京之介と再会して一週間。
銀さんたちのおかげで、攘夷浪士の検挙を理由に厳重注意で事は済んだ。自ら謹慎を申し出たけれど、休みたいなら有給を使えと断られてしまって、そのまま一週間休みをもらうことになった。今日が最終日だけれど、日課の早朝ランニングとご飯以外は、ずっと部屋で寝そべっていた。京之介のことが片付いて、燃え尽きてしまったのだ。
京之介はあの翌日伊勢屋に挨拶に行った。どうにか跡継ぎに、とご主人にかなり粘られたらしいけれど、丁重に断ってきたと苦笑いしていた。
「本当に長男だったとしても、十八年経って突然現れた男を跡継ぎにしたがるなんておかしいですよ」
しっかりしてやる気もある娘がいるのに、と呆れていた。そして「あんな家で育ってたら、長男というだけで自分が偉いと勘違いする人間になるところでした」とも。
「でも、曲がりなりにもずっと心配してくれていたことや、僕をこの世に送り出してくれたことは事実ですから。たまに連絡取ったり挨拶したり、繋がりは持っておくことにしました」
でも育ての親を捨てたくない、と伝えると渋々納得してくれたそうだ。育ての親についても訊かれたらしいけれど、私に繋がることは一切話さなかったらしい。
「だから姉上。もし僕を拾ったことに罪を感じてるなら、伊勢屋に後ろめたい気持ちを抱えながら生きてってください。長男を奪って、なおのうのうと一緒に生きてるって。それを罰にして、二度と僕を捨てるなんて選択肢は選ばないでくださいよ」
生意気にそんなことを言って、留学先に戻っていった。
瓦礫の中に埋もれていた赤ん坊が、ずいぶんと育ったものだ。私がいなくなっても大丈夫なようにと思ってしっかり者に育てたのは私だけれど。
この一週間、延々と京之介のことを思い返していた。拾った日から、初めて立った瞬間歩いた瞬間、手術の日も拾ったときと同じように笑っていた顔、文字が読めるようになったときの喜び、喧嘩に弱くて体術を教えたこと、私の背を抜いた日の寂しさ、将来の道を見つけたときの覚悟。江戸に出てくるときに、置いてきたものを何度も何度も。
ぼおっと障子の方を眺めていると、人影が現れた。
「凛子。飯行くぞ」
✳︎
一週間部屋に籠っている凛子を、皆気にかけながらも黙って見守っていた。激しく落ち込んでいるというよりは、気が抜けてしまったという様子だった。
「……凛子ちゃん、辞めるつもりじゃねえだろうな」
人のはけた会議室で近藤さんが呟いた。残っていた俺と総悟が、立ち上がりかけてまた座った。
それは、皆頭のどこかで考えていることだった。京之介のために地元を離れた凛子に、もう江戸にいる理由はないのだ。
「でも、辞めたところであの経歴の女を雇ってくれるとこなんざそうそうねえだろ」
「あれ、土方さん知らねえんです?」
「何が?」
「凛子さん、前職での貯金でもう生きていけるらしいですぜ」
「……はあ!? あいつそんな稼いでたのかよ」
「質素な生活になるけど、とは言ってやしたけどね。裏稼業ってすげえや」
本当なのか。いや、仮に事実だとしても、放っておけば休まず仕事をする女だ。働かない姿なんて想像できない。
ふと、ふたりの視線がこちらに注がれた。
「……何だよ」
「もうすぐ飯の時間だし、トシ、ちょっと凛子ちゃん連れだしてこいよ」
「え、何で俺」
「嫌なのか? 薄情な奴ぅー」
「嫌ってわけじゃ……ただ、そういうのはあんたの方が向いてんだろ、近藤さん」
「そうでもないさ」
勢いよく肩を組まれ、いやににやけた顔で耳打ちされる。
「お前が夜な夜な凛子ちゃんの部屋に通ってたこと、知ってんだぞ」
「は……?」
一瞬、何のことかわからなかった。
「……あ! まさかこないだの……!? いや、あれは背中に薬塗ってやってただけだぞ!?」
抗議すると近藤さんは大笑いして背中をばしんと叩いてきた。
「あっはっは。それも知ってる」
「……おい、まさか、知らねえところで変な噂立ってんじゃねえだろうな」
「最初はちょっとざわついたけどな。でも毎日十分もせず出てくるし、凛子ちゃんの退院後だったから、薬じゃねえかって話に落ちついたよ」
「……だったらいいけど」
「ただ、あの何でもひとりでやる凛子ちゃんが、まさか犬猿の仲だったお前に頼むなんて、とはなったけど」
「そりゃたまたまだ。声かけたのがあんただったらあんたに頼んでただろうよ」
「え、トシが声かけたの?」
「そうだけど」
「へええ?」
近藤さんが切れ長の目を丸くして瞬かせた。いちいちつっこまれるのもうっとうしいが、含みを持たせるだけなのも気持ちが悪い。
「何だよ」
「いや……まあ、とにかく。変に勘繰ったりしてるわけじゃないが、凛子ちゃんの場合、俺よりトシの方が話しやすいんじゃねえかなってことだ」
「そうかあ?」
「もし凛子さんが辞めることを考えてるんだったら、入隊を大反対してた土方さんが引き留める方が効果あるんじゃねえですかィ」
「……」
それは確かに、一理なくはない。うんうん、と頷きながら近藤さんが肩に手を置いた。
店構えを見た凛子が訝しげにこちらを見上げた。
「奢りだ、安心しろ」
と言っても、金持ちだという話を聞いたあとでは恰好がつかない。
「いや……急にこんな店連れてこられて奢られるなんて逆に不安なんだけど……」
誰に狙われているのか、凛子は身を隠すようにして小声で話した。
連れてきたのは、接待のときにしか行かないような鮨屋だった。とはいえ、回る鮨より当然高いが、俺が払える程度だ。法外に高いわけでもない。
「嫌か?」
「嫌っていうか……」
「お前鮨好きつってなかったか?」
「へえ?」
凛子が素っ頓狂な声を上げるので、俺は不安になった。以前確かそう言っていたはずだ。江戸の美味い店を教えてくれ、と。
「言ってなかったか……?」
「いや、多分言った、けど」
「じゃあいいだろ」
覚えてたんだ、と凛子が言うのを聞こえなかったふりして、店内に入った。個室だったからなのか、凛子はさらに何かを警戒していた。
「別に悪ぃ話しようってんじゃねえよ。上司が部下にご馳走してやるだけのこった」
ほら、とお品書きを投げてやると、おそるおそる手に取って、やっといくつか注文をした。
酒と一品目が運ばれてきて、この一週間に起きた出来事――総悟の新しい嫌がらせだとか、そういう他愛もないこと――を話してやると、酒も手伝って、少しずつ凛子の表情は緩んでいった。
少しずつ注文に遠慮がなくなってきた頃、次の酒を待っているとき、
「明日から働けそうか?」
話を切り出すと、わずかに凛子が緊張した。
「うん。ごめんね、一週間も休みもらって」
「そりゃ別にいい。お前は元々休まなさすぎだ」
新しい酒が運ばれてくる。なみなみとグラスから溢れた酒が升いっぱいになるのをふたりで見つめる。
店員が離れ、凛子がそれに口をつけた。
「休みって、何したらいいかわかんなくてさ。今までは京之介がいたから色々やることもあったけど……江戸に来てから、時間が空くと京之介のことばっかり考えちゃって、働いて気を紛らせてた」
笑いながら一抹の寂しさを浮かべる顔に、別の顔が重なった。
――皆が……そーちゃんがいなくなったら、私何して過ごそうかしら
江戸に出る直前、近藤さんにそう言っていた。
彼女はいつだって、誰よりも自分よりも、何よりも総悟だった。二言目にはそーちゃんそーちゃん。俺と話していたって半分以上総悟の話で、俺と話すことより総悟の話をすることを楽しんでいるだけなのではないかと思うこともよくあった。それだけそのときの彼女は、何よりも幸せそうに見えた。
家族とはそういうものなのだと、俺はふたりを見て知り、純粋に羨ましいと思った。存在するだけで疎まれることの多かった俺には、存在するだけで愛されることなど幻想のような夢物語だったからだ。だから総悟が俺に敵意を向けることはお門違いもいいところで、誰がどう見ても、彼女にとって最愛は総悟だった。
凛子にとっての京之介も同じことなのだろう。
「この一週間はどうだった? 一応、京之介のことは解決……かはわからねえけど、決着はついたわけだろ」
「うん……」
凛子が升からグラスに酒を注いだ。
「……そう、解決はしてないんだよ。今後たとえば、京之介の結婚とか、そういう人生の節目に私の存在が邪魔するかもしれないっていう懸念は残り続けるわけだから」
姉上をないがしろにするような女なんかこっちからお断りでさァ。総悟ならきっとそう言う。
江戸を去る前、京之介は俺たちにも挨拶をしていった。ご迷惑をおかけしました、と本当に思っているのかいないのか、笑顔で元気よく京之介は頭を下げた。総悟とはまた違ったくせのあるガキだった。
「なあ」
去りかけた背中に投げかけると、きょとんとした顔で振り返った。それは歳相応の幼さがあって、よそ行きの笑顔をたたえた表情よりも、いくらか可愛げがあった。
「これじゃあ姉貴はずっとお前に引け目感じながら生きてくことになるんじゃねえのか? お前はそれでもいいのか?」
もし俺が京之介だったら、凛子を追わなかったかもしれない。自分との関わりそのものが凛子を苦しめるのだとしたら、自分のエゴで凛子のそばにはいられない、俺だったらそう考える。だから純粋に気になったのだ、京之介を突き動かしたものが何なのか。凛子が去った意図を理解できなかったわけではあるまい。
京之介は、さも当然のように答えた。
「それでいいんじゃないですか。姉は僕を拾ったことを罪に感じてるらしいので、それが罰ってことで。僕としては罪に思わないでほしいんですけど、でも、どうしても罪の意識が消えないなら、罰があった方が多少は気が楽だと思いませんか? それで、どうせ罰を受けるなら僕を捨てるんじゃなく、僕と一生関わるという罰を受けてもらおうと思ってます」
拾ったものは最後まで責任持ってもわらないと、と笑って、京之介は帰っていったのだ。
「……あとはお前が覚悟決めるだけなんじゃねえのか」
凛子が視線を上げた。
「覚悟?」
そう、京之介を突き動かしたものはそれなのだ。
「誰かと一緒にいるってのは、いいことばっかじゃねえだろ。そんなつもりなくとも相手を傷つけて苦しませることもある。それはどうしても避けられねえ。自分が苦しむ分には構わねえが相手が苦しむのは嫌だっつーのは大抵の人間が思うことだが、本気で手を取り合いたいなら、それでも一緒にいてくれって、思い切って相手に身を委ねる覚悟が必要……なんだろうと俺は思う」
「……」
「お前があいつのことで後ろめたさを感じ続けることは承知のうえで、あいつはお前の手を取りに、覚悟を見せにきた。苦しむかもしれねえのはお互い様で、それでもお前と一緒にいたいって伝えに来たんだ」
俺も、傷つけたくなくて、苦しませたくなくて、覚悟ができずに突っぱねた。俺と凛子は、そういう部分できっと似ている。
だんだん凛子の目に膜が張っていく。しかしやはり一滴たりとも零さない。
「……覚悟か……そうだね」
一度鼻をすすり、一口酒を飲むともう涙は引っ込んでいた。
そうだね、と凛子はもう一度だけ呟いた。
「……凛子」
「ん?」
「もう他に隠し事はねえだろうな。寝てるときに近付くと危ねえだとか、弟がいるだとか、何もねえって言いながらごろごろ出てきたわけだが」
凛子が目をぱちぱちと瞬かせ、唇を少し尖らせる。
「うーん、とね……あ、る」
「……あんのかよ。今すぐ言え」
「ふたつあるけど、どっちから聞く?」
「ふたつもあんのかよ! どうせどっちも聞くんだからどっちだっていい」
「……じゃあひとつ目ね。前にひとりで攘夷浪士に突っ込んでいった理由なんだけど」
背中に大怪我を負った、あの日のことだ。
「調子に乗ったからって言ってたやつか?」
「うん。あれ、嘘でした」
「まあ……嘘くせえとは思ってた」
「だよね。ただ、幹部は絶対に捕まえられる自信があったんだよ。でもそのあと生きてられるかは五分五分だった。死んだら死んだで別にいいかなと思ったんだ。京之介と離れて、本当の親も見つかって、何か、生きる目的とか希望みたいなのが一瞬わからなくなってたから」
以前にも同じような話を聞いた、と少し考え、思い当たった。松風の件だ。松風が自傷しようとしたのを凛子が止めなかった理由。あのとききっと、生きる希望を失った松風に、自分を重ね合わせていたのだ。
「……で、ふたつ目は?」
「ふたつ目は……」
凛子が目を伏せ、口ごもる。
「……言いにくいんだけど……」
「な、んだよ」
まさかやっぱり辞めるつもりじゃ――。
「えっと……私、ゴキブリがだめで……」
「ゴッ……え、ゴキブリ?」
何だそんな話か、と脱力したが、ふと閃光が走るように数か月前の記憶が蘇った。
江戸で巨大ゴキブリが発生した日。屯所も例外ではなく、あちこちに現れたゴキブリに怯えまくる隊士たちの先陣に立ち、俺は刀を抜いた。
「でかいだけでただのゴキブリだろうが、真選組隊士が聞いて呆れるぜ。ったく、情けねえ」
しかしゴキブリに斬りかかろうとしたとき、総悟が言ったのだ。
「今テレビで言ってやしたぜ、こいつら今まで人間が退治してきたゴキブリの怨霊だって。斬ったら呪われたりしやせんかね? まあ土方さんならいいか」
「怨、霊……?」
途端、さっきまでただのゴキブリだったそれが、突然禍々しいオーラをまとい始めたのだ。ひやりと背筋が冷え、反射的に身体が後退した。そしてちょうど背後にいた凛子の後ろに隠れた。
「おい凛子、やれ」
「わ、私!?」
「凛子さーん、そいつ鳴いて仲間を呼ぶらしいんで、鳴く前に仕留めてくだせえ」
「ええ……霊なのにそんなアナログなの……?」
そうして凛子が鳴く間も与えず斬り捨て、屯所内のゴキブリは一掃されたわけなのだが。
「……じゃあ、あのとき、お前も嫌だったのかよ……」
申し訳なさそうに凛子が頷いて、長いため息が漏れた。
凛子が誰かを頼れないのは、やっぱり俺のせいなのではないだろうか。
「……悪ぃ」
あまりに情けなく手で顔を覆って俯くと、凛子が噴きだした。
はは、あはは、と個室に笑い声が響く。
しかしだんだん、わずかずつ、声に力がなくなっていき、俺はふと顔を上げた。
「凛子?」
「はは……」
ぽろりと涙が零れた。一粒流れると、そのあと止めどなく続いた。
「……凛子」
「ごめ……何か、笑ったら、気が、抜けた……って、いうか……」
目元を拭う指先は、すぐに手の甲に代わった。だがそれも追いつかず、ごめん、違う、こんなつもりじゃ、とよくわからない言い訳をしながら、凛子はハンカチで顔を隠した。
長年の、人知れない戦い。京之介の前から消える決意をした日から――いや、もしかしたら、フィールドが変わっていっただけで、京之介を拾った日から、ずっとひとりで背負っていた戦いが、終わったのだ。
「ごめ……ごめ、ん」
「お前は謝りすぎなんだよ」
俺と向き合うつむじ、の少し上、後頭部にそっと手を乗せた。
「……嫌だったらやめる」
凛子は小さく首を横に振った。
「じゃあ、素直に甘えとけって言っただろうが」
そう言うと、ようやく蚊の鳴くような声で、ありがとう、と聞こえた。
そうしていると、凛子はやはり躊躇いなく人を斬るような女でなく、その辺の町娘と変わらないように見えた。