夢の中のように身体がゆっくりとしか動かない。ままならないその身体をどうにか引っ張るようにして動かし、叫んでもか細くしか出ない声をそれでも張りあげ続ける。そうしているうち、ふいに意識が浮上しすべてが正常に戻る。いつもの、奴から身体を奪い返すときの感覚だ。なったことはないが、もしかすると金縛りはこんな風なのかもしれない。
 そうやって身体を取り戻したとき、俺は自分の部屋で膝立ちをし、文机に突っ伏して眠っている凛子に上着をかけてやろうとしているところだった。凛子の傍らには刀。硬直すること数秒。
 屯所は静まりかえっていた。知らぬ間に買われていた個人用テレビの画面に、これまた知らぬ間に買われていたアニメDVDのメニュー画面が映っている。その不健康な明かりが部屋の中で唯一の光だった。
 亀よりゆっくりした動きで眠り続ける凛子に上着をかけ、膝立ちのままおそるおそる距離をとった。部屋の隅まで逃げてようやくひと息つく。
 最近、こういうことがよくある。
 どうも奴と凛子は仲が良いらしい。奴とは、トッシー――凛子がそう呼んでいた――のことだ。というのも、凛子が幼少の頃好きだったアニメが奴のお気に入り女児向けアニメであるトモエ5000だったとかなんとかで意気投合したらしい。グッズを買いにいったり俺の部屋でDVDを観たりと頻繁にファン活動をしているようで、俺がやっとの思いで奴から意識を取り返したときにはかなりの頻度で視界にトモエと凛子がいたりする。この間などコラボカフェとやらに出かけている最中に意識交代してしまったせいで、トモエのイラストに囲まれた店内で凛子と仲睦まじく向かい合い、何の冗談かと思うほど安っぽい飯を食べた挙句それに数千円も払う羽目になって愕然とした。
 奴が何を趣味にしてそれを誰と楽しもうが俺の知ったことではない。好きにすればいい。ただし、俺以外の身体でやるのなら、だ。
 自分の身体で覚えのない行動をとられるというのは、おそろしく精神を削られることだった。たとえそれが悪行でなくとも。今だって暗い部屋にふたりきりで、俺が浮上しなければ上着をかけてやったあとどうするつもりだったか知れない。どうせ引きこもりのおたくのことだ、おいそれと何かしでかす胆力もないだろうとは思うが、しかし万が一がないとも言いきれない。俺の身体で女――しかも職場の部下に手を出されるなど、たとえ凛子本人が事情を理解しているにしても、考えただけでおぞましい。
 そうでなくとも凛子とはこれまで何度か妙な噂をたてられたことがあるのだ。俺の意識のないところでたびたびふたりで出かけることは控えてほしい。無論、夜に部屋を訪ねたりするなどもってのほか。俺のため、そして凛子のためにも。
 そういう意味では、トッシーは伊東より厄介にも思える。
 凛子を見やると、身じろぎひとつせず規則正しく肩を動かしている。
 凛子も凛子で、あまりに気を許しすぎだ。眠っているときに近づいたら危ないと、だから眠るときは自室でと、そう言っていたのはほんの少し前のことではなかったか。うまく他人の懐に入りながらも引くべき一線はきっちり引いている、そういう女ではなかったか。一年ほど同じ釜の飯を食った俺たちには刀を向ける凛子が出会ったばかりのトッシーには無防備なことも、少し面白くない。
 ため息が漏れた。この気苦労は一体いつまで続くのだろう。
 時間を縫ってあらゆる鍛冶屋を巡ってはみたが、こいつを追い出す方法はいまだ見つかっていない。発端の鍛冶屋のじいさんも、万事屋と行った鍛冶屋の鉄子という女も、誰もがこの妖刀村麻紗のことを知ってはいても対処法は知らない。方針を変えて寺社仏閣に赴いてもみたが同じことだった。どんなまじないも俺から村麻紗を引き離すことはできなかった。
 こんなことになるなら、村麻紗を借りるとき鍛冶屋のじいさんの話くらい聞いてやるんだった。まあ、聞いていたらいたで俺のことだ、くだらないいわくなどねじ伏せてやるとむしろ余計に興味を持った気もするが。
 凛子が起きそうにないので、そっと部屋を出た。曇り空の夜は真っ暗で、携帯電話のライトで照らしながら風呂に向かい、この日は自室に戻らず空き部屋で眠った。

 翌日朝礼のあと、凛子が部屋にやってきた。俺は書類仕事の手を止めず、ちらりとだけ凛子を一瞥した。
「昨日、ごめんね」
「自分の部屋で寝るって話じゃなかったか」
 近付くと斬ってしまうからと、そう取り決めたはずだ。
「ごめんて。今後気を付けます」
 本当かよ、と目を細めて凛子を見上げ、フィルター近くまでに短くなった煙草を灰皿に押し付ける。
 今朝部屋に戻ったとき、凛子はいなくなっていて俺が昨晩かけてやった上着はきれいに畳まれていた。あんな眠り方ではろくに疲れもとれそうにないが、日課の早朝ランニングは欠かさなかったらしい。
「起こしてくれてよかったのに」
「だってお前、寝てるときに近づいたら危ねえんだろ」
「それがさ、最近大丈夫になってきたみたいで。こないだもトッシーと休憩室で昼寝しちゃってたし」
 寝耳に水で頭を抱えそうになった。まだまだ俺の知らないあれやこれやがいくらでも出てきそうだ。
「そう思って近付いてやっぱ斬られちまった、じゃ笑えねえんだよ。とにかく、今後はまじで自分の部屋以外で寝んなよ」
「うん。ごめん」
「それとな」
 奴と会うのも少し控えてくれ、と言いかけ、口を噤んだ。
 言えば凛子はきっと理解してくれる。奴を言い含めて適当にうまくやってくれるはずだ。そうは思うのに、言葉が喉元から先に出てこなかった。頭にふと、トッシーといるときの凛子の様子がよぎったからだ。
 奴から身体を取り戻すと、俺はいつも知らない凛子に会う。俺たちの前では談笑していようが寛いでいようがどこか一歩引いてほとんど隙を見せない凛子が、奴といるときにはけたけたと笑い、気に入ったものに目を輝かせ、無防備に眠ったりしている。それは、ただ単にトッシーと仲が良いから、というだけではないのだろうと俺は勝手に思っている。
 凛子は、これまでできなかったであろうただの町娘のような体験を、今ようやくしているのかもしれない。特にトモエというのは凛子にとって両親が生きていた頃、それこそただの町娘だった――そしてこれからもそうであることに疑いさえ持っていなかった――頃の象徴であるはずで、それを共有できる唯一の人間が悔しいことにトッシーなのだ。
 トッシーと会わせないというのは、つまり凛子からその体験をも奪うことである。だから俺はどうしても躊躇ってしまう。この状況に危機感を覚える一方、凛子に我慢を強いることも心苦しい。
「それと?」
 続きを促す凛子に、何でも、と告げて顔を書類に戻す。
 そのとき廊下から先日入隊したばかりの隊士がひょっこりと顔を覗かせた。
「副長宛ての郵便物、お持ちしました」
「そこに置いといてくれ」
「あと凛子さんの分もあるんですけど、今渡しちゃってもいいですか?」
「うん! ありがと」
 花が咲いたようにぱっと凛子の表情が華やいだ。受け取った手紙の差出人を確認し、慈しみに満ちたような顔をする。凛子にこの顔をさせられる人間など、世界でひとりしかいるまい。
「京之介か」
「うん、そう」
 その表情にはとても見覚えがあった。これと同じ温かさをはらんだ目をした女を、その目の見つめる先にある光景ごとすべてを守ってやりたい、傲慢にもそう思っていたかつての自分。
 早速手紙を読むべく部屋を出ようとする凛子を呼び止めた。
「凛子……悪ィ」
「え?」
「お前が、奴――トッシーと仲が良いのは重々承知してる。だが、奴を消滅させる方法を見つけたら俺は迷わずすぐに実行するつもりだ」
 まっすぐ自分を見据える俺に対して凛子は目を瞬かせ、すぐに眉を下げて笑った。
「そりゃあそうだよ。トシの身体なんだから。私に謝ることなんて」
「俺にゃ奴の意識が浮上してるときの記憶は一切ねえ。だから、いなくなるときゃきっときれいさっぱり跡形もなくなるんだろうと思う」
「うん。元のトシに戻るんでしょ? 私だってその方がいいと思ってるよ」
「ならいいんだが」
「もしかして私のこと心配してくれてる? そりゃトッシーがいなくなったらちょっとは寂しくなるけど平気だよ。ありがとね」
 凛子はからからと笑って部屋を出ていった。その足音が聞こえなくなるまで俺は障子を見つめた。
 いっそ、嫌だとだだをこねられた方がましだと思った。仕方がないけれど寂しいという素振りでもいい。凛子の態度がどうであれ俺のやることは変わらないが、あんな風に言われる方が気になってしまう。
 そして後日、俺はトッシーと向き合い話し合った。奴の生きた証を残すためオタク道を極めると約束し実現に向けて動き出すと、奴が強引に意識を奪ってくることはほとんどなくなった。奴との約束を果たすため興味のないことに時間と金は取られるものの、無意識の間に勝手なことをされているよりは遙かにましだった。
 凛子も表面上はあっけらかんとしていた。