二時くらいに眠ったのに、いつもの習慣で四時半に目が覚めた。覚めたけれど、当然眠い。でも日課のランニングをさぼって運動不足になるのは言語道断だし、潜入捜査用の仮住まいだからできれば人の少ない今の時間に走っておきたい。
しばらく二度寝を迷って、結局起きた。まだ若干お酒が残っている。二日酔いの薬を飲んでから着替え、携帯で周辺の地図をチェックしてルートを決め、家を出た。
昨日仕事が終わったのが零時過ぎ。自宅に着いたのが一時前、ザキと会話して眠ったのが二時頃。潜入捜査中はおそらくこれが生活サイクルのベースになるはずだ。ということは、仕事のあと二時間ほど仮眠してランニングをして、そこから本睡眠をとってまた仕事、という形になりそうだ。健康的なんだか不健康的なんだか。
慣れない道を走りながらこれからのことを考える。
もしアフターなんかがあったらランニングは諦めないといけないな、とふと思ってから、鼻で笑ってしまった。まだヘルプを一日やっただけのくせに杞憂も杞憂だ。そんな立派に成長するほど時間が経つ前に、早期解決して潜入捜査を終わらせなければ。
それにしても、今日はやっぱり身体がちょっと重い。厳しそうだったら少し早めに切りあげよう。
次の道を右、と出る前に見た地図を思い出しながら角を曲がった瞬間、コーンバーが目に飛びこんできた。
工事中。咄嗟に避けようとしたけれど反応が遅れ、せめてバーの先に突っ込まないようにと身体を捻って変な体勢になり、そのままこけてしまった。
足を捻った。
捻っていない方の足でおそるおそる立ちあがり、もう片方にゆっくり体重をかける。ぴし、と鋭い痛みが走った。立つことはできるけれど、歩くのはぎりぎり厳しそうだ。
どうしよう。アパートから結構来てしまった。こんな早朝にザキを呼び出すのも申し訳ないし。
もう一度携帯で地図を見てみる。アパートとは逆方向だけれど、近いところに公園がある。そこまで頑張って移動して休もう。
「まあ、あなた、どうしたの?」
携帯を閉じて足を引きながら歩きだすと、後ろから声をかけられた。初老の女性が心配そうにこちらに寄ってくる。
「大丈夫? 私の肩に掴まる?」
「いえ、そんな大袈裟なことじゃないので……ありがとうございます」
「そう?」
それで終わらせるつもりが、女性は私が去るのをじっと見つめている。断った手前何ともないように歩くしかなくなってしまった私は、捻った方の足にいつも通り体重をかけて、痛むのを堪えながら平静を装って歩きだした。
けれど、数歩進んだあたりで女性が追いかけてきた。
「やっぱり大丈夫じゃないわ。私に掴まって。うちすぐそこなの。手当てするわ」
「え、いや本当に」
「だめよ。ほら」
女性は強引に私の腕を自分の肩にまわし、歩きだした。
女性の言うとおり家はすぐそばで、公園に行くよりも遥かに近かった。玄関先でいいと断っても私を居間まで連れて入り、手際よく手当てをしてくれた。
「これで大丈夫」
「ありがとうございます」
「歩くならせめて一時間は安静にした方がいいわ。ゆっくりしていってちょうだい」
「一時間……そんなにお邪魔するわけには」
「でもまだ痛いでしょう? そうだ、せっかくから朝ごはん一緒にどう? 私も今から食べるところよ」
「いえ、お気持ちだけ……」
「もしかしてもう食べたの?」
食べてないけれど「はい」と答えた。
「ランニング前に?」
「少しお腹に入れてから走るんです。帰ってから食べる分ももう準備してあるので本当にお構いなく。お気遣いありがとうございます」
そう、と女性は残念そうに言った。
「じゃあ申し訳ないんだけど、私お腹すいちゃったからひとりでごはんいただいちゃうわね」
「もちろんです」
ゆっくりしててね、と言って女性は、居間から襖を隔てた隣の台所に立った。棚からボウル、冷蔵庫から魚や卵を取りだしていく。
「さっき、こけちゃったの?」
卵を混ぜながら、女性が訊いてきた。
「はい、道の先が工事中だって気付かなくて」
「そう。てことはあなたこのあたりに来るの初めてなのかしら。あそこ、結構前から工事してるから」
「今日初めてです」
「やっぱり。越してきたの?」
「いえ、出張で一時的に」
「そうなのねえ。出張中も運動してえらいわ。最近の若い子はあんまり運動しないでしょう」
そんな話をしているうち、味噌汁と魚の焼ける匂い、じゅうと卵を焼く音で部屋が満ちていく。
「もしやっぱり食べたくなったら遠慮なく言ってね」
「はい、ありがとうございます」
どきっとした。匂いで一気に空腹を自覚したのを見透かされたかと思った。
それからしばらく家の中は、朝ごはんができあがっていく音だけがしていた。
その中にいると、ふと、妙な感覚になった。今自分が、幼い頃の姿で両親と三人で暮らしていた京の家にいるような。朝起きるといつもこんな匂いがしていて、今と同じように食事の準備をする母親の後姿を眺めていた。そして、ごはんができたら食器を出すのを手伝い、別室にいる父親を呼びにいったものだった。もうぼんやりとしか思い出せない、もしかしたら補正のかかった正確じゃない記憶かもしれない。
京之介と暮らしはじめてからは、しばらくはお金がなくて料理どころではなかった。何か食べられるものを手に入れるので精一杯。生活が安定した頃には私は忙しく、京之介が試行錯誤で料理を作ってくれていた。賢い子だったからすぐに上達して、おかげで私は料理があまりできないまま今に至る。
そういえば、それがきっかけで京之介は化学に興味を持ったのだった。実験のように料理を色々試しているうちひとりでに何やら小難しい化学反応だとかを覚え、気付けば薬学の道に進むと言って薬学最先端の星に留学した。
優秀な人材のお手本のように生きる弟に対し、宇宙一くだらない潜入捜査の最中うっかり足を捻って見ず知らずの他人に世話を焼かれている私の何と滑稽なことだろう。まあ、こんなことをしていられるだけ気楽な生活になったのは幸せなことなのかもしれないけれど。
「ごはん、本当にいらない?」
いつの間にか部屋中すっかり健康な朝の匂いで満たされていた。ぐう、と小さくお腹が鳴るのが聞こえないように「大丈夫です、ありがとうございます」と笑った。
ゆっくりパンプスに足を入れ、狭い玄関で円を描くように歩いてみる。痛くない。小さく跳ぶとさすがに少し痛んだけれど、仕事には影響がなさそうで胸を撫でおろす。
朝、強引に手当てをしてもらって幸いだった。自分で手当てをしていたらここまで早く治らなかっただろう。今度お礼をしにいかなくては。
出勤用のローヒールに履き替えて、アパートを出た。
その日の勤務は、ザキの手腕によって早々にナンバーワンであるお市さんの卓でヘルプにつくことができた。
お市さんの紹介によるとお客さんは地球駐在の天人で、最近お市さんの指名客となったアムさんと、その同僚で今日初来店のウダさんというらしい。
お客さんを両端に据えて座りながら、私はこっそりウダさんを見た。見覚えがある気がするのだ。
地球在住の天人。ウダさん。
ドリンクを作りながら記憶を遡って、あっと声をあげそうになった。
思い出した。以前吉原で松平のとっつぁんに引き連れられていった見世で同席した天人だ。
グラスの中を混ぜながらウダさんの様子を窺う。私に何か気付いた様子はなさそうだけれど、ばれたらちょっと面倒臭い。
「どうぞ」
背筋を伸ばしながらグラスを差し出し、まっすぐウダさんを見つめてにっこり笑う。こういうのは堂々としていれば案外ばれないものだ。そもそも一瞬会っただけの私のことなんて覚えていないだろうけれど、覚えていたとしてまさかこんなところにいるとも思うまい。恰好も全然違う。
「お凛さん、でしたっけ」
「はい」
お凛とは私の源氏名だ。
「こういうお店慣れてなくて、何か失礼があったらごめんなさい」
照れくさそうにウダさんが頭を掻いた。吉原のあんな大見世に行っていたくせに、こんな初対面のキャバ嬢に取り繕う必要ないだろうに。
「でもそちらの……お市さんからお凛さんも新人さんと伺って安心しました。初心者同士気楽にお喋りしましょうね」
呆れたのも束の間、そう言われて顔に火がついた。私をリラックスさせるための方便だったのだ。そういえばこの人は吉原のときも、どちらが接待する側なのかわからなくなるくらい色々と私に気を遣ってくれていた。
「はい、よろしくお願いします」
「飲みたいものがあれば好きなもの頼んでくださいね」
「ありがとうございます。お気持ちだけいただきますね」
「遠慮しないで。アムさんが出してくれるって言ってるから」
ね、アムさん、と呼びかけながらウダさんが私にメニューを差し出してくる。
「好き勝手言うなよ」
アムさんが笑いながら返す。
「今日は強引に連れて来られたんだから、いいじゃないですか」
「わかったよ。好きなもん頼みな」
アムさんが煙草を持つ手をひらひらと動かす。
「よかったね。甘えちゃおう」
お市さんが私に笑いかけ、「アムさんありがとう」とアムさんにくっついた。
「シャンパン開けちゃいましょうか」
ウダさんがいたずらっぽく私に囁いたけれど、そこまで肝は据わっていない。おとなしくカクテルを頼んだ。
こういう場合、相手を見ていけそうならがんがん高いものを頼めばいいとお妙ちゃんが言っていた。こういう世界ではきっと、その目利きと胆力を兼ね備えた女がのし上がれるのだろう。でも、たとえばお妙ちゃんにとっての近藤さんのような指名客が現れたとしても、私にそれができる気はしなかった。甘えることとつけこむことの境界や塩梅が、二十七年生きていまだよくわからない。
そのあともウダさんは吉原のときと同じように私に気遣いながら色々と話をしてくれた。そのおかげで私は仕事をしているふりをしながらお市さんの様子を窺うことができたし、ウダさんがそのまま私を指名してくれたので長い時間お市さんの卓にいることができた。アムさんとウダさんが帰ったあとはナンバーツーの双葉さんの卓にもつくことができたけれど、その日閉店まで特に何か目新しい情報は手に入らなかった。
閉店後ロッカールームで着替えていると、お市さんが隣のロッカーを開けた。
「お市さん、お疲れ様です。今日はありがとうございました、ドリンクもいただいて」
「ううん。場内指名もらえてよかったね」
ホルターネックを外しながらお市さんが笑った。
「ねえ、お凛ちゃんってキャバ経験者?」
「え? いえ、ここが初めてです」
「そうなんだ。ヘルプ慣れしてるなあと思って。すごいね」
「ありがとうございます」
心の中でお妙ちゃんに感謝した。
「でも私のヘルプのときはドリンク私が作るから次からはやらなくていいよ」
「あ……すみません、差し出がましいことして」
ヘルプで入ったら卓全員分のドリンクを作るのが基本だとお妙ちゃんに教わっていた。
「ううん、大丈夫。こっちこそごめんね。何か私に直接作ってほしいっていう指名客が多くってさ」
キモいよねえ、と笑ってお市さんは早々に着替え終わってロッカーを閉めた。すると少し離れたところから小さく舌打ちが聞こえた。
「……うざ。ホス狂いのくせに」
双葉さんだった。お市さんにも聞こえていたはずだけれど、彼女は顔色ひとつ変えずにロッカールームを出ていった。