連れて来られたのは、居酒屋を兼ねた定食屋のような店だった。小綺麗な店構えで、客のほとんどが中年男性だ。カウンターに立つ男女ふたりの夫婦経営だろう。
「土方さん、いらっしゃい。一人じゃないなんて珍しいわね」
 私たちの座ったテーブル席に水を運んできた女将が、副長と私の顔を交互に見る。目にありありと浮かんだ好奇心は隠す気もなさそうだった。
「うちの新入りだ」
 それを否定したつもりなのかただの紹介のつもりなのか、副長はそれだけ言った。よろしくね、と笑いかけてくる目にはまだ探るような色があったけれど、私はただ会釈をした。
「いつもの二つ」
「はいよ」
 何を確認されるでもなく、勝手に注文を済まされる。女将が背を向けると、副長は早速煙草に火をつけた。
 あまりに脈絡のない誘いだったので、何か話があるのだろうと思った。真選組への正式採用が決まったことは近藤さんから聞いていたので配属の話か、まさかとは思うけれど親睦目的か。何にせよ、悪い話をしようという雰囲気ではなかったから、声をかけられたことは少なからず嬉しかった。
 それなのに、副長は屯所を出るとき「美味い店がある」と言ったきり、コミュニケーションを取ろうとしない。道中はずっとだんまりで、歩幅を合わせてくれることもなく、腕を組んで前だけを見据えて歩いたので、私もただただ早足に隣を歩いた。幸いそう遠い場所にある店ではなかったけれど、それでも随分と長い時間に感じた。
 そんな風だったので、副長の目的も情緒もさっぱりわからず戸惑っている。
「……このお店、よく来るんですか?」
「え? ああ、まあな」
 ようやく振ってみた世間話の結果が、今の一瞬で終わってしまった会話だ。ならば、本題まで私ももう何も言うまい。
 いてもたってもいられない、というほどではなくとも、おさまりの悪い空気ではあった。
 煙草が半分より少し短くなったくらいでようやく、副長が口を開いた。煙草を灰皿に傾け、両手を膝に置いた。
「……面接のときのことだが……その……悪かった」
「いえ……こちらこそ。手合わせのときは大人気もなく」
 あのとき副長が本気を出せなかったのは、女を見下しているわけではなく、女相手に戸惑っていたというのはすぐにわかった。けれど、私も私で焦っていた。実力で勝負したいと、松平さんのコネを断っておきながら不採用だったなんて、あまりに恥ずかしいのであんな勝ち方をした。わざわざ馬乗りになる必要も、副長が女相手に戸惑いを見せたことを伝える必要もなかったのに、誰にも反対を言わせないための演出をしたのだ。まあ、私のことが気に入らないからといって、高圧的な態度を取った副長に腹が立ったのも確かだったけれど。でも、それはそれだ。
 謝りながら軽く頭を下げると、「いや……」と副長はばつが悪そうに頭を掻いた。
 これで形式上は和解、これにて一件落着、なのだろうけれど、私たちの間に一ヵ月かけて溜まった気まずさがいきなり霧散するわけでもないし、突然副長が饒舌になることもきっとない。
 そんな絶妙に居心地の良くない空気の中、コップが汗をかいていくのを私は眺めていた。
 そうしているうち“いつもの”が私たちの前に置かれた。
 酸味の効いた、いや、効きすぎた匂いのする丼。目の前に鎮座しているその丼の中身は、ソフトクリームよろしくとぐろを巻いたマヨネーズと――その下に何があるのかはわからない。おそらく米だろうけれど。副長が食べているところを遠目に見たことはあっても、実際目の前にするとあまりのインパクトに閉口してしまう。ついでに鼻の穴も閉じたい。
 しばしそれを見つめて顔を上げると、副長の口角が僅かに上がっている。
「あの……これ」
「土方スペシャルだ」
「いやそういうことではなく」
 確かにスペシャルというかユニークというかオンリーワンというか、他に類を見ないことには同意する。というか、こんなものを出す店にスペシャルの名を贈りたい。
「奢りだ、食え」
 表情がどこか得意気なのは気のせいだろうか。勝手にこんなものを頼まれて奢りでなければ星一徹ばりの卓袱台返しをかまして帰る。いや、奢りであってもそうしたいところではあるけれど、ついさっきの、ザキの言葉が頭を過る。
――もしかしたらそれも同じように愛情表現なのかなと俺は思ってて。
 あれは単なるザキの見解であって、事実だとは限らない。ただの想像、フィクション、実在の人物や団体などとは一切関係がありません……かもしれない。でも、副長がこれをこよなく愛していることは確かだし、これが出てきてから表情がいくらか柔らかくなった。それを奢ると言ってくれているのである。
「……いただきます」
 私は決死の覚悟で丼を手にした。

 花畑と川を横目に丼を完食する頃には、人生で味わったことのない胃もたれがした。
 人生で初めて、何かを食べながら沸々と怒りが湧いた。副長にというよりは、この土方スペシャルという存在に。
「ごちそうさまでした……」
 ようやく食べ終わると、自分でも驚くほど、地獄の底から響くような低くしゃがれた声が出た。空になった丼を勢いよく置いた私を見て、副長は目を見開いた。完食した人間を目の当たりにした昂揚なのか、それとも私の声に対する驚きなのか。
「う、美味かっただろ」
 そんなわけねえだろ、と言いかけぐっと堪える。せっかく和解したばかりの、歩み寄るチャンスだ。
 口直しにお茶を一気飲みする。胃の中で水と油が分離しているのが手に取るようにわかる。
「美味しかった……かもしれないですね、最初の三口くらいまでは……」
 心を決めた割には、そう言うのが精一杯だった。
 米とマヨネーズの相性そのものは否定しない。シーチキンマヨネーズのおにぎりがコンビニの定番になっているくらいなのだから。とはいえ、黄金比だとか限度という言葉も世の中にはあって、それを誤ると、途端にそれはただの一方的な暴力に成り下がる。マヨネーズの暴力だ。私は暴力を受けたと言っても過言ではない。
 私の煮え切らない返事に、それでも副長は、少しだけれど明らかに嬉しそうにした。
「まあ、なんだ……美味かったならまた奢ってやるよ」
「いやそれは結構です」
 考えるよりも早く、口をついて出た。あのフォルムを想像しただけで、今は戻してしまいそうだったからだ。
 すると、「そうか」と副長があきらかにがっかりとした。
 今度は私が目を見開く番だった。表情そのものの動きは、注意深く見ていなければわからないような、本当に僅かなもので、高難度の間違い探しくらい些細な差でしかなかったけれど、はっきりと副長の感情が揺れたことは伝わってきた。
 つまり、どうやらやっぱり、土方スペシャルとは親愛の印だったらしい。
――副長、悪い人じゃないんだよ。物凄く不器用なだけで。
 再びザキの言葉が頭を過った。
 いやいや、だとしても、だよ。
 もしザキの言う通りだったとしても、あまりに度が過ぎていやしないだろうか。
 お昼ご飯に誘うだけでもだもだとしていたときから、今に至るまでのぎこちなさと言葉の少なさ。仲直りの印が、よりにもよって嫌がらせのような食事を振る舞うこと。和解するだけのことがこんなにもスマートにできないなんて、同い年の役職持ちだとは到底思えない。高倉健でももう少し器用に生きている。
 けれど、そう考えると、副長のことが少しだけ可愛らしく感じられて、ふと笑ってしまった。

 *

 彼女との間に溝を掘ったのは俺だ。ちょっと一緒に飯を食ったくらいでそれが埋まるとも思っていなかったが、「いやそれは結構です」と無表情に突っぱねられると、少し途方に暮れる思いがした。
 女の拒絶というのはどうにも、男にされるよりも冷たく、越え難い壁を作られたように感じる。ただでさえ女の機微や情緒は難解だというのに、特別に不愛想というわけでもない彼女が相手となれば、俺はもうお手上げだ。
「そうか」
 独り言のようにそう言うと、彼女がふと笑った。
「やっぱり、年一回くらいなら食べてもいいですよ。副長がそんなに薦めるなら」
 ふわりと春風が吹いたような心地がした。途端、妙に心臓がざわざわとする。
 突然、違う空間に放り出されたように、昔の、武州の光景が目の前に広がった。田んぼの匂い。木漏れ日のきらめき。風が稲穂を擦る音。古い木造の引き戸を開けた正面のカウンター席。土方スペシャルに初めて顔を顰めなかった女が、尋常ならざる赤さのうどんを平らげながら「今度交換してみない?」と笑う。
 確かあのとき俺は頷いた筈だが、その約束とも呼べない他愛のない提案は、結局実現しなかった――。
「おーい、副長?」
 ひらひらと目の前で手が振られて、はっと我に返る。何に対してかはよく分からないが、後ろめたい気持ちが湧いてきた。それを紛らわすように水を飲み、煙草に火を点ける。
「……お前は食い物、何が好きなんだ?」
 それは自分でも気の利いた会話だとは思えなかった。だが、かといって突拍子もない質問をしたつもりもない。しかし、目の前の女は一瞬きょとんとした後、あろうことか声を出して大笑いした。いい歳したおっさんばかりの店内、それなりに話し声はあれども若い女の笑い声はよく響いた。店内の視線が一瞬にしてこちらに集まる。俺の発言が注目を浴びたような気になり、思わず舌打ちをした。
「な、何が可笑しいんだよっ」
「いや、だって……っ、それ、普通注文する前に聞きません?」
 そう言われて初めて、自分の行動を客観的に思い返した。昼に誘ったときから、彼女が土方スペシャルを食べ終わるまでのひとつひとつを。思い返せば返す程、自分でも情けなくなるくらい自分本位だったように思えてきて、どんどんばつが悪くなっていった。彼女の言い分は尤もで、俺は口を噤むほかなかった。そんな俺の様子を見て、彼女がまた声を上げて笑う。
「……おい、笑い過ぎだろ」
「いやだって、副長、意外と可愛いところあるんだなって」
「はあ?」
 いよいよわけが分からない。
 可愛いなんて、百歩譲って男に向けるにしても、俺のようなタイプを形容する言葉ではないだろう。
 怪訝な視線を向ける俺に構わず、彼女はずっと笑い続けた。他の客も、もうその笑い声を気にしてはいない。
 意味不明なタイミングで機嫌が悪くなる女よりは遥かにましだが、そこまで笑うことでもないだろうに。やっぱり、女の感情のトリガーはよく分からない。
 ひとしきり笑った後、彼女はその余韻を残しながら涙を指で拭った。その様子はとても、躊躇いなく人を斬る女には見えなかった。
「私、お寿司が好きです」
 江戸の美味しいお店教えてくださいねと笑う。その辺の町娘と同じように。
 それに対して俺は、いつかのように頷いた。