倫敦のブロンプトンロードには、ハロッズというとても大きな百貨店がある。ここは倫敦の流行の最先端そのものであり、様々な婦女子が今日も新しい物を求めて訪れていた。
そこで売っているジンジャービスケットがお気に入りであるマヤは、代金を払って商品を受け取ると、見知った人影を目にする。
「あれ。マヤちゃんなの!」
「お久しぶりです、マヤさま」
「あなたたちは・・・・アイリスちゃんに寿沙都さん。奇遇ですね」
行き交う人々のなかでも、一際目立つリボンの髪に、一際目立つ着物の姿。英国人といえばマヤの知人でも思い当たる人間が沢山いるが、この特徴の知人は今のところ彼女たちのみである。
「そちらは・・・・ジンジャービスケットでございますね。もしかしてマヤさまも、甘いものがお好きなのでしょうか?」
「はい。ここのジンジャービスケットはとても美味しくて、ついつい買ってしまうんです」
「おお!マヤちゃん、紅茶の茶葉も買っているの!」
「(さすが、“シャーロック・ホームズの冒険”の作者さん。紙袋を見ただけで紅茶と分かるなんて・・・・)」
ピンク色の髪を揺らして可憐に笑う彼女は、名前をアイリス・ワトソンという。ホームズの家に住んでいる少女だが、十歳にしてあのストランド・マガジンに掲載されている“シャーロック・ホームズの冒険”の作者でもあった。
マヤとアイリスは、以前に何度か顔を合わせたことがある。そのきっかけは、あのシャーロック・ホームズに他ならないのだが、十歳という幼さでとてもしっかりしているアイリスについてはマヤもよく感心させられている。願わくば、もう少しその思慮深さをホームズに分け与えて欲しい・・・・と思わずにはいられないが。
「マヤちゃん。折角なら、あたしの《
「アイリスちゃんの《
「ええ。アイリスさまのいれてくださるお茶は、それはそれはとても美味しいのでございます」
よくよく見れば、アイリスと寿沙都もその手に紙袋を持っている。今しがた買い物を終えたばかりなのだろう。いつもならば忙しい彼女も、今日は特に予定がないのでその言葉に素直に甘えることにした。
「それにしても。マヤさまとお茶が飲める日が来るなんて・・・・寿沙都、感激でございます!」
「きっとホームズくんも喜んでくれると思うの。バイオリンを聴いてくれる人が増えた!って」
「・・・・できることなら。それはご遠慮ねがいたいですね・・・・」
音楽を聴くのは嫌いではない。むしろ好きな方でさえあるが、マヤはホームズの突発性を考えると顔を引き攣らせずにはいられなかった。バイオリンと称して何をされるか分かったものではない。
その一方で、法廷の外にいるアイリスと寿沙都は、まさに天真爛漫といった言葉がよく似合う。彼女たちの下宿に向かう途中で二人と他愛もない会話をしながら、マヤはつい尋ねてみた。
「でも。よろしいのですか?私は一応、バンジークス様の助士なわけですし・・・・」
「何をおっしゃいますか!甘いものが好きな方に、悪い方などいませんとも!」
「(それはつまり。甘いものが嫌いな人は悪人、ということ・・・・?)」
ふっと思い浮かんだバンジークス卿の顔を、マヤは即座に打ち消す。年々青白くなっていくあの顔も、甘いものを勧めてみれば少しは血色が良くなるかもしれない。勧めてみたところで『いらぬ』と一蹴されるのが関の山ではあるが。
そんなことを考えながら暫く歩くと、ベーカー街の221Bに到着する。そこが、かの名探偵の事務所らしい。
「じゃじゃーん!ホームズくん、おまたせー!」
「やあ、アイリス。おかえり・・・・って、おや?おやおや?」
「・・・・ホームズさん。にやにやしながら近寄って来ないでください!」
ホームズの事務所に着いたマヤは、迫るホームズの顔をぐいぐいと押し返しながら部屋の中をぐるりと見回す。やはり予想していた通り、色々と物は多いが、かえって安心する雰囲気でもあった。
・・・・よく分からない機械に、よく分からない薬品。そしてよく分からない本や、よく分からない置物などが飾ってある点には少々疑問の余地が残るところではあるだろう。
すると、ソファに座って本を読んでいた成歩堂が、マヤの存在に気づいてあっと声をあげる。
「マヤさん。お久しぶりです」
「お久しぶりです、龍ノ介さん。休日も、相変わらずその真っ黒な服を着ていらっしゃるんですね」
「まあ、これ以外は何となく落ち着かなくて・・・・」
成歩堂は自分の学生服の裾についたホコリを払いながら照れたように笑う。彼の首元で光る大学の校章は、彼が未だ学生である証だ。
すると、成歩堂のソファの後ろからホームズがにゅっと顔を出した。そのでかい図体をどうやって隠していたのかは、この際触れない方がよいだろう。
「と、いうより。ミスター・ナルホドーはその服しか持っていないようだがね。ボクの服を貸そうと思ったのだが、どの服も小人のミスター・ナルホドーには大きすぎたようだ。あっはっはっは!」
「ううう・・・・ヒドイ・・・・」
「私は好きですよ、龍ノ介さんの服。その黒い服を見ていると・・・・かのニッポンを思い出しますから」
「!マヤさん、日本にいたことがあるのですか?」
「はい。たった、1年ほどですが」
久しぶりに聞いた“ニッポン”というフレーズに懐かしさを覚えた成歩堂は、マヤの言葉を聞くなり興味津々に身を乗り出す。その机代わりに使っている鉄箱の上には、アイリスがいれた香り高い紅茶が次々と並べられ始めていた。
「私の生まれは倫敦なのですが。5歳の頃に、親の都合で日本に向かうことになりまして。そこから1年間、日本に住んでいたのです」
「・・・・おや。その話は、ボクも初耳だね」
「逆にホームズさんが知っていたら、気味が悪いじゃないですか」
「ほう。《死神》クンの助士に“気味が悪い”と言われるなんて、“君も悪い”ことを言うね!」
「・・・・・・・・アイリスちゃん。お茶、とても美味しいです」
「ありがとうなの!マヤちゃん!」
渾身の台詞がスルーされたホームズは途端に部屋の隅で丸くなってしまった。成歩堂はそれを横目に、マヤが差し入れに持ってきてくれたジンジャービスケットを一つ齧る。
「でも。マヤさんを初めて見かけた時、ぼくは正直驚きました。あの《死神》のそばに、あなたのような人がいるなんて」
成歩堂の記憶には、今も鮮明に刻まれている・・・・初めて英国で弁護を引き受けることになった、あのコゼニー・メグンダルの裁判のことだ。
あの裁判では、異国の地だったということもあり、殆どの人間が成歩堂と寿沙都に対して敵意のようなものを抱いていた。いや、敵意とさえ言えないのかもしれない。それは限りなく無関心に近い、だが蔑むような視線だ。
そんな中、マヤが向ける視線には全くそのようなものが感じられなかった。だからこそ、成歩堂と寿沙都はマヤに対して何か親近感のようなものを抱いていたのだ。
「バンジークス様は、とてもお優しい方ですよ。私のような《混血》も受け入れてくださって・・・・あの人には、感謝してもしきれません」
「・・・・あの。マヤさんは、《混血》を憎んでいるんですか?」
「・・・・・・!」
ふとした成歩堂の言葉に、それまで楽しかった空気が一瞬で凍りついた。寿沙都が「成歩堂さま・・・・!」と止めても、成歩堂は依然としてマヤから目を逸らさない。マヤは「かないませんね」と言って暖炉に視線を移すと、ぽつりぽつりと話し出した。
「・・・・私の父は、昔から日本の文化が好きだったようです。父が、日本にワケあって訪れる機会があったとき・・・・母と恋に落ち、私を授かったと聞いています」
暖炉で穏やかに燃えていた火が、途端にパチパチと激しく火の粉を散らし始める。その様子を眺めていた彼女の瞳には、静かな怒りの色さえ見えた。
「父には、とても感謝しています。《混血》だと言われ、周りから馬鹿にされる私を、父上は変わらず娘として育ててくださった。・・・・それでも、母は物心ついたときから傍にはおらず、父上は多忙で顔を合わせることは日に日に少なくなっていきました。・・・・私は、いつも広い屋敷に一人ぼっちだったのです」
「・・・・・・・・マヤさん」
「・・・・すみません。少し、話しすぎたようです。この話題は、もうやめにしましょう」
アイリスのいれてくれた《
ティーカップを置いたマヤは、「そういえば」と成歩堂と寿沙都を見やる。
「私は日本に友人がいるのです。その人を、お二人はご存知でないでしょうか?」
「マヤさんのお友達、でございますか?」
「日本といっても、津々浦々ですから。申し訳ないのですが、ぼくたちが知っている可能性はほとんど・・・・」
「・・・・そう、ですよね。すみません。日本から司法留学生がやってくると聞いた時。まさか、と期待したのですが・・・・」
「・・・・え?」
その言葉に、成歩堂がさっと顔色を変えた。
「私が日本にいたとき。私と約束してくれた友人がいるのです。私が倫敦に帰っても必ず会いに来て、自分は日本の司法を変えるのだ、と・・・・」
「!成歩堂さま。マヤさまのおっしゃるお方は、もしかして・・・・!」
「あの!マヤさん。その友人の名前を・・・・ぼくたちに、教えてくれませんか!」
「え、ええ。亜双義一真・・・・・・・・という人物です」
「!!」
途端に固まってしまった成歩堂たちに、マヤは怪訝そうに首を傾げる。その隙をついたように、隅で丸まっていたはずのホームズが、いつの間にか三人の間に割って入った。
「・・・・さて、そろそろ日もくれてきたようだ。
「マヤちゃん。また遊びに来てくれると嬉しいな!」
時計を見ると、たしかに少々長居しすぎてしまったようだ。明日はヴォルテックス卿への定期報告もあり、遅くまで時間を潰している暇はないだろう。
マヤが立ち上がると、ホームズが彼女の荷物を持ってきて手渡す。マヤは今一度振り返って一礼した。
「今日は美味しいお茶をありがとうございます。・・・・あの。龍ノ介さん」
「は、はい」
「・・・・あなたには、私の友人と似たようなものを感じます。久しぶりに、懐かしい思い出に浸れました。ありがとうございます」
「・・・・いいえ。ぼくの方こそ、ありがとうございました。マヤさんと話せて、本当に良かった」
「では。私はこれで」
そうして事務所からマヤが帰ったあと、成歩堂は思わず頭を抱える。
「・・・・寿沙都さん。今の、マヤさんの話・・・・」
「ええ。わたしも驚きました。まさか、一真さまとマヤさまがお知り合いだった、なんて・・・・」
「・・・・・・・・マヤさんに、ぼくは何て言えばいいのでしょう。亜双義は死んだ、なんて・・・・とてもじゃないけれど、言えません」
「・・・・・・・・マヤさま。今でも、一真さまのことを待っていらっしゃるのでございますね」
煙管をくわえたホームズは、窓を開け放って空を見上げる。今日も、倫敦の空は生憎の曇り空だ。