廊下の奥から甘えた愛らしい鳴き声が聞こえた。覗いてみると、ザキが濡れ縁から野良猫数匹にソーセージを千切ってやっていた。
「猫!」
「あ、見つかっちゃった」
「何、内緒事なの?」
「どうしても隠したいわけじゃないんだけど。最近庭に猫の糞が増えたって副長がイライラしてたからさ。でも今更あげないのも可哀想で」
 ソーセージを差し出されたので、私も隣にしゃがみ込んで千切って放った。
 すると、何かを咥えたサバトラの猫が一匹、塀を乗り越え庭に入ってきた。そのまま真っ直ぐにザキの方に向かい、咥えていたトカゲの死体を沓脱石の上に置いた。
「いつもありがとね」
 ザキがティッシュでそれを包み縁側に置いた。
「それ、もらうの? どうすんの? 食べるの?」
「そんなわけないだろ、後で捨てるよ」
「その子、いつもこんなの持ってくんの?」
「うん。猫って狩ったものをお土産として持ってくることがあってね。まあ本当のところはお土産じゃなくて、人間に餌を与えてやってるつもりだとか、狩りが成功した自慢をしてるだけだとか、そういう意味合いのものらしいけど。でも好物を分け与えることで愛情表現してくれてるのかもって思う方が嬉しいから、俺はお土産ってことにしてる」
「へえ、ロマンチストじゃん」
「まあね。こんなむさ苦しい所だから、それくらいの癒しがあってもいいと思わない?」
 ね、とトカゲを持ってきた猫に同意を求めたザキは、ふと何かを思い出したようにこちらを振り返った。
「そうだ、凛子ちゃんはもう副長にマヨ丼勧められた?」
「急に何の話?」
「いやね、副長もあの劇物を人に勧めては迷惑がられることが度々あるんだけど、もしかしたらそれも同じように愛情表現なのかなと俺は思ってて。そうだとしたら、あのマヨ丼も無碍にもできないなあと思うわけさ」
「なるほどねえ……」
 ソーセージがなくなってしまった。手持無沙汰になった私は、濡れ縁から足を投げ出した。
 食堂で見かける度にマヨネーズを丸々一本使い切っているので好きなのだろうとは思っていたけれど、あれを人に勧めているとは。
「まあ、私は無碍にする機会もないだろうけどねえ」
 副長とは、面接以来ほとんど挨拶しか交わしていないのだ。
 面接時からなんとなく察してはいたけれど、副長は、前職のことなんかは建前で女の入隊に反対しているようだ。
 試験を受けると決めた時点で性別を理由に敵意を向けてくる人間がいることは想定内だった。前職のときも男社会にぽんと飛び込んだので、似たような経験はある。腹が立たないと言えば嘘になるけれど、副長の考えも理解できないわけではない。人間は安定を好むものだから。
 そういう場合、当たり障りなくやるのが一番だというのも前職で学んだ。仕事で求められる結果を出し、不要な刺激は与えないことだ。有用であることを大人しく示し続けていれば、そのうち諦めるか認めるか、どちらにせよ徐々に受け入れてもらえるものだ。まあそれは二週間前、隊士たちに褒められたことで舞い上がり、筋肉を披露したせいで失敗してしまったけれど。
「副長、悪い人じゃないんだよ。物凄く不器用なだけで」
「……猫からマヨ丼、強引に話繋げたなと思ったけど、それが言いたかったの?」
「どうかな」
 ザキはサバトラの猫を抱き上げて笑いかけた。
「ザキは優しいよね」
 ところどころ黒の交じった白猫が私の膝の上に乗って丸まった。その背を撫でながら私は言った。ザキは黙ったまま、視線で先を促した。
「よく副長から理不尽な八つ当たり受けたりしてるけど、こうやってフォローするわけじゃない?」
「はは、まあねえ……副長が色々憎まれ役を買って出てくれてるおかげで、俺たちはまとまった組織でいられるわけだから。そのストレスの発散と思えば」
「大人だね。さすが、そんな顔して実は三十二歳」
「馬鹿にしてんだろ」
「超褒めてる」
 不意に、頭を撫でていた猫が何かを感じ取ったように立ち上がり走り出した。他の猫たちも一斉に散っていき、一瞬で庭には食べかけのソーセージがいくつか散らばっているだけになった。
 何事かと猫たちの行く先を目で追い、衣擦れの音にはっと顔を上げた。
「おい」
 煙を撒き散らしながら、副長が廊下を一直線に歩いてくる。声色も表情も、不機嫌一色だった。
 またやってしまったと思った。ザキの話からすると、猫のことを副長は快く思っていないのに。
 副長は私たちのすぐ近くで立ち止まった。
「……」
 煙草がじりじりと短くなっていく。そのまま一本丸々吸い切るつもりなのかと思うくらい、副長はずっと押し黙ってこちらを見下ろし続ける。
 もしかしたら、こちらが先に謝るまでこうしているつもりなのかもしれない。そんなに意地の悪いことをされるほど嫌われているとすると、本当にこの先が思いやられる。
「あの……副長、何か用ですか?」
 途方に暮れそうな空気を、ザキが容赦なく破ってくれた。その声色はどこか強気でもあり呆れた様子でもあって、私が思ったほど張り詰めた空気ではなかったのか、単にザキが空気を読めなかったのか、どちらにしろ少しほっとした。
 すると副長ははっとしたように目を見開いた。
「いや、用っつーか……何つーか、その、あれだ」
 一転、今度はごにょごにょと要領を得ない言葉が止まらない。ザキの溜息が聞こえた。
「用がないなら俺は行きますよ」
「ああ……」
 呆気なくザキが立ち上がるので、私は驚いた。どういう状況なのかはよくわからなかったけれど、このままふたりで残されるのは困る。ザキに乗じて私も逃げようとすると、腕を掴まれた。驚いて勢いよく振り向くと、思わずだったようで「あっ、悪ぃ」とすぐに離される。
「……昼、食ったか?」
「いえ、まだですけど……」
 まだ、朝の十一時前だ。
「外に食いに行かねえか」
「今から、ですか?」
「無理にとは言わねえが……」
 相変わらず眉間に皺を寄せている。けれど、眉は少し困ったような角度がつき、口も真一文字が少し反ってへの字だ。いつものような威圧感もすっかりどこかへ消えている。
 漫画であれば、汗のマークがたくさん飛んでいそうなくらい、副長はいっぱいいっぱいのように見えた。