翌晩、総悟くんのお姉さんは息を引き取った。
 お姉さんが危ないという一報を受けたかと思えば、トシがひとりで不正取引の現場に乗り込んだという報告まで入ってきて、屯所内はにわかに落ち着きをなくした。そうしてトシの加勢に向かい、片付いた頃には今際の際だった。
 武州組と同じ車に乗っていたため私も一緒に病院に来てしまい、お姉さんの目に触れないよう非常階段の踊り場で待機した。
 暗いオレンジ色の蛍光灯が、薄汚い壁に囲まれた不愛想な階段を照らしている。壁は防音らしく外の音はあまり聞こえないし、空調もないので空気も冷たい。無機質で、世界から切り離されてしまったようなそこは、生と死の狭間みたいに思えた。
 人が死ぬことが辛いのは、死そのものよりも、遺されることが辛いのだと私は思っている。生きる希望を欠くほどの絶望を、癒す術が時間しかないのだから。そこから逃れる方法は他にはひとつもなくて、乗り越えたとしてもきっと一生埋まることはない穴を、他のもので埋めたように見せかけながら生きていかなければならない。死にゆく側にも心残りはあるだろうけれど、でも死んでしまえば後には何も残らないのだ。
 そんな風に思うのは、私が死んだことがないからだろうか。
 ふいに上階で扉の開く音がした。誰かが下りてくる。ゆっくり見えてきたのは、見覚えのある黒いブーツに流水紋の裾。向こうもこちらに気付いて少し目を見開いた。
「銀さん……何でここに?」
「ちょっとな。あんたこそ何で?」
「うん、ちょっとね」
 銀さんは少し間を空けて、私の隣で壁に凭れかかった。
「病院ぶりだな、もう働けんのか?」
「うん、まだ体力は戻りきってないけど、怪我は平気」
 入院中、新八くんと神楽ちゃんに銀さんがいることを教えてもらい、何度か部屋に話をしに行った。そこで同い年だと知って、私の方は親近感を覚えている。
 銀さんは腕を組み、足元を見つめながらしばらく考え込むように口を噤んでから、顔を上げた。
「あれから、何か音沙汰あったか」
 以前万事屋に依頼をした件の、その後のことだ。
「ううん。まだ地球にも戻ってないのかも」
 そうか、と呟いたきり銀さんは黙り込んだ。
 親近感は湧いたけれど、この男のことはまだよくわからないでいる。真選組とはお世辞にも良好な関係だとは言えない割に、何かと関わり合いを持つ。それは私に対しても例外ではなく、一定距離は置きながら、けれど今のように気にかけてくれる。
「……あのよォ」
 銀さんが口を開いたとき、また上階から誰かが下りてきた。今度はよくよく知っているスラックスの裾。トシだった。俯いたまま下りてきて、一瞬私たちの方を見て黙ったまま前を横切った。その頬には涙の跡。
 トシが非常階段の扉を開けると、近藤さんが駆け寄ってきた。
「トシ! 今……ミツバ殿が」
 そこで扉が閉まって、近藤さんの言葉は遮られた。
「……あんたも、そろそろ行った方がいいんじゃねえの」
「そうだね。でもその前に、銀さん今何か言いかけなかった?」
「ん? ああ、何だっけ、忘れた」
 じゃあな、と銀さんは階段を下りていった。
 それを見送って、私もトシが出たのと同じ扉から皆のところへ向かった。

 屯所にやってくる猫に餌をあげようと野良猫スポットに行くと、先客がいた。総悟くんは振り返ることなく「お疲れ様です」とソーセージを放った。「お疲れ」私も隣にしゃがんでフィルムを開けた。
 あれから総悟くんは半月ほど休暇を取り、葬儀やら何やらを終え、二、三日前に武州から戻ってきた。一度食堂で見かけたけれど、まだ言葉は交わしていない。
 しばらくふたりでしゃがみ込んだまま黙々とソーセージを千切った。
 白く薄い雲が浮かぶ、のどかな昼時だった。
「凛子さんが入隊するとき」
 総悟くんはごみになったフィルムを後ろに放り、しゃがんだまま膝の上で腕を組んだ。
「俺は何の疑問もなく賛成でしてねィ。誰かさんと違って、腕が立つなら男だ女だどうだっていいと思ってやしたから」
 まあ今だってそれは変わらねえんですが、と続ける。
「ただ、ひとつだけ後悔してることがありやして」
 総悟くんは話しながら指先を猫の顔の前でちらちらと動かす。猫がその指を必死に追いはじめた。
「そのとき俺は姉上のことなんてちっとも頭になかったんでさァ。入隊してからだって、おふたりには甘い空気もなかったし、だからこそちちくり合ってるなんて冗談も言えたんですが……」
 指を猫じゃらしのように使いながら、でもね、と続けた。
「いざ姉上に手紙を書くときに、はたと気付いたんでさァ。姉上が手にできなかったものを、凛子さんは全部持ってるってことに。丈夫で健康な身体、同じ親を亡くした身でも俺みてえなコブのねえ自由な人生……それでもって土方さんの近くにいられること。恋仲じゃねえにしてもです。姉上が喉から手が出るほど欲しかっただろうもんを全部持ってる女性が間近にいるんだって、そのときになってようやく気付いたんでさァ」
 動きを止めると、猫はじっとこちらを見つめ、しばらくして去っていった。その様子をふたりで見送る。
「凛子さんの入隊を後悔してるわけじゃありやせんぜ。それとこれとは別でさァ。どっちにしろ入隊には賛成してやした。ただ……そういうことにまったく思い当たらなかった自分が情けなくて、悔しくて仕方がなくってねィ。きっとこれは氷山の一角なんだって。そんな風に俺が鈍感だったせいで、気付かねえうちに奪ってた姉上の幸せがたくさんあったんじゃねえかって」
「総悟くん……」
「罰が当たったんでしょうねィ……でも、それでも、せめて最期くらい嫌な思いをしてほしくなくて、凛子さんにあんなお願いしたんでさァ。ご協力ありがとうございやした」
 総悟くんが立ち上がって、頭を下げた。
 お姉さんが生きていればあったはずの、話をする時間も機会も永遠に失ってしまった総悟くんは、こんな風に吐き出すことしかもうできないのだ。もっとも部外者であり、けれど健康な女であるだけでこの相関図にどうしても絡んでしまう私に。
「……私はお姉さんのことほとんど知らないけど、でも、総悟くんのいない人生は欲しがってなかったと思うよ」
「……」
「総悟くんがいたから幸せだったこと、きっといっぱいあるよ。お姉さんの愛情感じなかったわけじゃないでしょ? だから総悟くんもお姉さんのこと、宇宙で一番で、唯一無二なくらい大好きだったんでしょ? なのに、自分が邪魔だったようなこと言ったら、お姉さんきっと悲しむよ」
 立ち上がって総悟くんの丸い頭に手を置くと、鼻を一度だけ啜って顔を上げた。丸くて大きい瞳が僅かに潤んでいる。
「やっぱり凛子さんは、どうも姉上を思い出していけねえや」
 全然似てねえのにね、と弱く笑って、総悟くんは部屋に戻っていった。
 その後姿を見送りながら、彼を守ろうとした男のことを思い出す。
 トシがひとりで不正取引現場に乗り込んだのは、総悟くんが隊内での立場を失わないようにするためだったと後から聞いた。それに対して近藤さんは、仲間なのにと呆れていたけれど、私はトシの行動がとても腑に落ちた。
 トシが考えていたのは、ひとつは総悟くんを守るため、そしてもうひとつ、それにつけこまれ組織が分裂することを防ぐためだったんじゃないかと思うのだ。
 隊士の数が増えた今、真選組は近藤さんたち立ち上げメンバーの思う像と実情とが、乖離してきているのだろうと私は思っている。立ち上げ当初は隊士ひとりひとり密に繋がっていた絆が、今きっと僅かずつ薄らいでいる。現に、先日家族を偽った攘夷浪士の侵入を許してしまう事件もあった。あれは隊士に悪気がなかったとはいえ、悪意を持った隊士はもしかしたら潜んでいるかもしれない。
 所詮は他人同士の集まりだ。始まりこそ近藤さんの人柄のもとに団結していたのだとしても、後から入ってきた隊士もそうだとは限らない。私だって、近藤さんのことは大好きだし、役に立ちたいとも思うし、近藤さんに惹かれる皆の気持ちもよくわかる。けれども剣を振るう理由とは別の話だ。トシや総悟くんのように近藤さんに命を懸けているわけではない。きっと私のような隊士は他にもいて、そうやって向いている方向や認識の微妙なずれが、いずれ組織のまとまりを失わせたとしても何の不思議もない。
 だから、そんな繊細になりつつあるこの状況下で、内部での亀裂を生みかねない今回の件を隠密に済ませようとしたトシの考えは、私にはよくわかるのだ。
 しかし近藤さんは、皆が強い絆で結ばれていると信じている。そこから誰も漏らすまいと思っている。上に立つ者としては少し人が好すぎるけれど、だからこそ皆慕うのだ。近藤さんにはそうあってほしいと、そう思うのだ。
 だからトシはひとりで乗り込んだのだ。総悟くんを、近藤さんの信条を、真選組を守りたかったから。
 そして、それと同じ熱量で総悟くんのお姉さんのことを想っていたことが、今回の話をややこしくしたのだろう。具体的なことは知らないけれど、なんとなく察しはついた。
 受け入れる気もないくせに、何年も帰りを待つほどの隙を与えてしまった男。そういう風に見ることもできるけれど、おそらく二十二、三歳だっただろう時分のことであるし、何よりあの男のことだ、一方的に責め立てる気にはなれない。それはきっと総悟くんも同じで、だけれど、それでもやり場のない気持ちをぶつけずにいられず、ふたりはあんな風になったのかもしれない。
 すべてを取りこぼさずに生きていければどれだけいいだろう。けれどもそれができないから、皆いつだって何かを選び、時には断腸の思いで切り捨てて生きていく。
 すべてはその取捨選択の積み重ねなのだ。