく。
総悟くんのお姉さんの結婚相手が、何かを犯している? それをトシが気付いた? そして総悟くんが、お姉さんの存命中は見逃してくれと頼んでいる?
あれ、と頭の中で何かが引っかかる。そして。
「土方さん。姉上がずっと結婚しなかったのはアンタのこと……」
は、と息を飲んだ。今日の出来事が瞬く間に回想され、組み立てられた話の隙間を次々に埋めていく。
そのとき。
道場を後にしようとするトシを、総悟くんが叫びながら猛追した。激しい剣幕で木刀を振り下ろす。見たこともないほど乱れたその太刀筋をトシが受け止め、カウンターをくらわせる。しばらく激しく打ち合うけれど、一撃目から勝敗は見えていた。総悟くんは呆気なく敗れ、それでも無傷というわけにはいかなかったトシは、振り返りもせずその場をよろよろと去っていった。
ぼろ雑巾のように打ち捨てられた総悟くんは、倒れたままずっと、トシが去ったあともその方向を見据えていた。
――くれぐれも、姉上に凛子さんのこと気付かれないように頼みまさァ
――土方さんとは実際どうなんです?
――姉上がずっと結婚しなかったのはアンタのこと……
一体何を考えていたのか。わかってみればこんなに単純な話もなかった。
トシの近くに、同じ屋根の下に、女がいると知られたくなかったのだ。たとえ恋愛関係にないことが明白でも、お姉さんの報われなかったらしい恋心を慮って。
お姉さんの残された時間が穏やかな幸せで満たされるよう、総悟くんは今日ずっと根回しに奔走していたのだ。私へ、トシへと。
馬鹿な子だ。健気で、純粋で、どうしようもない。