大法廷を後にしたマヤとバンジークス卿は、霧をかき分け歩き、検事局へと帰るために馬車に乗り込もうとする。すると、霧の中に誰かが立っているのがぼんやりと見えた。
「・・・・あ。従者さん、お迎えにきてくれたんですか?」
「・・・・・・・・」
相変わらず口数の少ない従者だが、彼は深々と一礼すると馬車の扉を開く。馬車の中はゆったりとしたソファが向かい合う4人乗りのものとなっており、バンジークス卿がマヤを先に座らせ、その後でバンジークス卿と従者も乗り込んだ。
御者に「検事局まで」とマヤが伝えると、馬の嘶きが一声聞こえてから馬車がゆっくりと動き出す。馬車の中は、存外に静かなものだった。
「・・・・従者さんにも。一応報告しておきましょうか」
マヤの言葉を否定するものは、その場に誰もいない。それを肯定の証と捉えた彼女は、今日行われた裁判のあらましを一通り従者に伝えるのだった。
今日の裁判は、弁護側の勝訴だったということ。そして、やはりバンジークス卿らの予想通り陪審員が買収されていたこと。
「エライダ・メニンゲンは・・・・無罪となりました」
悔しそうにこぼすマヤは、両の拳を膝の上で握りしめた。久しぶりに法廷て味わう屈辱と無念に、バンジークス卿も目を閉じたきりである。
「・・・・やはり。世の中には、通じないのでしょうか。“信義誠実”など・・・・」
「・・・・“信義誠実”・・・・?」
それまで黙って話を聞いていた従者の目が、そのとき確かに揺らいだ。マヤは「ああ、従者さんは知りませんか?」と力なく微笑むが、その隣でバンジークス卿もまた従者の様子を窺うようにじっと睨みつけている。
「ニッポンの言葉なんです。・・・・いや、詳しくは・・・・父上の友人であるニッポン人が、来たる未来のために必要だと教えてくれた言葉、なんですよ」
「・・・・・・・・・・・・っ」
「・・・・従者さん?大丈夫ですか、従者さん」
従者に、突如として酷い頭痛が襲いかかる。まるで、馬車の外にかかっている霧と同じぐらい色濃く不明瞭だった頭の中のナニカが、少しずつ晴れていくようだ。
仮面を押さえて小さな声で呻く従者に、マヤは慌てて彼の肩に手を置く。そのとき、馬車が大きく揺れ、馬たちの悲鳴にも似た嘶きが空を
「何事だ!」
バンジークス卿が御者に尋ねる。だが、返事は帰ってこない。突然のことに驚いたマヤは「バンジークス様。これは、一体・・・・」と不安げに呟くが、バンジークス卿は自分の腰に下げていた
外は深い霧に覆われているせいで、一寸先すら見えにくい状況だ。だが、彼らは確かに、自分たちを取り囲む“野犬”の群れの気配をじっとりと感じ取っていた。
「・・・・なるほど。そういうこと、か」
事態を把握したバンジークス卿は、ゆっくりと
「《死神》を恐れた被告人の回し者・・・・というところでしょうか」
「マヤよ。・・・・そなた、剣を取るのはいつぶりだ」
「おそらく。5年ぶり、かと存じます」
「そうか。・・・・ところで、あの者は?」
「従者さんなら、馬車の中で待機させています。・・・・少し調子が悪そうだったのは、馬車に酔ってしまったからでしょうか」
「・・・・・・・・分からぬ」
バンジークス卿が見る限りは、決して馬車の揺れで酔ったなどということではない。彼は、明らかにマヤの言葉に反応していたのだ。それが意味するところは未だ分からないが、とりあえず今もっとも気にするべきは、この霧の中でおそらく待ち構えているであろう野盗の襲撃だろう。
「まあいい。・・・・精々、足を引っ張らぬことだ」
「大丈夫です!いざというときのために・・・・今回は“必殺技”をこしらえてありますから!」
何だか妙に気になる響きである。相変わらずどこかとぼけた調子の助士だが、だからこそバンジークス卿は少しだけ口元に笑みを浮かべた。精々馬車ごと爆発させなければ何でもいいと思うが、彼女のことを思うと馬車ごと爆発もさせてしまいそうだから困りものである。この期に及んで、胸の中に残る一抹の不安が敵襲ではなく助士のやらかしとは、何とも感慨深い。
すると、徐々に霧の中から複数の人影がその姿を現し始める。隣で同じく《
「・・・・《死神》・・・・」
ボソリと呟いた一人の野盗の声を皮切りに抗争の火蓋が切って落とされた。濃い霧のなかで戦いづらいのは、敵とて同じことである。なるべく被害を最小限に抑えるため、峰打ちと霧による目眩しを使いながら二人は野盗たちを薙ぎ払っていく。
《死神》であるバンジークス卿とその助士であるマヤは、昔からどんな手を使ってでも生き延びようとする悪人から命を狙われることが少なくない。そのため、自分の身は自分で守れるよう、一人でも戦える力を身につけておく必要があったのだ。襲撃されるのは実に5年ぶりのことではあるが、それでも彼らの動きが劣る様子は一切ない。
そんな折、マヤの視界の隅で、一人の野盗が馬車の中に入っていくのが見えた。
「(まずい!あの中には従者さんが・・・・!)」
マヤは慌てて馬車に駆け寄った。だが、意外にも中からは野盗の悲鳴が聞こえてくる。そして次には、馬車の中から転がり出てきた野盗の男に、従者が剣を突きつけていたのだ。
「(何だか。ますますフクザツな気持ち・・・・)」
部下や後輩とは、普通先輩が面倒を見てあげるものだと思っていたマヤは、自分よりも腕の立つ従者に辟易するばかりである。従者は彼女の方をチラと見やると、その後も二人に加勢すると言わんばかりに野盗たちへと剣を携えて向かっていく。そのとき、マヤは従者の様子を見ていてはたと気づいた。
「(あの剣さばき・・・・どこかで・・・・)」
そのとき、バンジークス卿が「マヤ!」と呼んだ。どうやら、彼女の背後に野盗の男が一人迫っているようだ。
「とおおおおぉぉぉッ!」
「ぎゃああああッ!!」
何とも格好のつかない声と悲鳴だが、その声に反して男はマヤによって地面にぐりんと放り投げられる。思わず拍子抜けしてしまうバンジークス卿に、マヤはどこか誇らしげな顔でこう言った。
「寿沙都さんから教えてもらったんです。・・・・秘技“寿沙都投げ”を」
どうやら、日本の“柔術”という技らしい。寿沙都がまだ日本に帰る前、彼女と談笑しているついでで教えてもらったようだ。これが、マヤの言っていた“必殺技”の全貌である。
それからバンジークス卿らが野盗を制圧するまで、そう時間はかからなかった。通報を受けて駆けつけたグレグソン刑事が「また派手にやりましたな」と警官に連行される野盗たちを眺めながら呟く。
その一方で、マヤは従者と向かい合って話をしていた。幸いなことに、お互い怪我はどこにもないようだ。
「・・・・・・・・あの、従者さん。一つ、よろしいですか?」
「・・・・・・・・」
「・・・・もし。私の勘違いだったら申し訳ないんですが・・・・従者さんは、記憶を失われる前。もしかしたら・・・・日本にいたんじゃないんですか?」
「・・・・日本・・・・?」
「(反応した・・・・!)」
バンジークス卿から話を聞くに。彼は記憶を失った当初、香港の港でさ迷っていたらしい。そこから自力で英国へとやってきて、今に至るとか。
記憶を失った彼の何がそこまでさせるのかは分からない。だが、マヤのなかでは一つの可能性がずっと心に引っかかっていた。それは、成歩堂たちの乗ってきた船もまた香港に寄港していた、ということだ。
そして先程の剣さばきを見た時、マヤは懐かしい気持ちを感じた。小さな小さな可能性が胸の中に根ざしてから、彼女のなかでむくむくと大きくなっていく。そして、堪らず一言呟いた。
「・・・・一真、さん・・・・?」
仮面の奥の瞳が見開かれた。その様子にマヤは泣きたい気持ちを抑えながら、そっと従者の仮面に触れる。もしかしたら、この仮面の下にある顔は・・・・自分がずっと待ち望んでいた“彼”なのかもしれない、と思いながら。
胸がいっぱいだった。とにかく、手を伸ばして、その仮面を取りたい衝動に駆られた。
すると、従者も仮面に触れるマヤの手に自分の手を重ねると、真っ直ぐに彼女を見つめる。お互いに視線を交わしながら、マヤはそっと仮面を外そうとした。
「・・・・何をしている」
「きゃあっ!」
だが、突然背後から声を掛けられたことによって、マヤはその手を引っ込めてしまったのだ。
「ば。バンジークス様!いらっしゃるなら、いると言ってください・・・・!」
「・・・・むしろ。私が突然消える方がおかしいと思うのだが」
「・・・・心臓が止まるかと思いました」
気がつけば、先程まで相対していた従者はとっくにマヤに背を向けてしまっていた。これでは仮面の下を確認したくても、しようがない。
バンジークス卿はマヤと仮面の男を交互に見ると、小さく低い声で呟いた。
「・・・・男女の密会ならば。私の目に入らぬところでやることだ」
「そ。そんな!違います!誤解です!」
だが、マヤはほんの少しだけ安心していた。従者の仮面の下を覗く時、彼女の胸は期待と恐れではち切れそうだったからだ。彼女の脳裏を過ぎった人物が、もし目の前にいたとしたら、今頃自分はどうなっていたかしれない。そして何より・・・・もし、あの従者が“彼”だとしたら、マヤに友の訃報を知らせてくれたあの二人は一体どう思うのだろうか。
「(もしかしたら。私は、まだ知らない方が良いのかもしれない・・・・)」
そう決めつけて、マヤはさっさと歩いていってしまうバンジークス卿の背中に着いていく。一瞬だけ振り返ると、仮面の男もまた一瞬だけこちらを見つめていた。