ニルヴァーナのしおり
「・・・・私に言われても、困る」
明日の裁判の準備を終えた後、マヤは『少し用がある』と言ったバンジークス卿に言われるがまま、共に留置所へと訪れていた。相も変わらず陰気な雰囲気の石牢の一つに目を凝らすと、意外にも陽気そうなもじゃもじゃの金髪が見える。
「・・・・ベンジャミン。私だ」
「!バロック・・・・キミなのか?」
「ドビンボー博士。初めまして、マヤと申します。お見知り置きを」
「・・・・お」
バンジークス卿の旧友であり、今回の事件の被疑者であるベンジャミン・ドビンボーことドビンボー博士は、バンジークス卿の姿を見るなり人懐こい笑顔で寄ってくる。だが、マヤの顔を見た途端に何やら真剣な表情で固まってしまった。そのあと少し拗ねた様子で掛けている眼鏡をクイと上げる。
「・・・・バロック。ワタシは、今ほどキミを恨んだことはないよ」
「何がだ」
「ボクに何も言わないまま、こんなウツクしい女性を連れて・・・・久しぶりに友人に会えたと思ったら。今日は、何たる厄日だ!」
「・・・・あえて言う必要はないと思っていたが。この者は私の“助士”だ」
「え。お。ん?」
何かを考え込むドビンボー博士は、ああでもないこうでもないと暫くブツブツ呟くと、突然牢屋越しに満面の笑みでマヤの手をぎゅっと握った。
「ワタシはベンジャミン・ドビンボーです!以降お見知り置きを!」
「は。はあ・・・・」
「アナタは、科学はお好きですか!ワタシと今度、ぜひ科学について語りながらお茶でも・・・・!」
「か。科学については多少興味がありますけど・・・・そ、その。お茶、などストレートに誘われたことが、ないもので・・・・」
流石のマヤもしどろもどろの様子。だが、ドビンボー博士は眼鏡をキラリと輝かせると、そのまま白衣のポケットからノートを取り出して一心不乱に何かを書きなぐりだした。その様子はさながら狂気である。
「お。おおおおッ!!興味とは、どの辺りでしょうか!量子力学ですか!それとも特殊相対性理論でしょうか!はたまた、最近流行りの有機化学などッ!!」
「・・・・そのぐらいにしておけ、ベンジャミン」
マヤがチラチラと困ったように目配せをすると、バンジークス卿は呆れ返りながら二人の手を離す。ドビンボー博士は「まるでアセトンの構造式のような方だ・・・・」などと爪をかみながら一人で延々と呟いているが、それに対してウットリと「そのようなことを言われたのは、初めてです」と僅かに頬を染めるマヤもマヤだった。どうやら科学の知見のある者同士でしか通じ得ない褒め言葉があるらしいが、バンジークス卿からしてみれば全くもって理解不能である。旧友と助士が妙なところで似ていると思ったことはあるが、まさかこれが“Birds of a feather flock together(類は友を呼ぶ).”なのだろうか。しかし、だとするとバンジークス卿もその“類”に入ってしまうことになる。
「ところで・・・・ベンジャミンよ。話はすでに聞いている」
「バロック・・・・キミには。いつも迷惑をかけるね」
時として、追求してはならない事実も世の中にはごまんとあることだ。さっさと明日の裁判に話題を変えたバンジークス卿は、どこか遠い目で留置所で先程から待機している警備員でも睨むことにする。だが、そんな状況でも旧友と交わす言葉は、とうに死んだと思っていた自分のナニカに懐かしい風を吹き込むようである。
一方、マヤも明日の裁判について話す二人の言葉を静かに聞きながら、今までのバンジークス卿には無かった“柔らかさ”を感じていた。彼の発する言葉の一つ一つが、まるで彼女の知らないバンジークス卿の大学時代を思わせるようである。
「(バンジークス様も。またこんな風に話せるときがきたら・・・・)」
だが、果たして《死神》の呪いを払拭できるときはやってくるのか。今のままでは、きっと未来永劫バンジークス卿は《死神》の名を背負うことになるだろう。例えマヤがどれだけその重荷を肩代わりしようとも、いつかは《死神》の名でバンジークス卿が破滅する未来がやってくるとしか思えない。
「(それなら。私に今できることは・・・・)」
マヤは自分の胸元にある金細工のブローチに手を当てる。すると、そのときちょうどバンジークス卿とドビンボー博士の話も幕が閉じたようである。
「では。我々はこのぐらいで失礼しよう」
「ドビンボー博士。失礼しました」
「いえいえ。あ、そうだ。ミス・マヤ」
「はい?」
「バロックは、とても優しいヤツです。大学以来会ってなかったワタシが言うのもおかしなハナシですが・・・・どうか、カレをよろしくお願いします」
「・・・・はい!モチロンです!」
「・・・・余計なことを・・・・」
本来、よろしく頼まれるのはドビンボー博士のはずだ。だが、そのことに気づいているのか気づいていないのか、相変わらず自分のことも省みず友人のことを気にかける彼の姿に、バンジークス卿は昔を懐かしまずにはいられない。あの頃は、確かに全てが輝いていたはずだったのだ。
マヤが頭を下げると、ドビンボー博士も屈託のない笑顔で手を振った。留置所を出た先で、とっぷりと日の沈んだ空にマヤは目を細めて夜風を受ける。
「ドビンボー博士。とてもお優しい方でしたね」
「・・・・・・・・彼は、変わっていないようだ」
「お言葉ですが。バンジークス様もお優しい方ですよ」
「・・・・・・・・」
自分を睨むバンジークス卿の視線にも、マヤは臆することなくクスクスと笑う。それが彼の照れ隠しであることを、この8年の間で分かっていたのだ。
「ただ。今日のバンジークス様は、いつもよりほんの少しだけ・・・・楽しそうに見えました」
「くだらぬことを。私は、私の仕事を全うするだけだ」
「ふふ。・・・・私も、やっと“覚悟”ができました。バンジークス様の下を離れるのは、とても寂しいですが・・・・バンジークス様や倫敦の未来のためになるのならば。私も《科学式捜査班》で頑張っていきたいと思います」
馬車を呼ぶ手前で、バンジークス卿がふと立ち止まった。マヤが不思議そうに見上げると、バンジークス卿はおもむろにマヤの手を取る。いつもより悲痛な面持ちで眉根に皺を寄せるバンジークス卿の姿に、マヤは思わず自分までつられて悲しげな顔になる。
「ミス・マヤ」
「・・・・何でしょうか」
「そなたは、優秀な助士だ。その経験をもってすれば、大いに世の中の役に立つだろう。そう思ったから、私はそなたの異動に異議は唱えなかった」
「バンジークス様・・・・」
「・・・・所詮、検事と助士だ。いつまでも一緒にはいられぬ。だが、そなたが望むならば、」
言いかけたバンジークス卿の手を、マヤはそっと離して首を横に振った。
「それ以上は、いけません」
「・・・・・・・・」
「私は“覚悟”を決めたのです。それを、どうか引き止めないでください」
「マヤ、」
「この裁判が、きっと最後の裁判になるかと思います。ドビンボー博士を信じるバンジークス様の気持ち・・・・私は、十分に存じているつもりです」
悲しげに笑うマヤは、とても苦しそうだった。バンジークス卿はそんな彼女の顔に自分の胸が鈍く痛むのを感じる。
今この時、彼女の華奢な身体を抱きしめて『行くな』と一言言えたら、どんなに楽なことだろうか。だが、それは彼女のためになることではない。《死神》の傍から離れさせることができれば、それはマヤの幸せにも繋がることだ。一時は共に覚悟を決めることも考えたが、やはりその重荷を関係ない人間に・・・・ましてや彼女に背負わせることは、バンジークス卿にはどうしてもできなかった。
マヤ・ポーロックの幸せに、《死神》はあまりにも不必要な存在である。
バンジークス卿は少しだけ目を閉じて逡巡すると、やってきた馬車を見て「ミス・マヤ。手を」ともう一度差し伸べる。
帰りの馬車は、二人とも一言も発することなく、検事局に着くまでにとても長い時間がかかったような気がした。それでも、倫敦の街はいつもと変わらぬ活気に溢れているのだ。明日も明後日も、そしてこの先、倫敦というこれほどに美しい国が滅ぼうとも。生きている限り、人には生きねばならない道理があるに違いない。それが酷く憎く感じるのは、マヤもバンジークス卿も同じ気持ちだった。