「ドビンボー博士の船の手配は、バッチリ済ませてあります!」
チケットを意気揚々と取り出して、ドビンボー博士の荷物までしっかりと準備したマヤの姿を見るのは、何故か久しぶりのような気がした。バンジークス卿は、そんな彼女に言うか言わまいか少しだけ悩んだが、この際、彼の中でずっと気になっていたことを聞いてみることにする。
「して、マヤよ」
「はい?」
「・・・・そなた。《科学式捜査班》に異動になったのではないのか」
マヤの異動は、バンジークス卿にも伝えられていた。彼女は1週間付けでバンジークス卿の助士を外れ、《科学式捜査班》に異動になるのだと。
そして、今日はその通達からちょうど1週間が経った日である。だが、当のマヤはポカンとしたあとに「ああ!」と声を上げた。
「バンジークス様。もしかして、私がクビになったのではないかと心配されているのですか?」
「誰もそのようなことは言っていないが・・・・」
「ううん・・・・あえて言うならば。全ては龍ノ介さんのせいですね」
「なんだと?」
「《科学式捜査班》の班長であるドクター・シスが捏造を行っていたことが明らかになった以上、《科学式捜査班》の存続は極めて危うくなっています。市民の信頼を得るどころか、反感まで買ってしまって・・・・ヴォルテックス卿も、流石にこれ以上押し通すことは難しいようです」
「だが。班長を誰かが取って代わることも、可能なはずではないのか。・・・・たとえば。そなた、とか」
「ええ。ヴォルテックス卿から、この前そのように頼まれました」
「なんだと!」
「ですが!丁寧にお断りさせていただきましたっ!」
どこか誇らしげに宣言するマヤは、1週間前とは打って変わってどこか肌ツヤも良くなっているような気がする。さぞかし、今回の異動がストレスだったのだろうとは思うが、彼女も『覚悟を決めた』と言っていた手前、バンジークス卿はどこか複雑な気持ちになった。バンジークス卿とて、一生彼女に会えない覚悟を決め、前日はヤケ酒をしたというのに。・・・・だが、今になって考えてみると“一生”などということも、まず有り得ない話である。どうやら、天下のバロック・バンジークス卿も助士のことになると、とんと理性的な判断がつかなくなるとみた。
「あの方が、そなたが断った程度で納得するとは到底思えないが・・・・」
「それについては。秘策を使わせていただきました」
「秘策・・・・だと?」
「はい!」
「・・・・・・・・それは。どのような」
「聞かない方がバンジークス様のためだと思います」
「・・・・・・・・・・・・」
「何と言えばいいものか・・・・実に、そなたらしい考えだ」無理やり納得することにしたバンジークス卿に、マヤはとても嬉しそうである。何はともあれ、また助士としてマヤが傍にいてくれることにバンジークス卿も悪い気はしなかった。先日、仮面の従者の正体があの“アソーギ”の息子だと分かってから、バンジークス卿も彼と二人きりではさぞ執務室の中が殺伐とした空気になることは予想がついていた。殺伐とした空気が耐えられないほど《死神》は気弱ではないが、バンジークス卿からしてみれば、マヤと亜双義という二人の温度差で風邪を引いてしまいそうなところではある。
すると、そんな二人の前に到着した汽車からドビンボー博士が煙と共にようやく降りてきた。
「お。おおおおおおッ!!そうか。そういうことかッ!」
こちらはこちらで、既に面倒臭そうな雰囲気のこと極まりない。
「ドビンボー博士。こんにちは!」
「マヤさんッ!ワタシは、今度こそ・・・・今度こそッ!ひらめいたのです!」
「ひらめいた、ですか?」
「そう!ヒントはこの汽車にあったのですよッ!ワタシの理論をもってすれば・・・・この汽車を《瞬間移動》させることができるのですッ!
厳密には、《瞬間移動》に近い《高速移動》なので、今の材質だと乗客は汽車と共に木っ端微塵になってしまうんですが!」
「《瞬間移動》とは、それほどに男性を惹き付けるものなのですね・・・・」
「・・・・言っておくが。私に科学の理論を話されても困る」
汽車から降りてドーバー港に出るあいだも、ドビンボー博士は何やら一人でブツブツ呟きながら、数式のメモを必死に取っていた。バンジークス卿としては、今度こそ旧友が殺人の罪で裁判にかけられないことを願うばかりである。《死神》の鎌にかけられることよりも、ドビンボー博士ならば自ら断頭台に登りかねないだろう。
そんな心配もしつつ、港に出ると、船の汽笛の音が暗がりの空を震わす。マヤがドビンボー博士に
「この船に乗れば、
「バロック。キミには本当に迷惑をかけてしまった・・・・ボクは、少しだけ不甲斐ないよ」
「何を気に病む必要がある」
「キミが《死神》と呼ばれているのには、何かしら理由があるんだろう?」
「・・・・・・・・」
「確かにキミの顔は怖い。裁判の時も《
「(・・・・それはフォローになっていないような気が・・・・)」
「でも。ボクは知っている。キミはいつだって真面目で不器用なだけの、やさしいボクの“友人”だ」
「!」
「バロック。ボクが知っている理論では少なくとも・・・・人間は“神”にはなれない。キミの背後には、何か大きな影が隠れているに違いないのに・・・・今のボクには、解決してあげることもできない」
「ドビンボー博士・・・・」
「でも。ボクはキミと会って、一つ安心したよ」
ドビンボー博士はバンジークス卿の隣にいるマヤの手を取る。色白な手に反して、その手の平は驚く程に温かい。
「ミス・マヤ」
「は。はいっ!」
「バロックのこと。くれぐれもよろしくお願いします」
「わ。私・・・・ですか?」
「ええ。アナタには、不思議なモノを感じます。まるで、ワタシとバロックが大学にいた頃・・・・」
「・・・・ベンジャミン!」そのとき、何かを言いかけたドビンボー博士に対して、バンジークス卿が諌めるように鋭く言葉を投げつけた。
「わわっ!な。なんだよバロック・・・・とつぜん脅かして・・・・!」
「そろそろ船の時間だ。乗り遅れたら、命に関わる」
「(もの凄い脅し文句・・・・)」
先程鳴った船の汽笛が、もう一度大きく鳴り響く。そろそろ出航の時間が近づいているのだろう。ドビンボー博士は慌てたように荷物をまとめると、深々と頭を下げた。
「本当に世話になったよ、バロック!また会おうぜ!」
これと似たような光景を、バンジークス卿は今から随分と昔に見た気がする。そう、確かあの日は倫敦大学の卒業式だった。入学当時よりも幾分か顔色の悪くなったバンジークス卿に、周囲は近寄ろうともしなかった。当初は親しげに話しかけてきた同じ専攻の学生でさえも、10年前の事件を境に雰囲気の変わってしまったバンジークス卿を見て、よそよそしい笑顔を浮かべる始末。・・・・その中で、ベンジャミン・ドビンボーだけは。最後まで、変わらぬ笑顔を見せてくれたものだ。
「・・・・“また会おう”か。キミらしい言葉だ、ベンジャミン」
大きな船の中に消えていくドビンボー博士の姿を見ながら、バンジークス卿は「マヤよ」と声をかける。
「何でしょう?」
「そなたは、くれぐれも自分の身に気をつけることだ」
「え・・・・?」
「あのオトコは元々独逸に留学していたため、
「バンジークス様・・・・?それは、どういう・・・・」
「そなたを、危険な目にあわせたくはない」
船を見送っていたマヤは、ハッとしてバンジークス卿の顔を見る。彼は依然として遠くなっていく船の影を見つめていた。
「《死神》の無礼なる願い・・・・どうか、聞き入れてもらえないだろうか」
「バンジークス様・・・・」
マヤは不思議な感情でいっぱいになる胸を隠すように、自身のブローチに触れる。ドビンボー博士を乗せた船は夕暮れの水平線の彼方にやがて消えていき、最後は夕暮れの光を受けて煌めく水面だけが残っていた。