the great ace attorney

オルガンの独唱

重厚感のある検事局の廊下に重く固い足音が静かに響く。己の執務室にやってきたバンジークス卿は、部屋のなかに入るなり思わず顔を顰めた。

「あ。バンジークス様!こ、これは。その!違うのです!決して暇だったから遊んでいたとか!そういうわけではっ!」

バンジークス卿の執務室には、常に現場の状況を考えながら再現できるようにミニチュアが置かれている。
そのミニチュアを作っているのは、バンジークス卿とマヤ自身である。マヤに至っては、元々器用で精巧なミニチュアを作るバンジークス卿の真似事で始めたのがキッカケだった。
今となっては懐かしい記憶だが、最初はてんで技術のなかった彼女も、8年経てばそれなりに見栄えのいい仕上がりのものを作るようになった。それでも、バンジークス卿の作るミニチュアの質には到底及ばないところが悲しいところではあるが。
そんななか、彼女はバンジークス卿が部屋に入ってくるなり、こそこそと作っていた何かを慌てて背中に隠したのだ。

「・・・・現在、担当する予定の事件はないはずだが」
「ぞ、存じております!ただ、最近新聞にも多く取り上げられている《倫敦万博》に浮き足立っているわけでは!・・・・・・・・あ」
「分かりやすい答えを教えてくれたことに礼を言おう」

彼女がどれだけ背中に隠しても、マヤよりも背丈の高いバンジークス卿からはある程度見えてしまう。現在、倫敦の街でも建造中の《水晶塔クリスタルタワー》・・・・そのミニチュアが、マヤの手にはしっかりと握られていた。
産業革命が起きてからというもの、倫敦の街は働く市民で溢れかえっているのだが、このところは輪をかけて街中がざわついている。その理由が、今度行われる《倫敦万博》である。大英帝国の技術の粋をもって、全世界から訪れる人々にお披露目するイベント、といえばいいだろうか。
その《倫敦万博》にて、まさに倫敦の目玉ともいえる建造物が《水晶塔クリスタルタワー》だ。倫敦の紳士はその荘厳さに心を打たれ、倫敦の淑女はその煌びやかさに心奪われるという。
他にも織物、敷物、彫刻などといった美術品から海底ケーブルのサンプルや機関車の展示など、これからの時代を牽引するであろう科学技術もふんだんにお目にかかることができるとか。そのせいなのか、流石のマヤも最近はそわそわと落ち着かない様子で窓の外を見るばかりである。

「ううう・・・・バンジークス様も。偶には、お仕事を休まれたらよいのです」
「・・・・私は休む気などないが。そなたの休暇は、私から上の方に伝えておくこともできる。《倫敦万博》に行きたいのならば、安心して行ってくるといい」
「そういうことじゃありませんっ!」

バン!と珍しくミニチュアの台を叩いたマヤにバンジークス卿は驚いたが、叩いた手のひらが思ったより痛かったのか、ぶらぶらと右手を振る姿には思わず呆れてしまった。

「わ。私は・・・・!私はっ!」
「・・・・・・・・?何だろうか」
「私はっ、バンジークス様と万博を見に行きたいのです!」

マヤの恥を忍んで振り絞った大きな声が執務室に響く。バンジークス卿はその言葉を聞いて数刻考え込むと、胸に手を当てて改まったように頭を下げた。

「ミス・マヤ」
「は、はいっ」
「・・・・貴女からのお誘い、非常に嬉しい限りだ。だが、私はやはり行くことなどできぬ」
「それは・・・・バンジークス様が《死神》・・・・だからでしょうか」
「市民にいらぬ不安を抱かせてはならない。私が表に出るだけで、何か良からぬことがあるに違いないと勘繰る者は多いだろう」

“神”の名を背負うということは、どういうことなのか、マヤも分からないわけではない。何せ、彼女は今から9年前にその“神”に縋りついたことがあるのだから。だが、バンジークス卿の助士として彼の傍にいる時間が長くなればなるほど、マヤは一つの真実を実感せずにはいられない。
バロック・バンジークスは、ただ一人の尊い人間だ。その実感である。
マヤは悲しそうに俯いた。バンジークス卿は《死神》などではない。それが分かっているのに、自分にはどうにもできないもどかしさが彼女の胸を苛んでいた。

「ならば。変装などどうでしょうか・・・・!ホームズさんは、時に髭をつけ、時に髪色さえも変えて、赤の他人になりきると仰っていました!まさしく赤い髪色でっ!」
「・・・・私に、あの“名物”探偵と同じことを望むのはやめていただきたい」
「でも。バンジークス様は、もっとお日様に当たるべきかと思います。このままでは、太陽の下に出たとき・・・・灰になってしまうかもしれませんよ!」
「・・・・それは、《死神》ではなく《吸血鬼ドラキュラ》のことだが」
「そういえば。昔、バンジークス様の飲んでいるものが葡萄酒ではなく被告人の血だと思っていた時期が私にもありました」
「・・・・・・・・」

彼女のなかでの自分の印象は、一体どれほどまでに捻じ曲げられているのだろうか。そんな不安を覚えながら、もはや何も言えなくなってしまったバンジークス卿に、マヤは残念そうに項垂れる。

「ううう・・・・何か事件でも起これば、バンジークス様と万博に行けるのに・・・・」
「・・・・不吉なことを言うな。今度の万博には、私の友人も来るのだ」
「えっ。バンジークス様の!ご友人!」

マヤは途端に目を輝かせた。今まで、身の上話など一切したことのなかったバンジークス卿の言う友人とやらに、とても心惹かれたのだ。それこそ、《水晶塔クリスタルタワー》などどうでもよくなってしまうぐらいには。

「そう意気込むものでもない。私が大学に通っていた頃、不思議と気の合った・・・・普通の友人だ」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・なぜそこで黙り込む」
「いえ。バンジークス様も大学に通っていた頃があるのだと考えると、なぜか涙が出てきそうで・・・・」
「それは、一体どういう意味だろうか?」

絶対零度の視線で睨みつけるバンジークス卿に恐れ戦慄いていると、突然誰かが執務室の扉をノックした。バンジークス卿が「何用だ」と言うと、執務室の扉が開いて見慣れない女性が入ってきた。

「お取り込み中のところ、申し訳ありません。私・・・・コネット・ローザイクと申します。皆さまは、マダム・ローザイクと呼んでおりますわ」

その女性は、大きな黒い帽子に黒いローブを纏った、何とも不思議な雰囲気の女性だった。柔和な笑みを浮かべて挨拶をするマダムに、マヤは、あっと声を上げる。

「ローザイク・・・・ま、まさか・・・・!」

何かを思い出したマヤは、自分の机から一枚の新聞を持ってくる。そこには、“ローザイクの館”と呼ばれる展示館について、大きく広告が載っていた。

「もしかして。バンジークス様の蝋人形を作りたい、と・・・・そういうことですね!」
「・・・・私の蝋人形、だと?」
「その通りでございます。察しが良くて助かりますわ」

「やっぱり!」一人で浮き足立っているマヤを余所に、バンジークス卿の顔は未だ晴れない。目の前にいる女性は、大きなローブに大きな帽子を被っており、まるで一昔前に大英帝国を騒がせた“魔女”のような風貌である。
バンジークス卿とて、ローザイク家の話を聞いたことがないわけではない。かつて、断頭台で処刑された死刑囚の頭から型を取って作られたと言われている蝋人形は、今までのどの蝋細工よりも、まるで生きているかのように気迫に満ちた鬼作だったと言われている。その狂気にも似た蝋細工を代々作り続け、“ローザイクの館”に展示しているのが由緒正しきローザイク家の人間である。
だが、だからといって自分の蝋人形をつくることを許可するつもりも、バンジークス卿にはなかった。

「ローザイク家の掟により、ホンモノを追求するためには、どんな手も尽くす・・・・バンジークス卿には、是非その協力をしていただきたいのです」
「バンジークス様の蝋人形・・・・何て!素晴らしいことなんでしょう!」
「マヤよ・・・・そなたは何か一つ、勘違いしているようだ」
「勘違いだなんて!バンジークス様をマダム・ローザイクの館に飾りたいということは、つまりバンジークス様の素晴らしさを倫敦市民に広めたいと!そういうことですよね、マダム!」
「ええ、勿論です。《死神》としての、その鬼神のごとき重厚さ・・・・是非、当館に展示したいものですわ」
「お願いしましょう、バンジークス様!こんな機会、滅多にないですよ!」
「断る」
「え」
「蝋人形など・・・・馬鹿馬鹿しい」

「バンジークス様!」マヤが引き止めても、バンジークス卿は聞く耳を持たず、自分の椅子に座ってしまう。だが、かのローザイク家の子孫は、これしきで諦めるような性分では無かった。

「蝋人形を飾ることの意味を、あなた方は考えたことがおありでしょうか?」

「どういうことですか?」マヤが尋ねると、マダム・ローザイクは、執務室の中央に飾ってあるミニチュアに目をとめた。

「バンジークス卿・・・・貴方が《死神》として名を馳せてから、倫敦の犯罪は激減したと聞きました。蝋人形を飾ることは、いつまでも色褪せぬ恐怖や教訓を、新鮮な状態で観衆に味わわせるため・・・・これは、帝都倫敦のためになるとも存じます」
「つまり。バンジークス様の蝋人形を飾ることで、犯罪の抑制に繋がる・・・・と。そういうことですか?」
「ええ、その通りですわ」

「このミニチュア、とても良くできていますね」不意に褒められたマヤは、照れくさそうに笑う。すると、バンジークス卿が不意に立ち上がった。

「最近の蝋細工職人は、舌もよく回るようだ。・・・・いいだろう。そなたの舌に免じて、私の蝋人形を作ることを許可する」
「ありがとうございます。・・・・あと、そちらの方の蝋人形も、是非お作りしたいのですが」
「わ。私ですか?私の蝋人形なんか、バンジークス様と比べて見劣りすると思いますが・・・・」

遠巻きに遠慮するマヤに構わず、マダムはうっそりと微笑む。

「ローザイク家の館は、常に社会を映す鏡のようなもの。・・・・かの“呪われた”ポーロック家のご子女の蝋人形は、きっと大衆が求めているものだと思いますわ」
「!」

マヤは思わず息を呑む。言葉に詰まり固まってしまった彼女の前に、バンジークス卿が牽制するように立ちはだかった。

「生憎だが。我が助士の蝋人形の作成を許可した覚えはない。私は、あくまで“倫敦の犯罪抑圧”に対して賛成をしただけだ。大衆のいらぬ“好奇心”に賛成をした覚えなど、どこにもない」
「・・・・・・確かに、その通りです。今回は残念ですが・・・・そちらの方の蝋人形は諦めるとしましょう」

潔く身を引いたマダムに、マヤは胸を撫でおろす。
だが、久しぶりに聞いた単語に、未だ緊張の鼓動は鳴り止まない。マヤの頭の中では、一つの蓄音機が古ぼけた音で懐かしい音楽を奏で始めていた。かつて、J.S.バッハが作曲した《トッカータとフーガ ニ短調BWV565》・・・・その曲の冒頭は、あまりにも有名なため今更特筆すべきことはない。ただ、記憶の中に連綿と続く譜面は今もまだ、彼女の中では色褪せていないのだった。