理由はいくつかある。一つは、ヴォルテックス卿へ用があったのだが、彼が不在のため半日も立ちっぱなしで待たされたこと。そしてもう一つは、今日のフィッシュアンドチップスは味が粗雑なものだということ。そして、もう一つは、
「グレグソンくん。ボクはいつも不思議に思うのだよ。なぜ人間という生き物は、皆自分が孤独であるなどと思いこんでしまうのか」
「・・・・ホームズさん。アンタ、いい加減帰ってくれないか」
先程から自分の周りをちょこまかとうろついている、この名物探偵が原因である。
《
「分からない男だな、キミも。つまり!ボクが言いたいことは・・・・そのフィッシュアンドチップスをボクにもくれないか、ということさ!」
「断る。アンタに奢る道理はどこにも無いだろう」
「ボクは今月の家賃を払うのにも必死なんだ。ウチでアイリスが腹を空かせて待っているというのに、それでもキミはボクに奢ってくれないのかい・・・・」
「・・・・お嬢さまなら、今朝嬉しそうにチキンを買い込んでいるのを見たがね」
「何だって!つまり明日のディナーはボクの大好きなチキンというわけだ。アイリスときたら、ボクにサプライズをしようだなんて嬉しいことをやってくれるじゃないか」
時刻は既に21時を過ぎている。グレグソン刑事はどうにかしてこの面倒くさい探偵を早く追い払えないものかと、キョロキョロと辺りを見回して、ある一点に目をとめた。
「・・・・あれは」
ベーカー街の通りは、昼は賑やかだが夜はひっそりと静かになる。その歩道の上で、肩を震わせてしゃがみこんでいる人物の姿に、グレグソン刑事は覚えがあった。
「マヤ。もしかして、アンタか?」
「・・・・グレグソン、刑事」
「やあ、《死神》の助士クンじゃないか。こんな時間帯に、一人で見えもしない倫敦の星空を眺めるとは・・・・・・キミもなかなか詩的なことをするね」
「・・・・アンタはそろそろ黙った方がいい」
グレグソン刑事から食べていたフィッシュアンドチップスを押し付けられたホームズは、とりあえず彼がまだ口をつけていないイモを一つ口に放り込む。「うん。アイリスの作ってくれる料理の方が美味いな」と言いながら食べ進めるホームズのことは、この際放っておくことにする。今一番気になるのは、明らかに何かあったマヤの様子だ。
「何をしているんだ、マヤ。こんなところで」
「・・・・わ、私・・・・」
「・・・・?」
「私っ、バンジークス様に酷いことを言ってしまいました・・・・!」
「おやおや・・・・これは」
わっと泣き始めたマヤに、グレグソン刑事は思わず開いた口が塞がらない。ホームズは食べられる限りのイモを一通り食べると、残りをグレグソン刑事に突き返してマヤの様子を窺う。
「いやはや。《死神》クンも罪な男だね。こんな、か弱い
「ど。どうしよう・・・・バンジークス様に嫌われてしまったかもしれません・・・・・・!もう、あの人のお傍に、いられないかもしれません・・・・!」
「お、おいおい。弱ったな。コイツがこんなに泣いている姿、ワシは見たことないんだが・・・・」
「グレグソンくん。女性というのはね、いつも心の裏に色んな気持ちを押し殺しているものさ」
一体全体どの口が女性を語るのか。グレグソン刑事が知る限り、かつてのホームズは女っ気さえ無かったどころか、今よりも気難しいところのある男であった。そんなホームズも、今となっては懐かしい思い出でもあるが。
そんなグレグソン刑事のことは露知らず、ホームズは自分の被っていた鹿撃ち帽をマヤの頭に乗せた。「涙で綺麗な顔が台無しですよ、ミス・マヤ」とこれまた取ってつけたような台詞を吐く。
「さて。今日のボクはどうやら少し飲みたい気分のようだ。ということで、パブにでも行こうか。グレグソンくん」
「・・・・・・・・仕方ないな」
しかし、こんな夜に彼女を一人で残しておくわけにもいかない。最近は辻強盗の噂などがこのあたりでも広まっているようだ。
何より、グレグソン刑事もすっかり毒気を抜かれてしまったのか、未だに涙の止まらないマヤの肩を叩く。雲の隙間からのぞく月の光が夜のベーカー街を静かに照らしているなか、三人は近くのパブへと向かうのだった。
倫敦のパブとは平たく言えば大衆酒場のことである。雰囲気は店によって様々であり、ホームズたちは今回、ベーカー街の外れにあるこぢんまりとしたパブを選んだ。店の中では、店主である老紳士がただひたすらにグラスを拭いている。
「まあ、落ち着きたまえよ。ミス・マヤ。彼との間に何があったのかは知らないが、少なくとも今日はグレグソンくんが奢ってくれるらしいからね。ベラボーに高い食い物を、ベラボーに頼んでやるといい」
「・・・・・・・・・・・・」
「ほら、持ってきたぞ。あんたはビール、いけるクチか?」
声を出さずにこくりと頷くマヤの姿に、グレグソン刑事は少しだけ安堵した。マヤは自分の頭の上にあるホームズの鹿撃ち帽をカウンターの上に置くと、ジョッキをぎゅっと両手で握りしめて一気に飲み干した。
「・・・・お、おお。案外いける口なんだな」
「《死神》クンがよくお酒を飲むからねえ。大方、いつも付き合ってるんだろう」
「・・・・・・・・!」
《死神》の名を聞いたマヤは、途端にゲホゲホと噎せる。それを見たグレグソン刑事は「こら、ホームズ!」とたしなめた。
「・・・・私。どうして《混血》なんでしょう」
やがて、吐き出すように呟いたマヤの言葉に、二人は黙って聞くことにする。
「バンジークス様は、日本人が嫌いです。でも、私には確かに日本人の血が半分流れている。・・・・今日、日本にいた友人が亡くなったという話を耳にしました」
今でも信じられない。亜双義一真が、日本から英国に来る途中の船で不慮の事故により亡くなった、などと。
幼い頃、マヤが日本に滞在していたほんの僅かな時間で唯一できた友人が亜双義一真だった。お互いに夢を語り合い、自分は日本の司法を変えるのだと息巻いていたあの頃の無邪気な彼の笑顔を、今でも鮮明に思い出すことができる。
そして、マヤが英国に帰ってからも、しばらくの間二人は手紙のやり取りを行っていた。しかし、それがあるときを境に、ぱたりと無くなってしまったのだが・・・・・・それでも彼はきっと変わらずに強く生きているのだと、マヤは今日まで自分に言い聞かせて過ごしてきたのだ。
マヤが悲しげに顔を顰めると、ジョッキの中に映る自分までもが酷く歪んで見える。
「・・・・とても大切な友人でした。倫敦で必ず会おうと、約束までしていました。今更、それを嘆くなんて不毛だとは分かっています。だけど、私は・・・・・・・・」
「・・・・大切な人を悼む気持ちは、きっとあの方だって分かってくれるだろうさ」
グレグソン刑事は、注文したフィッシュアンドチップスを食べながら、ビールをぐいっと煽る。
「アンタは知らないかもしれんが、バンジークス卿には昔、兄がいたんだ」
「・・・・・・・・・・・・グレグソン、その話は」
「分かってる。だが、コイツにはその話をしてやらなきゃいけないだろう。コイツのためにも・・・・あの人のためにも」
ホームズはグレグソンの言葉を聞くと、それ以上何も言わなかった。煙管をくわえながら物思いに耽っているようだ。
「あの人の兄は、とても優秀な検事だった。バロック・バンジークス卿は兄をとても尊敬していて、兄のような検事になろうと、同じ検事の道を歩き始めた。それが10年前・・・・とある事件で、兄が殺されてしまった」
「・・・・知っています。それが、あの執務室に飾られた絵の方・・・・クリムト・バンジークス様、なのでしょう?」
「そうか。もう、知っていたのか」グレグソン刑事は自分の動揺を誤魔化すようにビールを飲む。
「・・・・でも。私は、この話をバンジークス様から聞いたコトは一度もありません。バンジークス様は、未だに私を信用してはくださらないのです」
バンジークス卿には兄がいた。マヤがその話を知ったのは、自分で色々と調べたからであって、決してバンジークス卿が教えてくれた訳ではなかった。
いつか、バンジークス卿が自分の口で教えてくれる日を待っていたが、その時は8年経った今でも来ない。
だが、その話を聞いたグレグソン刑事は「それは違うな」とかぶりを振る。
「あの人は、少なくともアンタのことだけは信用してると思うがね」
「・・・・どうして。そんなことが分かるのですか」
「じゃあ逆に聞くが。どうして信用していない人間を8年も傍に置いておく?」
「・・・・・・・・それは、」
「あの人が法廷から遠ざかった5年間。助士なんて傍に置いておく必要はほとんど無かったはずだ。それでも、アンタには傍にいてほしかったんだろうよ」
「・・・・まったく。不器用だな、《死神》クンは」ホームズの煙管から線のような煙が天井にのぼり、やがて霧散していく。
「・・・・・・・・・・・・バンジークス様」
マヤは呆然とした。
どうして、バンジークス卿は日本人の血が半分流れているマヤを助士として受け入れてくれたのか。本当に日本人が憎いのならば、おそらく助士として置くことさえなかっただろう。
「(もしかしたら。バンジークス様は・・・・)」
そこまで考えて、マヤはふと我に返る。いつの間にか、二杯目を持ってきたグレグソン刑事が彼女の前にビールを差し出していた。
「まあとにかく。酒が好きなら今は気にせず飲むことだ。バンジークス卿も、本当にアンタのことを嫌いになったわけじゃないだろう」
「・・・・うううう・・・・ありがとうございます・・・・明日、バンジークス様に謝ってみます・・・・」
「それがいい。《
「でも、ボクは思うね。これは、いわゆる“喧嘩両成敗”というやつだと」
「・・・・訳の分からないことを言ってないで、アンタはさっさと帰ってくれ。ホームズ」
「おや。英国人にはやはり分かりづらい言い方だったか。ならば、こう言おうじゃないか。“右頬を打たれたなら左頬も差し出せ”・・・・とね!」
「・・・・ホームズさん。それじゃあ意味が全く違います・・・・・・」
「ここは一発。あの《死神》クンの青白い顔にも、お見舞いしてやるといい。キミのビンタをくらえば、あの《死神》クンの顔色もいくらか良くなるだろう」
「それ。おそらく腫れてるだけだと思いますけど・・・・」
「うん?たしかにそうかもしれないね。あっはっはっはっはっ!」
ホームズの笑い声が夜のパブによく響く。気づけば止まっていた涙に、マヤはようやく自分のざわついていた気持ちが収まっていくのを感じていた。