一つは、法務助士である寿沙都が日本に帰ってしまったこと。そしてもう一つは、彼の留学の目的とも言える“弁護士”として、一切法廷に立てなくなったことだ。
「なるほどくん。今日はハロッズにおつかいに行ってほしいの!」
「ハロッズって・・・・あの、ブロンプトンロードにあるハイカラなお店のこと?」
「そうだよー。なるほどくん、最近屋根裏で本と睨めっこばかりしているから、たまには外に出て息抜きした方がいいもんね!」
先の裁判で、成歩堂が不正な証拠を用いて弁護を行ったことが明らかになった。もちろん、それは成歩堂の意志ではなく、無理やり巻き込まれたと言った方が正しいのだが、かと言って罪を償うべき人物を無罪にしてしまったという責任は彼にも当然存在する。
その事実をジーナの裁判で認めてしまったことで、彼はグレグソン刑事のように暫くの謹慎処分を言い渡されてしまったのだ。ここ最近は屋根裏部屋で法律関係の書物を読み漁る日々である。
そんな折、アイリスが成歩堂にお使いを頼んだ。「なるほどくん、最近カビ臭いの。天日干ししてリフレッシュしてこなきゃ!」と言うアイリスに、成歩堂は自身の扱いがまるで布団のようだと思うものの、確かにここしばらく倫敦の街並みをゆっくり眺めていないことに気づく。
「わかったよ。何を買ってくればいい?」
「えーとね・・・・美味しいハーブティーを作るために必要な材料と、ジンジャークッキーを買ってきてほしいな!」
だが、成歩堂は、自分が弁護士の資格を停止されたことに後悔はしていなかった。自分がおかした過ちは認めなければならない。それが、弁護士として、裁きの庭に立つ者としての彼の覚悟だった。
成歩堂はアイリスの気遣いを感じながら、買ってくるものが書かれたメモを受け取る。
「えへへ。今日の夜はきっととびきり楽しい時間になるから、なるほどくんも楽しみにしててね!」
「どういうこと?」
「それはー・・・・夜になってからのお楽しみ、なの!」
含みを持たせるアイリスの言葉の意味は、成歩堂がハロッズで買い物を済ませて帰ってきてから、すぐに分かった。
「ナルホドー!帰ってくるの遅いよ!」
「龍ノ介さん。お邪魔してます」
「じ。ジーナさん・・・・それに、マヤさんも」
ホームズの事務所にはとても座り心地の良いソファがあるのだが、その上でいつもぐっすり眠りこけている人物の姿はなく、代わりに親しげに話をしている二人の人物の姿があった。
驚く成歩堂を見て、アイリスは嬉しそうに跳ねる。
「ね。ね。今日は、ジーナちゃんとマヤちゃんが来てくれたの!もうすぐホームズくんも帰ってくると思うから、皆で楽しく過ごしたいなあって」
「アイリスがどうしてもって言うから来たけど。アタシ、こう見えても忙しいんだよねー」
「・・・・スリの仕事で、ですか?」
「あっ、酷いなあナルホドー!アタシがいつまでもスリの子だと思ってたら大間違いなんだから!」
怒って顔を背けるジーナに成歩堂がまいったな、と苦笑していると、マヤが笑いながら「そう言って。今日もベーカー街の紳士から財布を盗もうとしてたの・・・・私は見てたけどね、ジーナ」と横槍を入れた。
「ううん・・・・あれは盗みやすいところに財布をしまっていたアイツが悪いというか・・・・ほら。ショクギョービョーってやつ?」
「・・・・まあ、今はそういうことにしておこっか」
初めて聞くマヤのくだけた口調。いつも丁寧な立ち居振る舞いの彼女しか知らなかった成歩堂は、咄嗟に『異議あり!』と叫びたい気持ちを抑えながら「あ。あの・・・・」と尋ねてみる。どうやら成歩堂も職業病に苛まれてしまっているらしい。正しくは留学生病、なのだが。
「どうしました?龍ノ介さん」
「ジーナさんとマヤさんは、いつの間にそんなに仲が良くなったんですか?」
成歩堂には、ジーナとマヤにそれほど面識があった記憶はない。少しだけ取り残されたような気持ちになっていると、ジーナとマヤはお互いに顔を見合わせてから笑った。
「ナルホドーがホームズの家に引きこもってる間に、世の中は常に動いてるってこと」
「私も最初は、ジーナにとことん嫌われてたんですよ」
「だって。マヤってあの《死神》の手下でしょ?アタシ、てっきりまた捕まえにきたのかと思ったし」
「バンジークス様の“手下”・・・・初めてそんなこと言われたかも」
話によると、マヤはジーナの裁判が終わってから度々彼女の様子を見に留置所へと足を運んでいたらしい。その理由は成歩堂にも察しがつく。先の裁判で無罪を勝ち取ったジーナだが、だからといって安心はできない。《死神》の存在が、いつジーナの命を脅かすかしれないのだ。どうやら、成歩堂がその前に弁護を担当した裁判の被告人だった夏目漱石はその後も無事に生きているようだが、今も倫敦で生活しているジーナのことがマヤは気が気ではなかったらしい。
「ジーナに面会するたびに《
「アタシだったら。宇宙人になれるなら、むしろ感謝するけどなあ」
「バンジークス様に何度。怪訝そうな目で睨まれたか・・・・ついには『妙な趣味は大概にしてもらいたい』と苦い顔で言われて、弁解するのに必死でした・・・・」
「あ。そうだ!ナルホドーも、その真っ黒な服を真っ青に変えてあげよっか?」
「ぼくはエンリョしておきます・・・・」
ジーナはにこやかに《
だが、その反面、和気あいあいと話すジーナとマヤは、成歩堂が知っている二人よりもずっと明るくて憑き物が落ちたようだった。その光景が羨ましくも安心していると、いつの間にか帰ってきたホームズがジーナとマヤの背後から突然声をかけた。
「やあ、紳士淑女の諸君。どうやらさぞかし楽しんでいるみたいじゃないか。・・・・そういうときは、ボクも誘ってくれないと困るね!」
「きゃああああぁぁぁぁっ!!」
バチン!と部屋の中に響く乾いた音。お決まりの光景にもはやツッコミを入れるものは誰もいない。
「・・・・ミス・マヤ。キミの手癖ばかりはこのボクでも推理できないな」
「あ。あの、ごめんなさい!いつも手が出ないように気をつけているのですが・・・・てっきり幽霊でも出たのかと思って・・・・うっかり平手で叩いてしまった無礼、どうかお許しください!」
「・・・・マヤさん。何だかんだで、あのバンジークス卿に似てるところありますよね」
「うん?ああ。そりゃあ、8年も助士をやっていたらそうだろう。ボクとアイリスのようなものさ!」
「・・・・あたしとホームズくんは全然似てないと思うの」
「あっはっはっはっ!」高らかに笑いながら、平手打ちの痕が残る頬を擦るホームズを見る限り、やはり今回もそこそこ痛かったようだ。久しぶりに“寿沙都投げ”を思い出し、女性というものは逞しいなと感心せずにはいられない成歩堂であったが、その一方で、寿沙都のことがやけに懐かしく、思わず小さくため息を吐いた。彼女は今頃、日本で何をしているのだろうか。
そして。その時、成歩堂は偶然にも足元に金細工のブローチが落ちているのを見つけた。マヤがいつも胸元につけているブローチだが、驚いた拍子に落としてしまったのだろう。
「あの。マヤさん、ブローチ落としてましたよ」
「・・・・・・・・!」
途端にマヤの顔色が変わる。彼女は成歩堂の手からブローチを即座に取り返すと、申し訳なさそうな顔で頭を下げた。
「あ。も、申し訳ありません。・・・・これ、とても大事なものなんです」
「ナルホドー。マヤから何かスリ取ろうとしたら、アタシが許さないからね!」
「・・・・ううう・・・・弱ったな・・・・」
あらぬ疑いを向けられた成歩堂は、ジーナに詰められながらも横目でマヤの様子を窺う。先程まで明るかった彼女の表情は一転して暗い。
そして、先程ブローチを拾った時。成歩堂は一瞬だが、ブローチの裏に何かの刻印が施されているのを見逃さなかった。一瞬しか見えなかったため、何の刻印かまでは分からなかったが。
そうして成歩堂が頭を悩ませているうちに、キッチンから戻ってきたアイリスが嬉しそうに手を合わせた。
「皆ー、ご飯の準備ができたの!じゃあ始めるよっか、“なるほどくんの励まし会”!」
「え。ぼ、ぼくの・・・・“励まし会”?」
「そうだよー。なるほどくん、すさとちゃんが帰ってからたまに凄く寂しそうな顔をするの。外にもあまり出てないみたいだし、皆でここはビシッとなるほどくんを慰めてあげなくちゃ、って」
ぼくはそんなに分かりやすく寂しそうな顔をしていたのかしらん、と考えたが、確かに寿沙都が帰ってからの成歩堂は、以前の勢いが少しだけ欠けてしまったような気もしていた。
そんな成歩堂に、マヤはいくつかのファイルを取り出して渡す。
「私、アイリスちゃんから話を聞いて・・・・それで。何かお手伝いはできないかと考えて、検事局から過去の事件のファイルをいくつか持ってきたんです」
「え!いいのですか、マヤさん」
「はい。司法留学生ならば、祖国に送るレポートがきっと必要かと思います。大英帝国の法律の勉強にもなるかと」
「でも・・・・これ。バンジークス検事に怒られないのでしょうか?」
「大丈夫です。きっと、バンジークス様もそれをお望みですから」
「え?」
「龍ノ介さんも薄々気づいていると思います。バンジークス様は、確かに《日本人》がお嫌いですが・・・・それでも龍ノ介さんの実力はきちんと認めておられると」
ここ数回の裁判で、マヤはそれをひしひしと感じていた。バンジークス卿の憎しみの底には、彼自身でさえよく理解できていない感情がある。それは、“日本人”と“英国人”という括りには当てはまらないものだ。
「な。何だか、そうはっきり言われると照れてしまいますね・・・・」
「それに!例え私がバンジークス様に怒られたとしても、それはもう“慣れっこ”ですので!」
「・・・・そこは、自信満々に言う部分じゃないと思います」
「あと、これは寿沙都さんとの約束でもありますから」
「!寿沙都さんとの・・・・?」
「はい。『成歩堂さまのことをよろしく頼みます』と。寿沙都さん、自分が帰国したら龍ノ介さんがしょぼくれることを何となく分かっていたようですよ」
成歩堂は、先程受け取ったファイルに視線を落とす。数々の事件の記録がまとめられているせいかズシリと重いが、それが今は寿沙都からの叱咤激励のようにも思えた。
「このまま、龍ノ介さんの元気がないままだと。私が寿沙都さんから怒られてしまいます」
「そう、だったんですか・・・・」
成歩堂の目頭が少しだけ熱くなる。ハッとして自分の両頬をパン!と叩いた成歩堂は、今朝よりもずっと爽やかな笑顔で頷いた。
「わかりました。ぼくも、今のうちにもっと勉強をして寿沙都さんにがっかりされないようにしたいと思います」
「そうかい、ミスター・ナルホドー!それなら、今ちょうどいい事件があってね。キミに手伝いを頼みたいんだが・・・・」
「・・・・ホームズさん。一応聞いておきますけど、一体何の事件ですか?」
「うん?とあるマダムのインコが逃げてしまったのさ。なんと、見つけたら100ポンドもくれるらしいのだよ!」
「(相変わらず、金には弱い名探偵だな・・・・)」
「・・・・ホームズさんって、そんなにお金が無いんですか?」哀れみの目を向けるマヤに、ホームズは「ボクの推理の価値を、世間がまだ分かっていないだけなのです」と答えるが、「それ。私が知る限り5年前も同じこと言ってましたよね?いつ価値が上がるんですか」というマヤの鋭い一言に、ホームズは部屋の隅でのの字を書き始めてしまう。流石の成歩堂も哀れみの情を抱くが、いつものことなのであと5分もすればすっかり元通りになるだろうと思い、アイリスの運んできてくれた料理に舌つづみを打つことにしたのだった。