じゃ、ありがとー。
 凶器のように鋭利なヒールを履きこなす後姿を見送り、車が発進する。ドライバーであるザキが、私ひとりになった後部座席をルームミラー越しに見やった。
「凛子ちゃん、初出勤お疲れ様」
「……本当に疲れた」
「いつもの仕事とはだいぶ勝手が違うからねえ」
 苦笑いしながら夜の街をなめらかに進む。
「でもしっかりできてたじゃん。お酒の作り方も慣れたもんだったし。勉強してきたの?」
「うん。現役キャバ嬢に教えてもらった」
「そんな知り合いいたんだ?」
「ちゃんと知り合ったのは今回というか。お妙ちゃんだよ」
「ええ!?」
 ちょうど信号に引っかかり、ザキが後ろを振り返る。
「真選組隊士の依頼なんて、よく受けてくれたね? 普段あれだけ局長が迷惑かけてるのに」
「松平さんが経費でいくらでも出してくれるって言うから、万事屋経由で依頼したの」
「ああ、金にもの言わせたわけね」
「まあそうなんだけど、その言い方やめてくんない」
「ごめんごめん。でも万事屋に依頼って、よく副長の許可が下りたもんだ」
「いや……実はトシに許可取ってないんだ」
「ええ!? 怒られない?」
「ばれたら怒られるかも」
「そうだよね……万事屋には何て言って依頼したの?」
「私をキャバ嬢にしてくれって」
「理由訊かれなかった?」
「訊かれたけどもちろん言ってないよ。まあ私がそんな依頼する時点で潜入捜査だって察してるだろうけど」
「そうだろうねえ」
 信号が変わり、車が発進した。ザキは発進も停止もとてもスムーズで、アルコールの入った身体にやさしい運転をする。
「アウトじゃなくともだいぶグレーだね。ていうかキャバ嬢訓練なら俺に言ってくれればよかったのに。女装でキャバクラ潜入したこともあるんだから。そりゃ現役キャバ嬢よりは劣るけどさ」
「ザキは先に潜入始めちゃってたから。それにお通ちゃんファンクラブ決定戦にも出るし忙しいでしょ?」
「お通ちゃんの方は俺別に何も準備してないけどね」
「まあ、もしトシに怒られてもお妙ちゃんの名前を出せば近藤さんに援護してもらえると思うし、そもそも一週間でキャバ嬢になれなんて無茶振りされてるんだから多少は大目に見てもらわないと」
「凛子ちゃんだんだん大胆になってきたね」
「まあね。あ、でもトシには内緒にしててね。万事屋って単語聞いただけで機嫌損ねそうだし」
「はいはい」
 ルームミラーにザキの困り眉が映った。
 今回の件を万事屋に依頼することは、コンプライアンスの面で限りなくよくないことだと私も思っている。万事屋はかぶき町にあるし、かぶき町の店で働くお妙ちゃんはある意味今回の件の当事者ともいえるからだ。
 けれど、まだ二十歳にも満たない姉弟が食うにも困りそうなのを放っておくことができなかった。ただでさえ水商売と安定しない仕事で食いつないでいる志村家のぎりぎりの橋が崩れれば、その先はもっと堕ちていくしかない。自分の何かを投げ売るか、他人の何かを奪うか。どちらも幸せへの道ではない。かつて前者になりかけて後者を選ばざるを得なかった私には見過ごせなかったのだ。とはいえいきなりお金だけをぽんと渡すわけにもいかず、私にはこうするしか手を差し伸べる方法がなかったわけだ。
 おかげでこのくだらない仕事にもいくらかモチベーションが生まれた。
 車は街を抜け住宅街に入り、古びたアパートの前で停まった。
「じゃあ、あとで電話するね。二十分後ぐらいでいいかな」
「うん。ありがとう」
 車がアパートから遠ざかるのを見届け、錆びた外階段を上がる。細いヒールがカンカン派手な音を深夜の住宅街に響かせる。
 薄汚れた壁に取り付けられたドアは、開閉のときにギイギイ苦しそうな音を立てて私を迎え入れた。築四十二年、二階建てアパートの二○二号室。潜入捜査中の私の住まいであり、今回のような潜入捜査員にあてがわれる幕府の管理物件だ。そのため見た目の割に中はそこそこきれいで水回りも比較的新しく、盗聴対策までしてあって住み心地はいい。もしかすると屯所より環境はいいかもしれない。ザキもここから徒歩七分ほどの似たようなアパートに仮住まいしている。
 たった数時間履いただけのパンプスを脱いで踏みしめた冷たい床は、いつもと感覚が違った。上着を脱ぎながら、ふと全身鏡に写った自分に目が留まる。非番の日でもあまり着飾ることのない自分の、夜の蝶となった姿。準備期間の一週間に何度も見たけれど、いまだ慣れないし照れくさい。でも、正直なところ、ちょっと気分も上がる。
 お役に立てるかわかりませんが、と前置いたお妙ちゃんは、けれど服も化粧も髪結いも、過不足なくレクチャーしてくれた。十近くも歳下の子からそんなことを教わることに情けなさがないわけではなかったけれど、それ以上に素直に楽しかった。今までずっと京之介のことばかりだった私は、女同士であれこれ選びながら着飾ったりしたことがなかったからだ。
 とてもまともでない仕事をしながら、それでも京之介をまともな人間に育てたくて私は必死で常識や一般を学んだけれど、結局こういう面においてはどうしても人より足りていないことを実感する。京之介に必要のないことはいつも後回しだった。自分自身のことだとか、趣味に没頭したりだとか。
 恋愛だってそうだ。まったく何も経験がないとは言わないけれど、平均的な同世代に比べれば遙かに経験は浅いしそもそも重要性が低い。そういう自分のことを卑下したりはしないけれど、得意分野では決してないという自覚はある。
 この間トシ対して拗ねてしまったのは、からかわれたことでその経験値の差を浮き彫りにされたような気がして、気後れしてしまったからだ。どうして気後れしたから拗ねるのかと言われれば、それは相手がトシだから、としか言いようがない。子どもじみた感情だ。だからこれは私の問題で全部私が悪いのに、謝りもせずに屯所を出てきてしまった。
 トシは今頃何をしているだろう――なんて感傷的に思ってみたところで、きっといつも通りなのだろう。仕事をして、非番の日には定食屋やサウナで時間を潰す独り身のおじさんみたいな生活。
 具体的に思い出すと急に人恋しくなって、いけない、と両頬を両手で叩くように挟む。ザキから電話がかかってくる前にさっさと着替えてしまおう。
 背中のファスナーを下ろし、レース部分を破らないようにそっと脱ぐ。スタンドネックのワンピース。
 今回の扮装準備中、服が一番難航した。どこもかしこも傷や痕だらけの私の身体に、露出のあるドレスは合うものがなかなかなかったのだ。肩もだめ、太股もだめ、背中もだめ、さらには腕もだめ。かろうじて問題ないのが胸元だけ。その厳しい条件下でお妙ちゃんとかぶき町中を巡って見つけたのがこのワンピースだった。胸元はがばっと大胆に開いているものの、ネックから腕や背中はレースで覆われたロング丈のマーメイド。見えてはいけない部分がすべてうまく隠れるありがたいデザインで、見つけたときはお妙ちゃんと手を取り合って跳ねた。
 脱いだドレスをハンガーに掛けて部屋着に着替え結っていた髪を下ろしメイクを落とすと、ようやく人心地がついた。報告書用にメモを書き出しているうちザキから電話がかかってきた。
「お疲れ様。今話せる?」
「お疲れ。大丈夫だよ」
「じゃあ早速。そうだなあ、事前に話したことだけど、初日だし改めて状況のおさらいからしとこうか」
 ザキはそう言って、私より先に潜入していた一週間で集めた情報をまとめてくれた。

 かぶき町老舗のキャバクラ、ポセイドンが急激に客足を伸ばしてるって話はもういいよね。原因は今のところ不明。経営者や経営方針が変わったわけでもないし、人気嬢の移籍があったわけでもない。
 となると内部で何か変わったことがあったのか、なんだけど、俺が先に入店した一週間では原因に繋がるようなものは見つけられなかった。キャストの誰かひとりだけが異様に客を集めているということもなく、客足は全体的に満遍なく伸びてる。
 以前と変わったことといえば、一位と二位が入れ替わったぐらい。今の一位はお市さん、二位は双葉さん。つまり、元々の一位である双葉さんをお市さんが抜いた。ただ、指名数でいえば今も双葉さんの方が多い。お市さんの逆転の理由は、リピートが増えたこととひとりあたりの単価が高くなったこと。それが今回の件と関係があるかって言われると、よくある話だから個人的には正直あんまり関係ないと思ってる。

 ここまでは、私が潜入捜査開始前に聞いていたことだ。
「まあ、要はまだ全然手がかりがないってことで、増えた情報もないんだけど……凛子ちゃんは今日一日で何か気付いたこととかあった?」
「うーん……ごめん」
「そうだよね。まだ一日目だし、そもそも今日は繋ぎのヘルプしか入れてあげられなかったしね」
 ヘルプには二種類あり、ひとつは指名されたキャストが別の卓での接客を終えてやって来るまでの繋ぎ役、もうひとつは指名されたキャストと一緒に卓につき盛り上げる役。入ったばかりで指名客もいない私の役割は基本的にヘルプとなる。潜入捜査としては後者のヘルプでじっくりキャストを探りたいところだけれど、今日はひっきりなしに指名のある客が来たせいで指名が頻繁に被り、前者ばかりとなってしまった。
「明日からはもうちょっとうまく他のキャストと一緒になるように頑張ってみるから」
「うん。ありがとう……あ。そうだ。ひとつだけ、報告ってほどのことでもないんだけど」
「いいよ。どんな些細なことでも言って」
「お市さんと双葉さん、当たり前だろうけど仲良くないみたい。というか、双葉さんとその取り巻きがお市さんのこと嫌ってる感じ」
「あー、さもありなん、だね」
「うん。でね、双葉さんが更衣室でお市さんのことホス狂いのくせにって言ってるのを聞いた」
「ああ、よくいるんだよね、ホストにはまって貢ぐために水商売始めちゃう女の子。お市さんもそのタイプなのかもね。ちなみにそのホスト、どこの誰とかって言ってた?」
「ごめん、そこまでは」
「ううん、大丈夫。今のところ手詰まりだし、俺の方でそのあたり調べてみるよ。凛子ちゃんももし何か新しい話あったら何でも教えて。今みたいな裏側の事情は黒服だと集めるのが難しい場合もあるからありがたいし」
「うん。わかった」
「じゃあ、今日はこれくらいかな。疲れたでしょ。ゆっくり休んで」
「うん。ザキもね。おやすみ」
「おやすみ」
 電話を切ると、冷蔵庫の機械的な音が妙に大きく聞こえてきた。いつもは部屋にひとりでいても必ず感じる誰かしらの気配が、今は当然ない。それが妙に物足りなくて、自分はこんなに寂しがり屋だっただろうかと思わず苦笑いした。
 そのまま床に背中をつけて寝転がり、屯所よりもだいぶ近い天井を見つめる。
 疲れたのはきっと、普段と違う仕事をしたせいだけではない。私が女社会に慣れていなさすぎるからだ。さっきザキに話したお市さんと双葉さんのぎすぎすした空気は私には関係のないことなのに、妙に気を遣ってしまう。その気の遣い方も、対男とはきっと違うのだろう。
 そんなことを考えているとふと先日のトシと女の子のことを思い出してしまい、私は飛び起きるようにして就寝準備にとりかかった。