「やあ、ミス・マヤ!こんなところでコソコソと・・・・そんなにボクと握手したいのなら、遠慮なく言ってくれれば5ペンスで喜んで引き受けようじゃないか!」
「きゃあああぁぁぁぁっ!!」
突然背後から現れた人物によって、マヤは控え室中に響くほどの叫び声をあげながら、彼に渾身のビンタをお見舞いした。その騒ぎに流石の成歩堂たちもすぐ気づいたようだ。
マヤはドキドキとせわしい胸を押さえながら、頬に真っ赤な跡が刻まれた、かの名探偵をキッと睨む。
「ほ。ホームズさん・・・・!ビックリさせないでください・・・・!!」
「うん。ボクは、たった今・・・・あのガリデブ氏の気持ちがよく分かった気がするよ。むしろこれは、猛獣に襲われるよりも恐ろしい一手だ。あっはっはっはっはっ!」
そう高らかに笑うホームズから、反省といった色は全く見られない。探偵というものは、もしかしてここまで図太くなければできない職業なのだろうか。そんなことを考えていると、成歩堂が「マヤさん、お疲れ様です」と礼儀正しく頭を下げてきたので、マヤもぺこりと一礼する。
「あの。マヤさんが、どうしてここに?」
「あ、あー・・・・実は。少し忘れものをしてしまいまして」
「へえ。キミの忘れ物は、物陰からじーっと彼らを眺めて見つかるものなのかい?」
「!・・・・・・う」
ホームズの鋭い指摘に、マヤは思わず黙り込む。その様子を見た成歩堂と寿沙都は、何となく彼女がここに来た理由を察したが、マヤはそれでもまだ諦めずに食い下がる模様。
「ち、違うんです!実は控え室じゃなくて。法廷の方に忘れものをしてしまって・・・・係官にいつ声をかけようか、タイミングを探していたのです!」
「へえ。今のところ係官は後片付けでどこにも見当たらないがね」
「!・・・・・・う」
もはや涙目になってきたマヤに、寿沙都が「ホームズさま!」とたしなめると、ホームズは「いやあ、失敬失敬。助士クンの顔を見ていると、どうにも“一本取ってやろう”という気持ちが抑えきれなくてね」と格好つける。やはり悪びれている様子は微塵もないらしい。
「ですがね。それなら素直になればいいじゃないですか、ミス・マヤ。本当は、彼らにおくりたい言葉があるのでしょう?」
「ぼくたちに・・・・?」
成歩堂は目を丸くする。マヤは、慣れないことについ目をキョロキョロと泳がせると、深く息を吸った後にこう言った。
「・・・・・・この度は、まことにおめでとうございます」
彼女が弁護側に祝言を送ったことなど、未だかつてなかったことである。驚く成歩堂に対して、寿沙都はにこりと微笑んで「ありがとうございます、マヤさま」とお辞儀をした。それが、マヤにとっては気恥ずかしくもあり・・・・そしてどこか嬉しくもある。
「正直、少し感動してしまいました。龍ノ介さんたちが抱いてきた想い・・・・それが、ひしひしと伝わってきた裁判でした」
「そ。そんな!ぼくは、ただ・・・・」
「それに・・・・今回の勝利は、そちらの被告人も“信義誠実”に証言してくれたからでしょう」
「!」
漱石はマヤの言葉にまたもや眉をピクリと動かせると「恐悦至極ッ!」と涙を浮かべた。その光景を見たホームズは、煙管を吸いながら目を閉じ、ゆっくりと紫煙をふかす。まるで遠い過去に思いを馳せているようだ。
そんな中、照れたように頭を搔く成歩堂が「でも」と付け加える。
「マヤさん、いったいどうして・・・・あなたは検察側のはずです」
「私は、別に何としてでも勝ちたいワケではありません。ただ、この裁きの庭では全ての真実は暴かれるべき・・・・そう思って、バンジークス様の助士をしているだけです」
「ふうん、そうかい。《死神》クンも、立派な助士を持ったものだねえ」
「まだまだ、バンジークス様に叱られてばかりですけどね」
「大丈夫さ。キミよりずっと先輩のグレグソン刑事だって、ずっと似たような扱いだからね」
「(かわいそうなグレグソン刑事・・・・)」
気の毒ではあるが、成歩堂の頭の中ではホームズの言葉通りの光景が鮮明に思い浮かべられる。それはマヤも同じだったのか、思わずクスクスと笑うと、ふぅ、と息を吐き、今度は真剣な顔で漱石に向き直った。
「・・・・ですが。まだ本当の意味で“終わった”ワケではありません」
「!それは・・・・まさか・・・・」
「《死神》・・・・その話は、龍ノ介さんたちも既に耳にしたことでしょう」
その場にいた大多数の表情が強ばる。
『この倫敦には《死神》がいる』
それは、バンジークス卿の異名のことではない。バンジークス卿とは別に手を下す・・・・本物の《死神》のことをマヤは指していた。
すると、寿沙都が険しい顔で「僭越ながら、わたしもお尋ねしたいことがございます」とマヤに問いかける。
「《死神》の件・・・・そのことについて、マヤさまは本当に何もご存知ではないのでしょうか」
「・・・・残念ながら。知っていることと言えば、“バロック・バンジークスは本件とは何も関係がない”・・・・それだけです」
「ですが。ならば、なぜバンジークスさまは《死神》などという異名を受け入れているのでございますか?」
寿沙都は、まだバンジークス卿が《死神》と何も関係がないとは思えないようだった。だが、それも当然だろう。そうでなければ、《死神》などと周囲から畏れられるような不名誉な異名を誰が喜んで引き受けようか。
マヤは咄嗟に何かを言おうとしたが、あえて一拍置いて答える。
「・・・・・・・・優しいのです。バンジークス様は」
「優しい、優しくない・・・・の話とは、少し違うような気もいたしますが・・・・」
「そうでしょうか。少なくとも、私はそうだと考えています」
「ですが、」
「おっと、話はそこまでだよ。諸君」
食い下がろうとした寿沙都とマヤの間に、ホームズが割って入る。「迎えが来ているようです、
「あ。では、私はこのあたりで失礼します。・・・・待ってください、バンジークス様!」
マヤは成歩堂たちに一礼すると、バンジークス卿の後を早足で追いかける。そして、やっとのことで追いつくと彼の横顔をちらりと見た。
どうやら、この前のように明らかな不機嫌ではないらしい。しかし、相変わらず眉間の皺は深く、マヤが「あの、」と声をかけるよりも早く、バンジークス卿は口を開いていた。
「・・・・あの者たちと、何を話していた」
「何と聞かれましても・・・・取るに足らない話です」
「取るに足らない話・・・・か。そなたが、そのようなコトバを口にする日がやってくるとはな」
「・・・・・・・・あの、バンジークス様」
「なんだろうか」
「もしかして・・・・寂しかったのですか?」
いつもならば、『なぜそうなるッ!』と頭痛に苛まれながら彼女を叱るところだったが、バンジークス卿は暫く沈黙した後に突然歩みを止めた。
「・・・・ミス・マヤ。このあと、時間はあるだろうか」
「え?・・・・報告などがあるので少し時間はかかりますが、そのあとなら、おそらく・・・・」
「では、その時間・・・・私に譲っていただきたい」
マヤは驚いた。それは、バンジークス卿からの食事の誘いだった。
尊敬し、敬愛する彼との食事など滅多にあることではない。できることならば、仕事など放り出して今すぐにでも向かいたいぐらいだ。だが、この前のバンジークス卿との一件が彼女のなかに思い出されて、思わずマヤは言葉に詰まる。
「・・・・私なんかで、よろしいのでしょうか」
マヤ自身、バンジークス卿にいつも迷惑をかけているという自覚はある。彼女も一応貴族の出ではあるが、天涯孤独の身となってからは自分の身分のことなど忘れてしまっていた。・・・・いや、正確には『忘れたかった』の方が正しいだろう。
そのため、自分のような女性がバンジークス卿と食事などあまりにも不釣り合いではないかと心配したのだが、彼はそんなマヤの不安をいとも容易く打ち砕いてくる。
「むしろ。私はそなただから頼んでいるのだ。・・・・・・よければ返事を。ミス・マヤ」
マヤは徐々に赤くなっていく自分の顔を誤魔化すように、さっと下に俯いた。前髪で目元は隠れているが、必死にコクコクと頷いて「・・・・よろこんで」と照れ臭そうに答える彼女を見たのは、この十年で初めてのことだった。