記憶の中の鍵
だが、《科学式捜査班》で仕事を終え、急いで裁判の傍聴席に駆けつけたマヤは、裁判が終わった後も呆然とした顔でいつまでも動けずにいた。周りに座っていた傍聴人たちが帰っていくなかで、まるで彼女の時間だけが全て止まってしまったかのようだ。
真実とは、ときとして非情なものである。今回の裁判で新たに判明した真犯人と、その事件を引き起こした元凶である《プロフェッサー》の正体。なぜ、バンジークス卿が日本人を憎んでいるのか、マヤは今日初めてそれら全てを知ったのだ。
そして、傍聴席の周りに誰もいなくなってからマヤはようやく我に返る。そして法廷を飛び出すと、今から拘置所へ向かうところだった護送馬車の前に立ちはだかって馬車を無理やり止めた。驚いた馬が跳ね上がり、法廷係官である御者が声を荒らげる。
「ポーロック法務助士!何のマネですかっ!」
「・・・・少しだけ。少しだけ、コートニーさんとお話させてください・・・・!」
「ですが。そのようなコトは・・・・!」
「お願いしますッ!処罰なら、何でも受けます!」
マヤの真剣な眼差しに、御者もそれ以上は何も言えなかった。「・・・・少しだけですよ」と言うと、馬車の扉を開く。そのなかでは、いつもと変わらぬ顔で窓の外を睨みつけているドクター・シスの姿があった。
「コートニーさん・・・・」
息を切らすマヤには目もくれず、ドクター・シスは視線を合わさないまま「何でしょうか」とつっけんどんに答える。どうやら、少なくともマヤと和気あいあい言葉を交わす気は全くないようだ。案の定、車内には重い沈黙が走り、マヤは両手を握りしめると「・・・・どうして」と絞り出すように呟く。
「未だに、信じられません。あなたが・・・・エライダ・メニンゲンを・・・・」
「・・・・そうかしら。何もおかしいことなんて、ないと思いますが」
「そんなことありませんッ!私の知るコートニーさんは・・・・!」
「“信義誠実”だった、と?・・・・貴女も、この数年で変わってしまったのね」
「・・・・・・・・!」
今回の裁判で、エライダ・メニンゲンを殺害した犯人・・・・それこそが、コートニー・シスだったのだ。
夢でも見ているのかと、マヤも自分の目を疑わずにはいられなかった。いっそ、これが悪い夢だったらどれだけ良かっただろうか。だが、これが真実であり現実だった。マヤの目の前に佇むドクター・シスの手元で光る冷たい鉄の手錠が、何よりもの証拠である。
マヤにとって、ドクター・シスは彼女の尊敬する数少ない人物の一人だったことは言うまでもない。マヤの父親が死んだ後も、ドクター・シスは“監察医見習い”としてマヤの面倒を良く見てくれていた。女性という立場ながらに、この倫敦の未来を担う立場として・・・・本当に、情熱を注いでいる人物だとマヤは思っていたのだ。だからこそ、彼女が殺人を犯すなど考えられるはずもなかった。
「私は、自分の“正義”のままに実行しただけ。昔から・・・・私の思いは、たった一つなのよ。あの《プロフェッサー》の遺体解剖記録をつけた・・・・あのときから」
「・・・・“正義”・・・・」
「マヤ。貴女なら、よく分かっていると思っていたわ。世の中には、綺麗事だけではどうにもできないことがある。・・・・9年前の事件で、それを身に染みて思い知ったはず」
「・・・・それでも。私は・・・・父上の信じてきた“信義誠実”を、信じたいんです」
若くして父親を失ったマヤにとって、父親が信じてきた“信義誠実”こそが彼女の生きる道であり、唯一縋りつくことのできるものだった。だが、ドクター・シスは、そんなマヤの考えを真っ向から否定する。
「・・・・そうですね。貴女の父親は日本人から教わった“信義誠実”を信じ続け・・・・そして、裏切られたわ」
「!」
言葉が出なかった。
今日の裁判が終わったあと、何の因果か《プロフェッサー》の蝋人形を見た従者がついに記憶を取り戻した。マヤの考えていた通り、従者の男はやはり亜双義一真本人であり、さらにその亜双義によって驚くべき真実が明らかにされたのだ。
10年前に起きた凶悪事件である《プロフェッサー》。謎に包まれていた仮面の犯人の正体こそが、亜双義一真の父親である亜双義玄真なのだと。
「貴女の父親は、昔から変わっている人だった。でも、日本に行ってから・・・・より一層、何かに取り憑かれたように変わってしまったわ」
「・・・・それは、きっと。そこで、父の友人となる亜双義玄真様と出会ったから・・・・」
「一時期は。私も、“信義誠実”などという言葉を信じていたときがありました。・・・・若くて・・・・何もわからない、無知な自分だったから」
そう述べるドクター・シスの表情は苦い。
マヤの父親は、昔から亜双義玄真と親しかった。マヤの父親が仕事の都合で日本に渡日した際、若かりし頃の亜双義玄真と出会って意気投合したようだ。その後の亜双義玄真らの倫敦留学を手助けしたのも、マヤの父親だという話である。
「そして。その頃と同じくして、あの人は日本人の女性と結婚した。両親や親族の反対を押し切って・・・・駆け落ちに近い結婚だったわ」
「・・・・それが。私の母、なんですね・・・・」
顔も覚えていないマヤの母親。唯一残された一枚の写真も、父親の書斎から発見した当時は、インクで塗りつぶされて顔も分からない状態だった。
マヤの父親の家系であるポーロック家は、昔から倫敦の政界の重鎮として代々続いている有名な貴族の家系である。そのため、《純血思想》にこだわる部分も強く、日本人との結婚は決して認められなかったそうだ。
今でも、マヤは親族と顔を合わせることはほとんどない。日本人との血が混じった人間は、ポーロック家の人間ではないとはるか昔に言われたことをキッカケに、マヤは幼い頃から屋敷に篭っていることが多かった。
昔のことを思い出したマヤは、胸元のブローチに縋るように手を当てる。そんな折、ドクター・シスがこんなことを口走った。
「・・・・一つだけ。貴女に謝らなければいけないことがあります」
「え・・・・・・・・」
「・・・・まだ赤ん坊だった貴女が、母親と一緒に写っている写真。それをインクで塗りつぶしたのは・・・・この私です」
「!コートニーさんが・・・・?」
ドクター・シスは自分の両腕に爪を立てながら抱きしめる。口端を固く引き結んだその表情からは、暗い憎しみと後悔の念が見て取れた。
「貴女には・・・・日本人としての思い出なんていらないと思った。貴女の父親を裏切った男と、見捨てた女・・・・その二人の血を引く、日本人なんて」
「・・・・“見捨てた女”・・・・?」
「・・・・貴女の母親は。貴女を産んでから、ポーロック家と離縁することを決めていたの。今はどうしているのか、知るヨシもありませんが・・・・貴女の父親は、当時ひどくショックを受けていたわ」
「(・・・・そんなハナシ。父上は、一言も話してくれなかった・・・・)」
「・・・・でも。貴女を見て、私は・・・・」ふと、初めてドクター・シスが言葉を濁した。彼女の冷たい瞳の奥に温かいものが流れるのを、マヤは決して見逃さなかった。だが、それも直にいつもと同じ冷たい色に染まる。
「・・・・それに。貴女の父親だって、最後には私の信頼を裏切ったわ」
「!え・・・・そ。それはどういう」
「“信義誠実”?馬鹿馬鹿しい・・・・そんなもの、最初からなかった。だから、貴女の父親は・・・・殺されてしまったのよ」
「(父上が・・・・コートニーさんを裏切った・・・・?)」
何もかもが分からないことだらけだ。9年前の事件と、10年前の事件。その因果を解き明かすことで、少しでも《死神》について、そして父親の死の真相について何か分かるかもしれないと思っていたが、彼女の予想に反して真実はますます迷宮の奥深くに潜り込んでいくばかりである。
すると、ずっと待ちぼうけをくらっていた法廷係官が「ポーロック法務助士。そろそろ・・・・」と横槍を入れる。どうやら、流石にこれ以上の引き伸ばしはできないらしい。
ドクター・シスは最後にこう言った。
「マヤ。あの東洋人含め、貴女たちはパンドラの匣を開けてしまった。その意味を・・・・よくよく考えておくことね。いつか貴女の信じていたものが崩されたとき。自分の身を守れるのは、自分しかいないのよ」
護送馬車の冷たい鉄扉が閉められると、黒い馬たちが嘶きをあげて倫敦の街並みの中に消えていく。マヤはそれを見送りながら、ドクター・シスの顔をもう一度思い浮かべる。あの悲痛な彼女の面持ちを作った原因は、やはりマヤの父親にあるのだろう。
すると、立ち尽くすマヤに「話は終わったのか」と声をかける人物が一人。彼女が振り返った先で、彼もまた護送馬車を見送るように倫敦の街中へと視線を向けていた。
「・・・・・・一真さん・・・・・・」
「・・・・ドクター・シス。10年前の《プロフェッサー》事件で遺体の解剖に立ち会った人物、か。どうやら、どこまでいっても因果なものだ。運命とやらは・・・・」
「・・・・記憶。本当に、戻ったんですね」
仮面を外し、両の眼でマヤの顔をしっかりと見据えるその目付きは、彼女が幼い頃に見ていたものと変わらぬままである。亜双義は深く頷くと、マヤに歩み寄って向き合う。昔よりも、ずっと背の高くなった亜双義の姿を見て、マヤは震える喉奥に潤む視界を抑えることができない。そんな彼女の様子に、亜双義も昔を懐かしむように目を細めた。
「・・・・本当に、よかった。もう、二度と会えないかと・・・・・・っ」
「そういえば。たった今、もう一つ思い出した。・・・・オマエは昔から泣き虫だったな」
「違う・・・・違います・・・・最近は、泣くことなんてほとんどなかったんです・・・・!なのに。一真さんが・・・・・・・・あんまりです!酷いです!どうして生きてるって教えてくれなかったんですか!」
「さっき法廷で話した通りだ。オレは記憶を失っていた。だから、生きていると伝えたくても伝えられなかったのだ」
「でも!手紙だって、あるときから送ってくれなくなって・・・・!」
「・・・・そのことは。すまなかった」
そう言って、亜双義は申し訳なさそうに笑ってマヤの頭に手を置く。それはかつて、彼女がまだ幼く“泣き虫”だった頃、亜双義がよくやっていた彼女への慰めだった。あの日からお互いに大きくなったにも関わらず、その手の温もりは確かにあの日本で感じていたものと同じで、マヤは懐かしい風景が脳裏を過ぎって一層泣きたくなる。
「ズルい。ズルいですよ・・・・」
「オレを許してくれるか?マヤ」
「・・・・許さないって言ったら、どうするんですか」
「そうだな。オマエが泣き止むまで、ここにいよう」
やはりこの男には敵わない。マヤは自分の目元を拭うと「許しますよ、許しますから」と亜双義の手を払う。いつか亜双義が倫敦に来た時は、あの頃よりも立派になった自分を見てもらおうと思っていたマヤだが、やはり人間などそう簡単に変わることなどできやしないのだろう。
「・・・・それで。これから、どうするんですか?」
「まずは。ヴォルテックス卿へ、今回のコトの顛末を報告しなければならないだろう」
「・・・・でも、そうなると。ヴォルテックス卿は、記憶を失った一真さんだと分かっていて、バンジークス様の従者に一真さんをつけた、ということになりませんか?」
「それはどうだろうな。ヴォルテックス卿が単純にオレの顔を知らなかった可能性もありえる」
「・・・・では、なおさら、私もついていきます。バンジークス様に言えば、きっとバンジークス様も、」
「そのことだが、マヤ」
「は。はい」
「・・・・今回は、オレ一人でヴォルテックス卿のもとへ行く。付き添いは無用だ」
「え!で。でも・・・・高等法院は広いですし。一真さんが迷子になってしまう可能性だって、十分にあります!」
「・・・・キサマ。オレを何だと思っている」
「一真さんは一真さんですッ!」
それは昔、マヤが初めて高等法院を訪れた際、彼女が半日ほど迷子になってしまった経緯からくる心配だったのだが、当の亜双義にとっては呆れたため息しか出てこない。記憶を失っていた頃にバンジークス卿の仕事の一環で亜双義は何回か高等法院に訪れていたのだが、どうやらマヤにとっては“記憶を取り戻した”ことで従者の頃の記憶はリセットされてしまったとでも思っているらしい。そのように記憶が一々リセットできるような便利なものならば、亜双義とてリセットしたい記憶の一つや二つ、大いにあるものだ。
「・・・・そういえば。オレが記憶を失っていた頃、キサマがオレを犬畜生扱いしたこと・・・・忘れてはいないからな」
「そ。それは。だって!一真さんが私の名前を嬉しそうに呼ぶから!」
「・・・・そのような記憶。オレは欠片もないが」
このまま話し込んでいては、彼女のペースにつられて自分までおかしなことを言ってしまいそうだ。そう思った亜双義は、早々に話を切り上げて高等法院へ向かうことにする。その際、マヤの肩を力強く叩いて、こう言った。
「・・・・オレが倫敦に来た“理由”。それを、全て終えた時は・・・・オマエに話さなければならないことがある」
「私に・・・・ですか?」
「・・・・とても大事なコトだ。オレにとっても・・・・そして、オマエにとっても。だが、今は話すことができない。どうか、オレを信じて待っていてくれ」
そう言い残して亜双義は去っていく。だが、そんな彼の背中を見たマヤは、少しだけ違和感を覚えた。
「(一真さん・・・・昔と比べて、どこか変わったような・・・・)」
その違和感の正体は、今は誰にも分からない。ただ、今は無事に生還した幼馴染のことを素直に喜ぶべきだろう。珍しく晴れ渡る倫敦の青空も、きっとそう望んでいるに違いないのだから。