バンジークス卿の助士としてまた働けるようになったこと、そして大切な友人の記憶が元に戻ったこと。その二つの出来事は、彼女の人生のなかでも特に喜ばしいことである。だが、それとこれとは別なのだ。耐えきれなくなったマヤは、思わず立ち上がって珍しく声を荒らげた。
「何ですかっ。このギスギスした空間は!」
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
「バンジークス様も、一真さんも!何か一言ぐらい喋ったらどうですか!まだ水槽のなかで泳ぐ魚たちの方が元気ですよ!」
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
「わかりました。わかりましたとも!こうなったら。ホームズさんでも呼んでやりますからねっ!」
「それは、やめていただきたい」電報を打ちにいこうとするマヤを止めるため、本日初めて口を開いたバンジークス卿の様子を見るに、よっぽどシャーロック・ホームズのことが嫌なのだろう。だが、その一方で亜双義が「好きにするといい。オレはかまわん」と答えるせいで、また執務室のなかに沈黙が走る。マヤは泣きたい気持ちを押しこめながら、心の中で成歩堂たちに助けを求めた。いっそのこと、ジーナでも来てこの場を《
亜双義とバンジークス卿の仲は、彼女が想定していたよりも険悪だった。お互い口を開くことはないものの、各々少しでも琴線に触れるようなことがあれば、この執務室が取り返しのつかないことになってしまいそうである。
そんな彼女の胸中とは裏腹に、亜双義は至極冷静に言い放った。
「マヤ。オレは“仲良しごっこ”をするために倫敦にやって来たわけじゃない」
「でも!仕事をする以上、仲良くすることは仕事を円滑に進めるためにも大切なことです!」
「関係ない。本日の仕事は、今しがた全部終わったところだ」
「確認頼む」と言われ、亜双義から手渡された大量の書類にマヤは目を通す。驚くことに、全てが完璧で何一つ不備がない。それどころか、事件の状況に関する報告書など自分が作るものよりも分かりやすくまとめられており、マヤはクラクラと目眩がした。
「では。オレはこれにて失礼します」
一礼して去っていく亜双義を止めることは誰にもできない。マヤは「一真さん!」と呼びかけるが、その声も執務室の扉が閉まる音に遮られてしまった。彼女の伸ばしかけた手が、力無くうなだれる。
「マヤよ」
「・・・・何でしょうか。バンジークス様」
「そなたには、いつか話しておかなければならないとは思っていた。だが・・・・まさか。このようなカタチになるとは・・・・」
「・・・・バンジークス様を裏切った日本人・・・・それが。亜双義玄真様だった、という話ですか?」
バンジークス卿は頷いた。彼も現状を全て受け入れることはどうやら難しいようで、ワイングラスを揺らしながら僅かに痛むこめかみを押さえる。
「・・・・そなたの父が、あの“アソーギ”と親しい間柄であることは私も知っていた。知っていながら・・・・そなたには、なかなか話すことができなかった」
「・・・・それは。私のため、ですか?」
「・・・・わからない。話そうと思えば、いつでも話せたハズだ。私が話すことができなかったのは・・・・そなたに嫌われたくなかったのかもしれない」
「バンジークス様・・・・」
10年前に起きた《プロフェッサー》事件の内容は倫敦市民には一切周知されず、まるで幻惑のような謎として奇妙な噂話だけが残った。蘇る死刑囚の影が人々の間を錯綜し、それは結果として、一人の男の輝かしい未来をも摘み取ってしまったのだ。それが数日前に起きた事件の発端である。しかしバンジークス卿の話によれば、その《プロフェッサー》を極秘としたのも、国際問題や倫敦市民の混乱を招かないためのヴォルテックス卿の判断だったそうだ。
「でも。《プロフェッサー》事件の内容については、当時の関係者以外は極秘として扱われました。バンジークス様が私に話せなかったのは、仕方のないことだと思います」
「仕方のないこと、か。そうやって、私は幾度となくそなたから目を背けてきたのだろうな」
バンジークス卿は手に持っていたグラスを自身のデスクの上に置く。今日は、彼選りすぐりの葡萄酒すらも飲む気にはなれなかった。過去のことを思い返す度、眉間の古傷が痛み、まるで自身を戒めるようだ。そして、バンジークス卿は一つ大きく息を吐くと、懐から一枚の紙切れを取り出した。
「・・・・そなたに、ずっと渡すべきか迷っていたものがある」
「これは・・・・」
その紙切れを受け取ったマヤは、思わず息を呑んだ。紙切れとは
「私は・・・・あくまで、そなたの意見を尊重したいと思っている」
「それは、どういうことですか?」
「あの者がそなたにとって、大切な存在だというのならば。私の助士という立場など忘れ、あの者の傍にいてもいい・・・・と言っている。いつか、そなたが日本に帰るときがやってくるかもしれない・・・・8年前から、ずっと考えていたことだ」
マヤは思わずバンジークス卿の顔を見上げた。しかし、バンジークス卿は彼女から視線を逸らすと、手持ち無沙汰に飲むわけでもないグラスを手に取って揺らす。
それは、バンジークス卿にとっても不本意な決断だった。しかし、マヤの幸せと今後のことを考えると、彼女は日本に帰った方が幸せだろうと思わずにはいられない。あの成歩堂や亜双義たちと、日本人として生きることができたら。彼女は、もう《死神》の呪縛に悩まされることはないのだ。
マヤはチケットを握りしめて黙り込んだ。その様子を肯定と取ったバンジークス卿は、自身の痛む胸に見ないフリをして彼女に背を向ける。日本人を憎んでいるバンジークス卿の隣でも分かるほど、日本への憧れと郷愁を抱いていた彼女のことだ、日本に行っても不自由なく暮らしていくことができるだろう。そう考えると、ある意味亜双義がこの時期に倫敦にやってきたことは、バンジークス卿に決断させる良い機会だったのかもしれない。
しかし、そんなバンジークス卿の背中に降ってきたのは、意外にも検事顔負けの「異議あり!」と目一杯叫ぶ声だった。
「・・・・・・・・バンジークス様の、おバカッ!」
「お。“おバカ”・・・・・・・・?」
「何も分かってません!私の気持ちをバンジークス様は・・・・まったく・・・・!」
助士から罵倒の言葉を貰うなど、この8年間で初めてのことだ。マヤは
「私が、なぜ!バンジークス様のお傍で8年も助士をやってきたのか・・・・本当に、分からないのですか!」
「・・・・それは。そなたが《死神》である私に、」
「違いますっ!全然違います!コトはそう複雑な話なんかじゃありません!」
確かに、マヤがバンジークス卿の助士になったキッカケは9年前の事件である。《死神》を世に認知させてしまった事件・・・・それこそが、マヤの父親が殺害された事件であり、あの日を境にマヤ・ポーロックという一人の人間の運命は大きく変わってしまった。
しかし、たとえ悲しい事件によってねじ曲げられた運命だとしても、8年も彼女がバンジークス卿の助士として傍にいる理由はたった一つしかない。論理によって組み立てられたミステリーも、至極単純めいた人間の感情なしでは起こりえない。とどのつまり、真実とは、時に目前すぎて気づかないこともあるということだ。
「私は、私はバンジークス様を・・・・・・・・!」
「・・・・・・・・」
「・・・・す、・・・・」
「“す”・・・・?」
だが、どうしたことか。マヤは途端に固まってしまった。バンジークス卿が怪訝そうに彼女を見つめる。すると、マヤはみるみるうちに顔を赤くしていき、思わず手に持っていた書類で自分の顔を隠してしまった。先程までの勢いは、すっかりなりを潜めたようだ。
「・・・・ストランド・マガジンにいつか載せたいな、と・・・・」
「・・・・明らかに目が泳いでいるようだが」
「こ。これは泳いでいるのではありません!私、こう見えて水泳はあまり得意ではないので!」
慌てるあまり、いつものように支離滅裂なことを助士が言い出したところで、バンジークス卿も流石にこれ以上は追求しても彼女が不憫だと思ったのだろう。もう一本のグラスを取り出し、葡萄酒を注ぐとマヤに差し出した。
「・・・・そなたの言い分は、何となくわかった。だが、これだけは理解してほしい。・・・・私とて、そなたに何かあったらと思うと・・・・もう二度と、自分を許すことができないだろう」
「バンジークス様・・・・」
バンジークス卿は、手に持ったグラスで乾杯しながらこれまでの思い出に思いを馳せる。思えば、この8年間。助士の存在が無かったら、自分はどうなっていたかしれない。あくまで仮定の話にはなってしまうが、《死神》の重圧と倫敦の闇に飲まれ、再起不能なほどに自身が壊れていた可能性もある。
《死神》として生きることで、バンジークス卿は多くのものを失ってきた。だが、この前のドビンボー博士と対峙したときのように、ほんの一欠片でも彼が誰かを想い悩む心が残っているのは、おそらく助士のおかげに違いないのだ。
彼女には、感謝している。それだけは確かだ。だからこそ、もう二度と大切な存在が傷つく姿は見たくなかった。バンジークス卿とて、マヤに日本に帰ることを勧めたのは、彼なりの信念に基づいた行動である。それを理解したマヤは、差し出されたグラスを受け取るとどこか寂しげに笑う。
「・・・・バンジークス様は、本当にお優しい方ですね。でも・・・・だからこそ、バンジークス様と一真さんが仲良くできることを、私は諦めておりませんから。まず第一段階として・・・・一真さんに一通したためてみるのはいかがでしょうかっ!」
「・・・・それは、第一段階をすっ飛ばして第五段階ぐらいの話ではないだろうか。そもそも、そなたにすら手紙を書いたことは無いというのに」
「そ。それもそうですっ!私、バンジークス様から手紙をもらった記憶がありません・・・・!」
「・・・・そう落ち込むな。いつか、気が向けばおそらくきっと。そなたに一通書くことにしよう」
「(ゼッタイ書く気ない人の言い分だ・・・・)」