翌日の昼過ぎ、非番で出かけていたところに「近藤さんがやられました」と総悟くんからメールが来た。
やっぱり医者を呼んだ方がいいんじゃないかと思いながら一目散に屯所に帰ると、近藤さんが自室で唸りながら横たわっていた。その周りを何人かが取り囲んでいて、まるでいまわの際のようなありさまだった。
その場にいたのは、総悟くんとザキ、それと。
「あれ、お前らの仲間に女なんていたアルか?」
「初対面の人に失礼だよ、神楽ちゃん」
私と同世代くらいの銀髪の男と、その左右に少年と少女。来客、にしては恰好がおかしい。天人だろうか。なんだかちぐはぐな三人組だ。副長がザキにさせていると言っていた調査と何か関係があるのだろうか。
自己紹介でもするべきかと視線でザキに助けを求めると、隣の総悟くんが顔を上げた。
「凛子さん、土方さんが部屋から戻ってこねえんで、すいませんが見てきてくれやせんか?」
「わかった」
立ち去る前にもう一度近藤さんを見る。いつでも、誰にでも平等に優しい近藤さんが、こんなに苦しんでいるのに。今日被害に遭った隊士は近藤さん以外にも何人かいて、これでもう真選組の半数くらいになる。その割には、皆神妙な面持ちこそしているけれど、今この場からあまり緊迫感は感じられない。もうプライドだとか世間体だとか、そういうことを言っている場合じゃないと思うのだけれど。
私は言われたまま副長の部屋に向かった。
局長室の少し先、副長室の襖は少し開いていた。なので、開けるよ、と一応声はかけつつ返事を聞く前に障子を引いた。副長の姿はなかった。中に一歩進み、後ろ手にさっきと同じくらいの隙間を開けて障子を滑らせて、殺風景な部屋の中をぐるりと見渡す。
部屋の中央には使いかけの灰皿と書類が何枚か乗った文机、壁際には畳まれた布団、隅には用箪笥、そして。
視界の端、床の間で何かが動いた。おそるおそる、少しずつそこを視界の中心に近づけていくと、青磁の壺から人間の腰から下がじたばたと飛び出していた。「ひっ」と小さく悲鳴を上げてしまった直後、その下半身の身に着けた服や腰に下がっている刀に見覚えがあることに気が付き、すっと冷静になった。
「……何してんの? その壺、鍋島焼のたっかいやつだよね?」
するとぴたりと動きが止まった。やおら壺から出てきたのは、思った通り副長の上半身だった。こんな不様なところを見られてなお、平静を装った顔をしているのがこの上なく間抜けだった。
「……マ……マヨネーズの妖精に誘われて」
「……暑さで頭でもいかれた?」
「う、うるせえ! だいたいお前が赤い着物なんか着てるから……っ」
副長ははっとして、失言をしたという風に口を噤んだ。
「赤い着物?」
私は自分の着物を見下ろした。確かに今、赤い着物を着ている。とはいっても、壺に突っ込んでしまうほど衝撃的に鮮やかな赤ではなく、どちらかというと、臙脂や茜のような少しくすんだ色味をしている。あまり地味にならないように、白地に薄い金糸で波模様の入った帯を締めてはいるけれど、それだって特別派手では――と考えて、はたと稲山さんの怪談話を思い出した。赤い着物の女の、怪談話。
「……もしかして副長、幽霊怖いの?」
「はあ!? そっ、そそそんなわけねえだろ!」
「そんな顔して怪談だめなんだ」
「だっ、だから、違うっつーの!」
「大丈夫大丈夫、人間誰しも苦手なものはあるから。まあその組み合わせが副長と怪談っていうのはちょっとうけるけど」
「喧嘩売ってんのかてめえ!」
少しからかっただけのつもりが、副長は刀を引き抜く勢いで踏み込んできた。両掌を向けてどうどうといなしていると。
「土方さん、凛子さん、何かあったん……」
総悟くんの声と障子の引かれる音がした。それと同時に耳元で衣擦れの音がして、目の前が覆われた。引き寄せられたというよりも何かがぶつかってきたような感触があって、煙草や柔軟剤、整髪剤の匂いが鼻孔をくすぐった。その奥からは、かすかに男性らしい匂いも。
何が起こったのか一瞬わからずにぽかんとしているうち「お取り込み中失礼しやした。ごゆっくり」という総悟くんの声と、障子の閉じる音がした。そうしてやっと、私は副長に抱きしめられる形になっているのだということを把握した。把握したと同時に、副長が飛ぶように私から離れた。口を金魚のようにぱくぱくとさせ、謝罪と弁解を始めた。
「わっ悪ぃ、つい……でもあの……あれだぞ、べ、別に、障子が開いてびびったとかじゃねえぞ、断じて!」
「……だとすると自分の意思でやったことになるけど大丈夫? パワハラの次はセクハラ?」
「いっ、いや、それも断じて違う! そういうつもりはない、ほ、本当に悪かった! 俺はただ……いや……だから、つまり、その……」
怖がりを隠したいばかりに墓穴を掘ってしまった副長は、余計に狼狽してしまったらしく、まったく頭が回っていない。さらにとどめを刺すように、廊下から「みんなぁー、大変だー、土方さんと凛子さんがちちくり合ってて、俺もうどうしたらいいかわからねえよー」と拡声器を通した声がした。いよいよ副長の慌てぶりが可哀相になってきたので、私はフォローを入れてあげることにした。たまにはお返ししてあげよう。
「わかってるって。急に障子が開いてびっくりしたんだよね? 私もびっくりした」
「そっ、そうそう、それだ! びっくりしただけで、決してびびったんじゃねえ。ぜっ、全然違うことだからな」
「はいはい、わかったから」
廊下からさらに総悟くんの声がして、ひとまず安心したらしい副長は飛び出ていった。
すぐに、総悟くんと副長の言い合う声が少し遠くから聞こえてくる。
ふと、飲み会の話を思い出した。副長がもてるという話だ。結局私はまだ副長の顔をしっかり見ていないけれど、今さっきの顔なら思い出せる。相変わらず眉間に皺を作り、けれどいつもと違って目も口も大きく開き、顔も少し赤くして、とにかく憐れに思えるくらいに慌てふためいていた。
面白い姿ではあったけれど、どう考えても、やっぱりもてる男像とは程遠かった。
*
翌朝になり、私の寝てる間に隊士たちの体調不良問題は解決していた。原因は滋養増強のために血を求めていた蚊のような天人で、血気盛んな屯所の男たちを狙ったからだとかなんとか。日課である早朝稽古前のランニングから戻ったところ、廊下で副長と出くわし、立ち話で詳細を聞いた。
「むさい男の血ねえ……確かに屯所はおあつらえ向きだったわけね。なるほど……この一連の事件、何だか私だけ蚊帳の外って感じしてたんだけど、その天人の眼中に女は入ってなかったせいだったんだね」
「蚊だけにか」
「うわ……すべってるよ、トシ」
「うるせえ、誰がトシだ。昨日碌に寝てねえからハイなんだよこっちは」
鬱陶しい邪魔も入ったし、と副長は乱暴にジッポを着火させる。
そういえば、昨日の見慣れない三人は一体何だったのだろう。それを聞こうとしたとき、何人かの隊士たちが、あからさまに何か意味を含ませた視線を寄越しながら私たちの横を通り過ぎた。
「……ねえ、今の」
通り過ぎたあとも、ちらちらとこちらを振り返ってくる。副長が舌打ちをすると、慌てて前を向いた。
「……昨日、総悟が拡声器で触れ回ったからな」
「うん、まあそれもなんだけど、そもそもの元凶は自分だって認識ある?」
「……土方スペシャルで手を打ってくれ」
「踏んだり蹴ったりすぎる」
高校生じゃあるまいし。対象が私でも無機物でも何でもよかったような、あんな抱擁とも呼べない接触があったくらいで、くだらない誤解なんて勘弁してほしい。
男社会で女がうまくやっていくには、特定の誰かに媚びを売らないことも重要な要素になる。というのも、枕営業だのなんだのと難癖をつけられないためだ。とはいえ私は、女であることを利用したり愛想を振りまいたりすることは元来得意ではないから、今まで特別気を付ける必要はなかったのに。それでも、百パーセント不可抗力でこんな風に変な噂が立つこともあるらしい。よりによって副長なんていう権力を持っている人が相手なんて、あまりに運が悪い。
まあ、でも放っておけば冬になる頃には皆忘れてくれるだろう。そう願う。副長とは本当に何もないわけだし、人の噂も七十五日というから。あれ、四十九だっけ? いや、それは法要の話か。