正直。法廷の最中、マヤは何度気が遠くなったことか。だが、マヤが一番ショックを受けたことは、隠されていた事実よりも亜双義の無理やりな追求の仕方にある。
「・・・・ミテルモンさん。もう、体調は大丈夫なのですか?」
「ええ。お騒がせしました・・・・忘れていた《記憶》のことも、ようやくナットクできるようになってきましたから」
「・・・・そうですか・・・・」
聖アントルード病院の一室で、亜双義とマヤは今回の裁判で新たに重要な証人となったエブリデイ・ミテルモンへ面会に来ていた。彼は、先日妻から捜索依頼がホームズのところに届けられていたというバークリー刑務所の元看守長である。彼は今回の裁判の最中、彼自身が封印していた《記憶》を解いたことでショックを受け、気絶。急遽裁判は中止され、この聖アントルード病院に緊急搬送されることになった次第である。
相変わらず憂いを帯びた表情ではあるものの、言葉もハッキリと喋るミテルモンの様子を見て、マヤは無事にほっと安堵の息をつく。すると、その隣で亜双義が深々とミテルモンに頭を下げた。
「・・・・今日の裁判では、本当にすみませんでした・・・・貴方に、辛い記憶を思い出させてしまった・・・・」
「・・・・いえ。気にしないでください。私自身・・・・おかしいとは思っていたんです。どうして、妻と子供がいるにも関わらず。自らバークリー刑務所をやめようなんて思ったのか・・・・全部、私がツゴウよく作り上げた“妄想”だったんですね」
「・・・・ミテルモンさん・・・・」
時として。人は、あまりにも辛い記憶を心の奥底に閉じ込めて、なかったことにしてしまう場合がある。今回のミテルモンの一件も、それと同じだったようだ。だが、誰も彼を責めることはできない。誰しも・・・・自分の命を自分で絶とうとしたときのことなど、覚えていたくないものだ。
すると、ミテルモンがマヤに「あの」とおもむろに声をかけた。
「ところで・・・・貴女はマヤ・ポーロックさん、ですね?」
「わ。私のこと・・・・知ってるのですか?」
「ええ。貴女のことは・・・・グレグソン刑事から、うかがっていました」
マヤは僅かに瞠目する。「グレグソン刑事は・・・・なんと?」と尋ねると、ミテルモンは記憶を辿るように目を閉じて答えた。
「・・・・『彼女は倫敦の未来を担う一人だ』と」
「!」
今回の一件で、グレグソン刑事がミテルモンに声をかけたのは偶然なのか。はたまたクビにされ、自分で死ぬことも出来ず途方に暮れていたミテルモンのことを気にかけていたのかは定かではない。だが、ミテルモンの話によると、グレグソン刑事はあのフレスノ街の貸し部屋に訪れ、ミテルモンと会う時。決まって
「・・・・グレグソン刑事は、こうも言っていました。『若いヤツらが汚れ役を背負うことはない。そういうことは、ベテラン刑事の仕事だ』・・・・とも」
「・・・・グレグソン刑事・・・・」
マヤは自分の拳を強く握りしめる。バンジークス卿から《死神》の主犯格がグレグソン刑事であることは聞かされたものの、マヤにはやはり一つだけ信じることができないものがあった。それは、グレグソン刑事の“信念”が偽りだったことである。
彼は何もバンジークス卿を陥れようと《死神》の組織にいたわけではないのだろう。でも、そうなると・・・・必然的に、グレグソン刑事の《覚悟》を利用した者がいるはずなのだ。亜双義によれば、それがバンジークス卿だとのことだが・・・・マヤには、それが真実でないことも分かっていた。
つまり、今もまだ倫敦の闇に住む黒幕は一度たりとも顔を出していないのである。それが、彼女にとってはやるせなく・・・・とても腹立たしいことであった。
そして、ミテルモンといくつか話を済ませた後、亜双義とマヤは聖アントルード病院の待合室に腰掛けていた。マヤは自分の膝の上で合わせた手に所在のない視線を何となく向けていたが、チラと顔を上げる。亜双義は腕を組みながら窓の外を眺めているようだが、その顔は依然として険しいままだ。まるで、見たことのあるようなその表情に、マヤは「・・・・あの」と思わず言葉をかけた。
「・・・・一真さん。今日の法廷は・・・・」
「・・・・やりすぎだ、とでも言いたいのか?」
やはり、亜双義の声は拒絶の色を孕んでいる。その拒絶もやはり同じだ。過去に大切な存在を失った者の苦しみは、当人にしか分からない。そんな“孤独”ゆえの“拒絶”は、亜双義もバンジークス卿も同じなのだろう。ただ、その憎しみがお互いに向き合ってしまっている結果が現状なだけで。
「オレはオレの信念を貫いたまでだ。《真実》を明るみに出すためには・・・・必要なことだったのだ」
「・・・・分かっています。でも、もっと他にやりようはあったのではないかと・・・・」
《真実》を追求することは、ある種の諸刃の剣なのかもしれない。そして、バンジークス卿と亜双義を信じると決めたはいいものの、今日の法廷での亜双義の追求は、マヤの知る亜双義一真のやり方ではなかった。
人の傷を無理やりこじ開けることの残酷さを、亜双義が知らないわけではない。おそらく、彼自身分かっててやっているのだろうが、その性急な追求の先には亜双義の焦りが見えたような気がした。・・・・今のままでは、バンジークス卿が無実の罪を被ってしまうことになるだろう。そして亜双義一真は、《真実》よりも《復讐》を果たしてしまうことになるのだ。
すると、亜双義がおもむろに立ち上がる。彼はマヤに目を合わせることなく、どこか沈んだ声色で呟いた。
「・・・・オマエなら、あるいは。オレの考えを分かってくれると思っていたが・・・・どうやら、オレの思い違いだったようだ」
「一真さん・・・・」
「・・・・オレは先に検事局に戻る。少し、一人にさせてくれ」
一人で病院を去っていく亜双義の背中は、不思議と小さい頃の彼の背中よりもずっと小さく見える。一人取り残されたマヤは、亜双義の後ろ姿を悲しげに見つめることしかできない。
「(・・・・このままだと、裁判が終わっても。今回の事件に関係するヒト全てが傷ついたままだ。今の私にできることは・・・・)」
マヤは意を決して立ち上がる。そして、おもむろに病院の入り口ではなく地下室へと続く階段の方へ向かい始めた。
聖アントルード病院の地下には、懐かしき法医学研究室がある。マヤが扉を開くと、前回よりも幾分かぬいぐるみが増えた部屋の中で《
「あ。マヤ」
「・・・・マリア、今日はお願いがあってきたの」
マリア・グーロイネは、マヤの姿を見るなり研いでいた《
「9年前の・・・・あの事件の《遺体解剖記録》を、見せてほしい」
「マヤの父親の?・・・・それは・・・・」
「わかってる。コートニーさんから、見せるのを禁止されていることは」
「!」
マリアは分かりやすく肩を揺らす。どうやら図星のようであり、それを見抜いたマヤは必死に説得を続けた。
「10年前のクリムト・バンジークス様の一件で、世間では改めて解剖が重要視されるようになった。それは、ヒニクにも・・・・倫敦の法科学が一歩前進したといってもいい一件だった・・・・それから1年後。私の父も、遺体は解剖されたと聞いてる。だから、この法医学研究室にその関連記録が残っているはずでしょう?」
「でも。あの解剖では・・・・特に目新しい証拠は掴めなかった。ロイネもママの横で見ていたから、断言できる」
「マリア。私が見せて欲しいのはね・・・・父の《遺体解剖記録》じゃない」
「え・・・・」
「・・・・父を殺した犯人、《死神》に殺された男の《遺体解剖記録》だよ」
グレグソン刑事を操っていた黒幕がいるのならば、少しでも《死神》に関する情報を独自に集める必要があるだろう。その考えからマリアのもとを訪れたマヤだったが、マリアはペストマスクを被ると黙り込んでしまった。どうやら、ドクター・シスからよっぽど厳しく言いつけられていた“秘密”のようだ。
「9年前。犯人であるオトコの遺族が、当時《死神》と騒がれていたバンジークス様を起訴したことがあった。そのときに、あのオトコの《遺体解剖記録》が提出されていたハズだよね」
その頃。マヤはまだ父親を殺されたショックで失意の内に塞ぎ込んでおり、その事件についての詳細を追えるほど精神的に安定していなかった。
《死神》が殺してくれた大罪人を、遺族が起訴するなど昔の彼女なら怒りを顕にしていたことだろう。結局、提訴したところでバンジークス卿にはアリバイがあり、証拠不十分ということで不起訴になったため、かえって《死神》をより神格化させてしまう一件となったワケだが。
しかし、最も気にするべき点は、少し前にマヤがようやく9年前の事件と向き合う気になったとき。その裁判の記録が《
「・・・・《プロフェッサー》の件が少しずつ明るみになってきて、私はようやく気づいた。コートニーさんが私に見せたくなかったのは・・・・父の《遺体解剖記録》ではなく、その父を殺したオトコの《遺体解剖記録》であると」
「・・・・それは、」
「お願い、マリア。・・・・このままだと、《死神》は結局誰にも分からないまま隠れてしまう。そうなったら・・・・今度は私の大切な人たちが、《死神》によって取り返しのつかないことになってしまうかもしれない」
今回の《極秘裁判》の一件。おそらく《死神》を暴き出さなければ、今回の裁判に関係する者全てが《死神》によって口封じを受けてしまうことだろう。そうなってしまえば、マヤ自身はおろか・・・・バンジークス卿や亜双義、成歩堂たちまでどんな仕打ちを受けるか分かったものではない。
その話を聞いていたマリアは迷っているようだった。小さく「・・・・《遺体解剖記録》を見たとして、どうするの」と尋ねるマリアに、マヤはとある記録をつきつけた。
「・・・・近年。科学の進歩は私たち人間の進歩よりもずっと速いスピードで進んでる。マリアは・・・・この《
マヤがそう言って手渡した分厚い紙束にマリアは驚くべき速さで目を通す。そして、「イマ読んだ」と言うマリアにマヤは「流石だね」と頷いた。
「・・・・これからの司法は、人間によって残された“指紋”の発見によって大きく変わると思う。でも、その一方で・・・・“指紋”を残すのは、人間だけじゃないって分かりはじめてるの」
「それが。銃器の残した“指紋”・・・・この《
「うん。今の大英帝国ではまだ認められていないし、海外でも研究が進んでいる途中だけど・・・・これは、事件を解決に導く大きな“革命”になると思う」
線条痕とは、後の法科学にて大きな証拠の一つとなる、いわゆる銃火器の“指紋”である。弾丸がどの銃から撃たれたものか、弾丸についた線条痕の違いから判別できるそうだが、この時代ではまだ線条痕の存在が示唆され始めただけに過ぎない。
だが、マヤはどうやらその《線条痕》を頼りに、9年前の《死神》の謎を解き明かそうと考えているようだ。幸い、つい最近になって線条痕解析の手法について記載された論文が、とある科学雑誌に掲載された。見様見真似にはなるだろうが、技術の進歩とは何事も見様見真似から始まるものだ。
すると、マヤは懐を探り、小さな袋から血のついた一発の弾丸を取り出した。おそらく9年前の事件に関する弾丸なのだろう。マリアも「!その弾丸・・・・一体。どこで手に入れたの?」と驚きを隠せない。
「それは言えない。・・・・でも、コレと拳銃があれば線条痕を調べることができる」
「でも。拳銃はここにはない。・・・・当時どの拳銃で撃たれたのかも、分からなかったハズ」
そう言うマリアの目の前で、マヤは一丁の拳銃を取り出してみせた。「マヤ・・・・最近、スリと仲がいいって聞いた。もしかして、誰かから盗んだ?」と驚きを通り越して感心するマリアに、マヤはやはり答えることができない。ただ、真剣な面持ちの彼女に、マリアは頭につけていたペストマスクを外すと・・・・研究室の棚からマヤの父親の《遺体解剖記録》を取り出した。
「・・・・もしかしたら。ママは、いつかこうなることを分かっていたのかもしれない」
そう呟いて、マリアはマヤの父親の《遺体解剖記録》が挟んであるファイルの金具をなにやらいじり始めた。すると、一枚のファイルは二枚にバラけ、その間から新たに一枚の《遺体解剖記録》が出てきたのだ。
「!ま。マリア・・・・これは・・・・!」
「・・・・9年前。この記録は、捨てるように命じられた。別にとっておいても仕方ないから、って。でも・・・・あの日、ママはこっそりロイネにこの記録を隠すよう頼んできた」
「!コートニーさんが・・・・?」
「ロイネの質問にママは答えてくれなかったけど・・・・たった一言だけ、『マヤのためだから』って」
「(コートニーさん・・・・やっぱり。あの人は心のどこかで、気づいていたのかもしれない・・・・自分が利用されているかもしれない可能性に)」
ドクター・シスが捕まる直前、マヤは彼女と護送馬車の中で話したときのことを思い返す。ドクター・シスは自分の“正義”に従ったまでだと言っていた。その言葉の意味を何度も考えてみたが、彼女の言う“正義”はやはり昔と変わらないままなのだ。ドクター・シスは倫敦の未来と子供たちのことを真剣に考えている。そしてそれは、グレグソン刑事とて同じことだろう。
マリアから9年前の《遺体解剖記録》を受け取ったマヤは確信した。グレグソン刑事も、ドクター・シスも・・・・やはり彼らの《覚悟》をいいように利用している存在がいるのだと。そして、その黒幕は今まさに亜双義とバンジークス卿のことも利用しようとしているに違いない。マヤは、自分のなかにふつふつと湧き上がる感情を抑えるように、自前の弾丸と拳銃を持って早速《線条痕》の検証に取り掛かる。
一度集中し始めたマヤには誰の言葉も届かないことをマリアはよく知っていた。そして、長い時間が流れた後、ようやく椅子から勢いよく立ち上がったマヤにつられるようにマリアが机の上を覗き込んだ。
「拳銃と弾丸。一致した?」
「・・・・うん。ピッタリだったよ」
「ところで、その拳銃。一体誰のものなの」
「・・・・・・・・・・・・・・この拳銃は・・・・ヴォルテックス卿のものだよ」
「!え・・・・・・・・」
マヤのこめかみにたらりと冷や汗が流れる。これが一体何を意味しているのか、答えはもうすぐ目の前まで迫っている。
あとは、明日の裁判の行く末がどうなるのか・・・・心して待つだけだ。そして、やはり自分は亜双義を支えなければいけない。
「(迷っている場合なんかじゃない。一真さんのことを隣で信じてあげられるのは・・・・私にしかできないことなんだ)」
亜双義がもしも道を間違えそうになったときは、全力で彼を止めてあげればいい。亜双義も、おそらく心のどこかで僅かな迷いが生じているはずだ。その迷いに見て見ぬふりをするから、人の心に歪みが生まれてしまうのだろう。
マヤは自分の両頬を勢いよく叩く。すると、先程よりも目の前がハッキリ見えるような気がした。彼女のなかに生まれていた僅かな迷いは、今度こそ消えたようだ。