木漏れ日の朝
一人で葡萄酒を飲むバンジークス卿は、執務室の窓から、とうに明かりが消えて真っ暗になった倫敦の街並みを眺めていた。その時、執務室の扉を誰かが叩く。
「・・・・・・・・入れ」
「入れ、だなんて失礼な。そこはキミが開けるべきじゃないのかい?《死神》クン」
思いがけず扉を開けて入ってきたのは、あのシャーロック・ホームズだった。虫の居所が悪かったバンジークス卿は即刻彼を追い返そうとするが、ホームズの腕の中に抱えられている人物を見て目を細める。
「・・・・我が助士が迷惑をかけたようだ」
「それはこっちのセリフさ。彼女、夜のベーカー街で無防備に泣いててね。可哀想だし危ないから、グレグソンくんと一緒にパブに連れて行って、ちょちょいっと慰めてあげたよ」
「まあ。少々飲みすぎたみたいだがね」と笑うホームズの言葉を聞いても、バンジークス卿の視線がマヤから動くことはない。
「・・・・《死神》クン。なぜ、彼女はそこまでしてキミの後を必死についていくのだろうね」
ホームズはバンジークス卿の視線に気づきつつも、執務室のソファに優しくマヤを下ろす。酔ったせいでぐっすりと眠っているマヤが目覚める気配は一向にない。
「まあ、ボクには何の関係もない話だがね。あまり、彼女を責めないでやってほしい」
「・・・・・・・・我が助士が働いた数々の無礼、どうかお許し願いたい」
「気にしないでくれたまえ。人探しも探偵の仕事の一つさ」
「それじゃあ。ボクはそろそろ退散するよ」と手を振って、ホームズは部屋を出ていく。窓から差し込む月の光が、ソファに眠るマヤを白く照らした。
「・・・・・・・・マヤ」
バンジークス卿はそっと手を出すと、マヤの額を撫でる。手袋越しに伝わる体温でも、確かに温かい。
「・・・・バンジークス、様・・・・」
すると、それまで目を閉じていたマヤが薄く目を開けた。
「バンジークス様・・・・ごめんなさい・・・・」
「なぜ、そなたが謝る。・・・・謝らなければいけないのは、私の方だ」
「嫌われたんじゃないか、って・・・・もう、バンジークス様の助士としていられないんじゃないか、って・・・・・・とても、不安でした」
「・・・・愚かな」
ため息混じりに呟いた声を聞いて、マヤは安心したように笑うと、そのまま目を閉じた。
「・・・・・・・・日本人など。だが、・・・・・・・・」
月の光によって作り出された影がそっと重なる。次の日の倫敦の空は、二週間ぶりの快晴だと街中で大きな話題になった。
そして、一体どれほどの間眠っていただろうか。マヤがハッと目を覚ます頃には、既に窓の外からは眩い日差しが差し込んでおり、綺麗な青空さえ見える。
「(・・・・だ。ダメ、記憶が・・・・)」
昨日のことを思い出そうとしても、ズキズキとこめかみのあたりが酷く痛む。この現象の名前をマヤはよく知っていた。これは二日酔いだ。
昨日はグレグソン刑事とホームズという珍しい二人と酒を飲んだところまでは覚えている。最終的に酒に酔ったホームズが「ボクはね、こう見えて昔はやんちゃだったのですよ」と聞いてもいない昔語りを始めたあたりで一切の記憶が途切れてしまっていた。
とにかく、周りを見る限りここはいつもの執務室のようだ。バンジークス卿が来る前に、何とかいつも通りの自分を装わなければ・・・・そう思っていたマヤは、自分の眠っていたソファを見て驚きのあまり心臓が飛び出そうになった。
「ば。バンジークス様・・・・・・っ!」
幸い、大声で叫ぶことは何とか免れた。マヤの足元では、バンジークス卿が目を閉じて静かに座っている。どうやら眠っているようだ。
頭の整理が追いつかない彼女は、あたふたと慌てるが、自分が下手に騒いでしまえばバンジークス卿が起きてしまうだろう。マヤ自身、バンジークス卿が寝ている姿を全く見かけたことがなかったため、新鮮な気持ちである反面、年々顔色の悪くなっていく彼にはちゃんと休息を取って欲しいという思いが常にあった。
マヤはソファからゆっくりと身体を起こすと、隣で眠っているバンジークス卿の顔を覗き込む。今ならば、眉間の皺も取れて穏やかな顔つきだ。そして、つい出来心で彼女は手を伸ばす。
8年も一緒にいたにも関わらず、初めて目にした尊敬する人物の寝顔。その頭をそっと撫でてみると、ふわふわとした髪の毛が彼女の指先をくすぐり、マヤは思わず笑みが漏れた。
願わくば、この時間が一生続けばいい。《死神》のことも、バンジークス卿の過去のことも、一切がなかったことになってくれたら、彼は穏やかな顔のまま平穏な日々を送れるだろうか。そして、いつかは自分も・・・・。
けれど穏やかな時間は、そういつまでも続かない。おそらく検事局にあてた電報を届けに、配達人が馬車から降りる姿が窓から見えた。マヤは頭を撫でていた手を引っ込めると、ソファから降りて小声で眠っているバンジークス卿に囁く。
「では、行ってきますね。バンジークス様」
そう言って、マヤはいそいそと部屋を出ていく。扉がバタン、と閉まると、ソファで眠っていたバンジークス卿が目を開いた。
自分の目元を手で覆うと、はぁ、とため息を吐かずにはいられない。その顔は、いつもの血色の悪さから一転してほんのりと赤く色づいていた。