彼女は手の平に置いた小さな紙を見つめた。
初めて見た白い紙は
とても不思議な力を持っていた。
2枚ともズズ・・・っと動くが
1枚は自分のほうへ
もう1枚は目の前の彼のほうへ。
興味深そうに見守っている彼女を見て
彼は満足したように笑う。
いつまでも目を離さない彼女の頭を撫でてから
虫のようにも見えるその2枚のうち、
大きいほうを取り上げた。
ぴっと切り裂き、2つにして
片方だけを彼女の手の平に戻す。
彼の動作を目だけで追っていた彼女は
目の前でひらひらと小さな紙を揺らす彼を見上げた。
「半分はおれが持っておく」
2枚のうち、大きい方は彼女自身のビブルカード。
エースが彼女をゴーイングメリー号に預けた後
作成したものだ。
もう1枚はエースのビブルカード。
彼の弟ルフィに渡した彼自身の場所と命を示す道しるべを
ナマエナマエナマエにも。
「これでいつでも会えるのね?」
2枚のビブルカードを両手でそっと握りしめて。
彼女は笑顔を見せる。
その彼女の様子を見て、
安心させるように彼は大きく頷いた。
「迎えにくるまで、良い子にして待ってろよ」
寂しいかー?泣くなよー?と茶化すように言いながら
もう一度彼女の頭を撫でると
子供ではないと言って、その手を払いのけられてしまう。
それでもなおも彼女に触れようと手を伸ばす彼は
いつのまにか壁前でナマエナマエナマエを抱きしめるようなかたちで
迫っている。
ここ数日で、彼は彼女の頭を撫でるのが癖になったようで
ことあるごとに頭を撫でては、満足そうに笑っていた。
一連のやりとりをそばで見守っていたナミは肩をすくめる。
じゃれあうなら2人きりでやってくれと思うばかりだ。
歩けるようになったあの日から、
どこにいくにもエースの後を追いかけていたナマエナマエナマエだが、
日を追うごとに2人の距離が縮み、ごはんを食べるのも寝るのも隣。
さすがにお風呂は別に入ってはいるものの、彼の隣には彼女がいて、
彼女の隣には彼がいることがここ数日で当たり前のものとなった。
そう広くないゴーイングメリー号の中でこんな光景が繰り広げられているので
サンジはよく抗議の声をあげているが
2人の様子を見守るロビンに言わせると、飼い主と猫のようだと。
エースが笑えばナマエナマエナマエも笑い、
ナマエナマエナマエが笑えばエースも笑う。
エースが手を伸ばして彼女を撫でれば
くすぐったそうに身をよじって笑うし、
ナマエナマエナマエが口を開けば、どんな些細なことでもエースは耳を傾ける。
昨晩は夕飯を食べながら突然寝てしまったエースを見て
おかしそうに笑いながら、
いつのまにか彼女もその隣で寝息をたてていた。
彼女がメリー号にやってきたのは10日前のこと。
あの頃の彼女を思い出せば、笑ったり、話したり、はしゃいだり。
こんな風に生き生きと動けるようになるとは到底想像もできなかった。
身体に負った傷の多さや深さから、現時点でもそれらはまだ癒えておらず、
ナミとロビンが渡した服から覗く手足には、まだ痣や傷跡がいくつも見える。
そんな傷跡が身体にあるからと言って何かを気にするようなクルーは
この船には1人もいないが、女性の身体にあるべきものではない。
よく笑い、動き、皆と同じ食べ物が食べられるようになってからは
治りも早くなったのではないだろうか。
日ごとにできることが増え、順調な回復を見せる彼女を見て
船医であるチョッパーも嬉しそうだ。
片手に大きな肉の塊、
もう片方の手にはフォークを持ったまま
ダイニングテーブルに突っ伏して眠るエース。
そちらを向いて笑顔を浮かべたまま
首を傾けて器用な体制で隣で寝息を立てるナマエナマエナマエ。
確かに飼い主と猫のようだった。
ナマエナマエナマエが笑えるようになったことは非常に喜ばしい。
が。
今は食事中だ。
どう大目に見ても子供ではない2人に向かって
ナミの怒号が飛ぶ。
「ごはんを食べるなら食べる、寝るなら寝る!どちらかにしなさい、2人とも!!!」
甲板をひとりで歩くことができるようになったナマエナマエナマエを見て、
嬉しそうに目を細めるエース。
そしてその隣にはルフィ。
朝起きて、
美味しい食事を食べ、
自力で歩き、
他者と会話し、
夜に眠る。
やっと人としての生活の一歩を踏み出した彼女の身体はまだ随分と細く、
風が吹けば飛んでしまいそうにも見える。
だが、これまでとの決定的な違いがあった。
生きる、という意思。
その違いが手に取るようにわかり、
何よりもその意思を感じられることが
エースは嬉しかった。
彼は海賊。
今はやるべきことがあり、
それを早々に終えるという彼自身が課した大きな責務がある。
一方、彼女は海賊ではない。
海賊とは無縁に産まれ、過ごし、成長した。
ただ、偶然、あの船に捕らえられていただけだ。
むしろ海賊は嫌いなのではないか。
・・・海賊が嫌い、という記憶すら無いかもしれねェが。
エースがあの黒い海賊船に乗り込んだのも
彼女に出会ったのも偶然だった。
あの時、手を差し伸べずにはいられなかった。
この世のすべてに絶望し、光を失い、何もかもを諦めて
ただ死を受け入れ、むしろ望んでいたひと。
よくあることかもしれない。
これまでに何かについで
結果として人助けとなったことは何度もあった。
色々な境遇の人々を見た。
様々な土地で、環境で、状況で。
幸福なひとも、そうではないひとも。
ナマエナマエナマエ・ミョウジミョウジミョウジ
彼は黒い海賊船を沈める前に、
必要な情報はないか船内を探索し、
彼女の名前と、出向した港までは突き止めていた。
そしてエースは知っている。
その港が、すでにこの世には無いことを。
もしかしたら出生地や、住んでいた家は別の場所かもしれない。
家族や友達は元気に別の場所で暮らしているのかもしれない。
だが、これらを確認する術はもうない。
彼女に聞くつもりもなかった。
ただ、あの場所で出会った。
手を差し伸べた。
彼女は彼の手を取った。
すべて偶然かもしれない。
でも偶然も3回続けば必然だろ?
彼は心を決めていた。
もしかしたら、守ると誓ったあの時から
すでに決まっていたのかもしれない。
彼は親父であるエドワード・ニューゲートの息子だ。
麦わらの一味同様、白ひげ海賊団にも女性はいる。
それぞれ役割は異なるが、親父が認めれば、家族になれる。
ルフィは腕を組んだまま
隣に立つエースを見上げた。
「ルフィ、世話になった」
彼女を連れたエースがメリー号に姿を見せてから9日が経っていた。
エースが単独でモビーディック号を離れ、旅を続けている目的は
とても重く、できる限り早く達成したいもの。
これ以上ここにいることはできない。
これが最良の形かはともかく。
ナマエナマエナマエも自分の足で甲板を歩けるほどには回復した。
「明日の朝に発つ」
わかった、とだけ返事をしたルフィはエースの目線の先にる
ナマエナマエナマエに視線を戻す。
彼女の髪がさらさらと風になびいている。
ひとりでシャワーを浴びたその日は
嬉しそうにエースのもとに来てこう言った。
「ねぇ、私とエースのにおい、一緒」
ほかほかと湯気の上がる蒸気した肌から
石鹸の香りがほのかに香る気がした。
乾いていない髪からはぽたぽたと水滴が滴っている。
彼は肩にかけているタオルを手に取ると
彼女の頭に乗せ、ぐしゃぐしゃとかき回す。
そのまま頭を抱きしめると、濡れた髪からは
ふんわりとシャンプーの香りが漂った。
本当だな、と2人で笑いあう。
この船のコックの叫び声が聞こえたような気もしたが
気のせいだと空耳を決め込んだ。
甲板に立つ彼女が振り返る。
自分を見ながら並んで立つ兄弟を見て
仲良しね、とほほ笑んだ。
海賊ではない彼女を、どうするのか。
ゴーイングメリー号の船長と
モビーディック号の2番隊隊長。
言葉を交わさなくとも、
その先はわかっていた。
「エース」
あの時と同じように
彼女は彼の名前を呼んだ。
うっすら笑みをたたえながら
彼女の身体が宙を舞う。
手すりを越えて
海に吸い込まれていくのは一瞬だった。
ひらひら。
白いワンピースがはためく。
きらきら。
太陽と海の反射を受けて
光をまとったまま。
天使が飛んでいる。
そんな錯覚をしてしまうかのような。
走る船。
弱り切った身体。
海に落ちれば衝撃で
一瞬で藻屑になるに違いなかった。
「・・・ナマエナマエナマエー!!!」
走り出した兄弟の後を追って来たウソップ、ナミ、チョッパー、ロビン。
騒動に目を開けて船尾に目をやるゾロ。
騒ぎを聞いて、ラウンジから出てきたサンジ。
全員の前に広がった光景は、
躊躇なく甲板を蹴って海に落ちていくエースと、
その2人に必死に腕を伸ばすルフィ。
「捕まえたァァァッ・・・!」
船長の声に、サンジとウソップが慌てて彼の身体を支える。
ルフィは近くにあった樽に足をかけ、
反動で伸ばした腕を振り上げる。
掴んだ2人の影が太陽を遮った。
「蜘蛛の華(スパイダーネット)」
ルフィの行動を見て、ロビンが両腕をクロスする。
鮮やかな腕の華が何本も生え、
折り重なって網上に広がった。
そのまま甲板まで打ち下ろし、
2人は無事に網の上に落ちる。
気を失っていたものの
エースの腕の中にしっかりと抱きしめられた
ナマエナマエナマエは無傷だった。
その後、彼女が目を覚ましたのは
翌日の朝。
7時ぴったり。
念のためと倉庫の前に寄りかかって不寝番を買っていたサンジ。
何かあったらと看病のために倉庫で見守り続けたロビン。
絶対に離さないと決め、手を握ったまま
彼女の顔をひたすら覗き込んでいたエース。
まるで朝の目覚めのように。
何もなかったかのように。
彼女は目を開けた。
その目が開くことだけを祈っていたエースと
2人の視線が交差する。
ふわりと彼女は笑って。
「エース」
おはよう、と。
メリー号に彼女の声が響いたのはこれが初めてだった。
目が覚めたナマエナマエナマエの記憶はただひとつ
エースのことだけ。
それ以外はすべて綺麗さっぱり消えていた。
まるであの時、海に溶けて消えてしまったかのように。
忽然と。
サンジが海賊弁当を手渡すと、
エースは身体を90度曲げてお礼を言った。
「ありがとう。大切に食うよ」
軽い身のこなしで手すりの上にしゃがむと
最後にナマエナマエナマエを手招きする。
しばらくのお別れを惜しむかのように。
もう一度彼女の頭を撫でた。
手を頭の上に置いたまま、
目線を合わせるとニヤリと笑った。
「寂しがるなよ」
「エースこそ」
エースの笑顔を受けて
彼女も挑戦的な笑顔を見せる。
そして2人で、甲板にいるこの船のクルー7人に頭を下げた。
「少しの間、ナマエナマエナマエをよろしく頼む」
「お世話になります。よろしくお願いします」
エースが重大な用事を済ませるまで、
ルフィが彼女を預かる。
ただし客人としてではなく、
一時的なクルーとして。
この決定には、彼女の経過を見守りたいチョッパーをはじめ
10日の間見守ってきたナミとロビンは賛成だった。
かわいい女性が増えたとサンジはもちろん大喜びし、
ルフィの決定であればとゾロとウソップも受け入れた。
じゃあな、とルフィとナマエナマエナマエに手を振って
エースはストライカーに飛び乗る。
もう一度だけ甲板を振り返り
いつもの笑顔を見せる。
手すりから覗き込み
ルフィとナマエナマエナマエは並んで手を振った。
またね。
ストライカーが火を噴き
あっという間に小舟は遠くまで走り去っていった。
ひとりぼっちの彼女をモビーディック号に連れて行き
親父に引き合わせ
白ひげ海賊団の家族として迎える。
その日は遠くない。
そう信じて。
2人は別れた。
Prologue -8
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