the great ace attorney

突き放された手

この倫敦の司法判事である、ハート・ヴォルテックス卿はとにかく時間に厳しい男である。人生の一分一秒たりとも他人のムダに付き合うことを好まない人間であり、だからこそ、同じく見えない秒針を読むことのできる人間のことを気に入る傾向があった。

「報告ご苦労。やはり、私の考えは正しかったようだ」

ヴォルテックス卿は、懐中時計を見て先程行われた報告に要した時間を確認する。

「5分・・・・か。相変わらず、そなたはぴたりと我が時計に合わせてくるようだ」
「お褒めに預かり、光栄でございます」

表向きは冷静を装っているマヤにとっても、ヴォルテックス卿への定期報告の時間はいつも肝が冷える思いだ。
マヤには、ヴォルテックス卿に幼い頃から世話になってきた恩義がある。父親を失った当時、路頭に迷う彼女に“バンジークス卿の助士”という道を提示してくれたのは他でもないヴォルテックス卿だった。
だが、それでも、ふとしたときにヴォルテックス卿が見せる威圧感にはいつまで経っても慣れることがない。常に先を見据える鷹のような鋭い眼光の前では、誰もが平伏するしかないのだ。
しかし、今回ばかりはそうも言っていられない。マヤは、今日こそヴォルテックス卿へと尋ねるべく重い口を開く。

「・・・・あの、ヴォルテックス閣下」
「なんだね」
「《死神》がバンジークス様でないことは、閣下も分かっておられるはずです。しかし、《死神》はこの倫敦に、確かに存在している。・・・・《死神》とは、一体何者なのですか」

中央刑事裁判所オールドベイリーの《死神》の存在に、マヤは長らく目を瞑ってきた。それは彼女自身が、過去に《死神》に頼ってしまった罪悪感ゆえであり、また、実際に《死神》が存在することで倫敦の犯罪件数が激減した事実があるからだ。
だが、あの日本から来たという司法留学生の姿を見ていると、マヤは尋ねずにはいられなかった。

「・・・・私が、《死神》の存在を知りながら、それを隠しているとでも?」
「失礼なことを言っているのは重々承知の上です。しかし、ヴォルテックス閣下も知らないような事実がこの倫敦にあるのならば。それは、司法の未来を妨げるものではないでしょうか」

ヴォルテックス卿は、目を細めてマヤをじっと見つめる。いつもならば思わず目を逸らしたくなるような視線だが、マヤは負けじと彼を見つめ返した。

「・・・・・・《死神》については、私も目下調査中である」
「では、閣下もご存知でないということでしょうか?」
「非常に残念だが、そういうことだ」
「ならば。亜双義一真・・・・という男については?」
「・・・・ほお。どこで仕入れたのかね、その情報を」
「それは、言えません」

先日、成歩堂たちと話した時。亜双義一真という名前を出した瞬間、彼らが動揺したことにマヤは気づいていた。成歩堂たちを問いつめても良かったが、彼らがあえて口を閉ざしたことにはそれなりの理由があるのだろう。
ヴォルテックス卿は威圧感を含んだ目でマヤを見据えると、黄金の杖で彼女を真っ直ぐに指した。

「・・・・アソーギ・カズマ。非常に惜しい人間だった」
「そ、それは。どういうことですか?」
「そなたは、大日本帝国がわざわざシロートの司法留学生を我が国に寄越すと思ったのかね?」
「(シロートの留学生・・・・龍ノ介さんのこと、かな)」

成歩堂の弁護は、確かにお世辞にも玄人のものとは言えなかった。初めて成歩堂がマヤの前に姿を見せた時、彼は英国の陪審員制度さえも知らなかったのだから。
しかし、それは留学生だから、とマヤは思っていたのだが、もしヴォルテックス卿の言葉をそのまま受け取るならば頭に浮かぶのは最悪の結論だけだった。

「そんな・・・・亜双義一真は、死んだとでも言うのですか!」
「残念ながら、そういうことだ。我が国に来る途中の船内で、不幸な事故に見舞われたと聞いている」
「・・・・うそ、」

マヤは思わず力が抜けて、その場にへたりこんでしまった。

「そなたがあのアソーギとどういう関係かは知らないが、事実は受け止めなければならない」
「・・・・・・・・・・・・っ」
「より詳しいことが知りたければ、ミスター・ナルホドーに聞くといいだろう。私よりもずっと、彼のことを知っているようだ」

「幸いなことに、次の会議には遅刻せずに済みそうだな」と呟くヴォルテックス卿は、マヤの肩を一度叩くとそのまま歩いていってしまった。

「・・・・・・・・一真、さん」

突然知らされた友の訃報に、マヤは動くことさえできなかった。カチカチと音を鳴らして動く時計は、一時でさえ止まってはくれず。この時ばかりは、マヤの中の時計は完全に止まってしまったような気がした。

それから、どうやって検事局へと帰ったのか、彼女は覚えてすらいなかった。
8年という月日は、長いようで短い。だが、二人の人間が8年も共にいれば、否が応でも相手の些細な違いには気づくようになるというもの。特に、弁護士や検事といった、人の感情の機微に敏感でなければならない人物なら尚更のことである。
つまり、ヴォルテックス卿への報告から戻ったマヤの様子がおかしいことに、バンジークス卿が気づくのは時間の問題だった。

「マヤ」
「・・・・・・・・・・・・」
「マヤよ」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・そなたの耳は無くなったのか」
「!は、はいっ。何でしょうか、バンジークス様!」

倫敦で起きた事件のリストを眺めるフリをして、ぼーっとしていたマヤは慌ててワインボトルを手に取る。そして空になったグラスに葡萄酒を注ぎ入れようとするが、バンジークス卿がそれを手で制した。

「違う。そうではない。・・・・最近、どうも仕事に身が入っておらぬようだ」
「!も、申し訳ありません。つい、考え事をしてしまって・・・・」
「話してみるがいい」
「そ。それは・・・・」
「・・・・また、日本人のことか」
「!」

図星と言わんばかりのマヤの様子に、バンジークス卿はため息を吐く。

「日本人など、気にかけてどうする。そなたは英国人だ。海の向こうの小さな島国に思いを馳せるほど、暇では無いはずであろう」

マヤはいつでもバンジークス卿に従順な助士だった。彼女は自分のやるべきことをいつも自覚しており、周りが何を求めているのか理解できる優秀な人物だと、バンジークス卿は内心評している。確かに時折突拍子もなく的外れなことを言い出すときもあるが、表向きは呆れながらも、それは彼女自身の尊重されるべき個性でもあると考えていた。だから、自分が一言諌言すれば、いつも通りの彼女に戻ると思っていたのだ。
だが、今日のマヤは珍しく狼狽えている。そして、自分の胸元にある金細工のブローチに手を当ててから、深く息を吸った。

「・・・・ですが。事実、私には日本人の血が半分流れています」
「・・・・・・・・なんだと?」

今までマヤを《混血》ではなく英国人として扱ってきたバンジークス卿は、初めてマヤが“自分は日本人である”と発言したことに驚いた。
彼女の心理に一体どのような変化が起きたのか。考えるだけでも嫌な予感がした。

「・・・・申し訳ありません。ですが、血は争えないのです。私は母の顔を覚えていませんが、それでも確かに、日本で暮らした時のことを覚えています」
「・・・・・・・・!」

真っ直ぐにバンジークス卿を見据えるマヤの目に、彼はいつしか見た日本人特有の強い光を見た。

「・・・・その目で、私を見るな」
「で、ですが。バンジークス様、私は・・・・!」
「そなたも、やはり裏切るのか。8年という長い年月があれば、そのようなことは有り得ぬと思っていたが・・・・どうやら、私の思い違いだったようだ」
「!」

突然立ち上がるバンジークス卿に、マヤは驚いて後ずさる。だが、彼は逃がす気がないのか、じりじりとマヤに詰め寄り、ついには逃げ場のなくなった彼女を壁と自身の腕の間に閉じ込めた。

「やはり、日本人など皆同じだ」

こちらを睨みつけるバンジークス卿の目には、ありありと憎悪の色が見て取れる。初めて向けられたその視線に、マヤの胸にはどうしようもない怒りと悲しみが血潮のように湧きあがった。

「バンジークス様には、分かりません・・・・!《混血》の気持ちなど・・・・私が、どんな思いで毎日を過ごしているのか!血などと、くだらない隔たりを生んで蔑む人間には、一生私の気持ちなど理解できるはずがない・・・・・・!」
「分かりたくもない。日本人さえいなければ、私は・・・・!」
「日本人も英国人も、皆同じ人間じゃないですか!」

バンジークス卿を突き放すと、マヤは泣きながら言い残して執務室から出ていってしまった。バンジークス卿の足元には、先程の一悶着で床に落としてしまった赤い葡萄酒が血のように広がっている。

「・・・・・・・・兄上」

壁に飾られている大きな紳士の絵を見上げても、答えが返ってくるはずはない。マヤが部屋を出る際に伸ばしかけた手を、バンジークス卿は悲しげに引っ込めた。