「・・・・そなたは、知っていたのか。あのアソーギがバラブロック号に乗っていたことを」
「私も、そのことについて知らされたのは昨夜のことでした。正直、驚きましたが・・・・一真さんが残していた“書き置き”のおかげでナットクできたのも事実です」
面会の終了時刻はとうに過ぎたが、今日ばかりは留置所の警備員に頼み込んで独房にいるバンジークス卿と話をしていたマヤは、今日の裁判を振り返るように傍でゆらゆらと燃えている蝋燭を見た。
本日の審理が中断されることになった理由。それは、《死神》の主犯格であるグレグソン刑事と共に“刺客”として、亜双義一真が蒸気船バラブロック号に乗り込んでいたこと。そして、《死神》の標的である慈獄政士郎を証人喚問するための猶予時間を設けることにある。当初は安否不明だった慈獄政士郎だったが、成歩堂やホームズたちの力により無事見つけることができた。
昨夜、亜双義から『オマエに話しておきたいことがある』と言われたとき、流石のマヤも驚くあまりバンジークス卿の《神の聖杯》をいくつか割ってしまったことは秘密だ。
「マッタク。一真さんも一真さんです。どうして前もって、私にちゃんと報告してくれなかったのか・・・・」
「・・・・『暗殺の命を受けたから、外出してくる』などと。私でも言わないと思うが・・・・」
「何をおっしゃいますか!ホウレンソウは大事なのです!バンジークス様も、もし暗殺の任務を受けたら私に報告しないとダメですよっ!」
「そ。そうか。・・・・肝に命じておこう」
果たして他人に言い触らす暗殺は“暗殺”と言えるのだろうか。いや、そもそもその前に気にすべきことが他にも何点かあるような気がするが、今の状況ではバンジークス卿もツッコむことができない。どうやら彼の頭の中も、今回の審理でそれなりに情報が倒錯し混乱している様子。全くもって関係ない与太話に脳みその容量を使っている暇はないのである。
「だが・・・・そなたは。やはりそれでも、信じるというのか。あの“アソーギ”を」
「モチロンです。一真さんが犯人でないことは、誰よりも私が知っていますから」
マヤの言葉には微塵の迷いもない。そんな彼女にこのようなことを言うのは無粋だと分かっていながらも、バンジークス卿は口に出さずにはいられなかった。彼の中に燻っているこのモヤモヤは、決まってマヤと亜双義の話題を口にするときに現れる。その感情の正体に、彼は未だに見て見ぬふりをしていた。
「・・・・ヤツは、《殺人鬼》のムスコだ。そなたをダマしている可能性も、あるかもしれぬ」
だが、そんなバンジークス卿の言葉にも、マヤは目を丸くしてから途端にクスクスと笑いだした。
「バンジークス様は、私のことを心配してくださってるんですね」
「な・・・・!」
「私が、また“裏切り”を受けるのではないかと・・・・きっと、そう心配しておられるのでしょう。でも、大丈夫です。一真さんはそんな人ではありませんよ。《死神》も《殺人鬼》も・・・・《真実》を霧の中にカクす幻想でしかありません」
「・・・・幻想・・・・」
「バンジークス様はバンジークス様ですし、一真さんは一真さんです。それが全てでしょう?」
バンジークス卿は、自分の胸元にある検事章に手を当てる。自分は自分。そのような考えは《死神》の名を背負ってからとうに忘れていたことだ。
すると、マヤが「あ、そういえば。こんなものを持ってきたんです」と言って何やら鞄を漁り出す。中から出てきたのは、二人分のグラスと葡萄酒だった。
「私が自分で選んだ葡萄酒です。バンジークス様ほど優れた目ではありませんが・・・・一度、バンジークス様に飲んでもらいたいと思いまして」
こんなときに酒など、と第三者なら言うだろうが、マヤにとってもバンジークス卿にとっても、こんなときだからこそ酒を飲むのだろう。留置所で飲食云々の話は、すでにナポリタンやら果物やら色々と持ち込まれているので今更である。
マヤはグラスにワインを注いでバンジークス卿に渡す。グラスの中で揺れる葡萄酒から香る匂いは、バンジークス卿がいつも選ぶモノより幾分かフレッシュで渋みも少ないように思われた。その葡萄酒の中に、バンジークス卿は今までのマヤとの記憶を思い出す。
「・・・・思えば。私は、そなたに一度も感謝の言葉を述べたことがなかった。そなたとこのように離れてみなければ・・・・気づけなかったことだと思うと、皮肉なものだ」
「バンジークス様・・・・?」
「ミス・マヤ。今までのそなたへの無礼・・・・どうかお許し願いたい。そして、我が助士の大胆たる勇気に、今一度感謝を込めて・・・・献杯させていただけないだろうか」
《死神》としての苦しみや、兄を失った苦しみ。それらは全て自分以外に分かることはないだろうと心のどこかで思っていたが、その隣でマヤがバンジークス卿を支え続けてきたことも事実である。知らず知らずのうちに、彼女から幾度となく救われていたに違いない。そのことに今更気づいたバンジークス卿は、せめて自分が今表せる感謝を尽くすのみだ。
マヤは掲げられたグラスに呆然としていたが、涙ぐんだ声で「ありがとうございます」と呟く。そして、彼女もグラスを掲げると、グラスとグラスの打ち合う音が静かな留置所に響き渡った。マヤも葡萄酒を一口飲むと、バンジークス卿が突然「ところで」と口走った。
「・・・・そなたがこの前言っていた“アレ”についてだが」
「・・・・“アレ”・・・・?」
「私のことを慕っていると、そう言っていたことだ」
「げほっ!げほっげほっ!」葡萄酒を飲んでいたマヤは思わず噎せてしまった。突然のことにバンジークス卿も「だ。大丈夫か?」と声をかけるが、マヤの咳がおさまる様子はなかなかない。やっとのことで息を落ち着かせたマヤだが、それでも今度は目が泳ぎ出す始末。
「えへん、えへん。ええええ、ええ!大丈夫ですとも!ただ、あのときはちょっと気が動転していたというか!口が滑ったというか!」
「・・・・つまり。“気のせい”ということだろうか?」
「違いますッ!!それだけは、違います!私は、本当にバンジークス様のことを・・・・!・・・・・・・・あれ」
「・・・・・・・・こ。この話題は裁判が終わったあとにするとしよう」
「そ。そうですね!それがよろしいかと!」
「・・・・・・・・・・・・」
「(ううう・・・・途端にジゴクみたいな雰囲気に・・・・)」
このような雰囲気になることは、バンジークス卿もある程度分かっていたはずである。何より、バンジークス卿自身も触れない方がいいと思っていたはずだが、どういう訳か気づいたら口走っていた次第だ。
それから、無言の空間で葡萄酒を飲みかわした二人はお互いよそよそしい態度で面会を終えることになってしまった。マヤは酒のせいか、はたまたバンジークス卿の失言(よくよく考えると彼女自身の失言が元なのだが)のせいか分からないまま、熱い頬をパタパタと手で仰ぎながら留置所を後にする。
すっかり夜も更けてしまった倫敦の街並みは、不気味なほどに静かだ。早いところ検事局に戻ろうとしたマヤは、そのとき奇妙な足音を聞く。
「・・・・なるほど。それで、10年前もこんな風にバンジークス様と玄真様を襲ったんですか?」
彼女の言葉は自身の背後に向けられていた。そこには覆面や仮面をつけた得体の知れない人物が数人ほど待ち構えており、マヤの言葉に夜盗・・・・いや、《死神》の手先たちは咄嗟にどよめく。
「・・・・剣を構えるということは。モチロン、自分たちも刃をつきつけられる覚悟があるということですよね」
彼らの目的。それは、間違いなくマヤの暗殺だろう。どうやら、彼女が一人になる瞬間をずっと狙っていたと見えるが・・・・その真の狙いは彼女の持つ“証拠”に違いないことを、マヤは咄嗟に見抜いていた。
すると、マヤが自身の《
「ミスター・ジゴクを受け渡して我が家に帰ろうと思ったら・・・・なかなかにキョウミブカい事態じゃないか。ミス・マヤ」
「ほ。ホームズさんっ!」
現れたのはシャーロック・ホームズだった。ボクシングの構えをとるホームズは、床で伸びている男を眺めて「ボクもまだまだ捨てたモノじゃないな」と嬉しそうに独りごちている。その横で、驚くマヤを庇うように立つ男が一人。
「大丈夫ですか、
「あ。あなたは・・・・!」
「・・・・お久しぶりですね。ミス・マヤ。貴女と会うのは・・・・10年ぶりになりますか」
彼のことは薄らと姿だけ覚えていた。ドクター・シスが監察医の第二助手として奮闘していた時代、その横で第一助手として同じく奮闘していた東洋人がいたのだ。彼は、あの亜双義玄真と同じく日本から、この大英帝国へと留学してきていた男である。
「・・・・名前を覚えていないのも、ムリはありませんか。私は御琴羽悠仁・・・・寿沙都が、いつも世話になっています」
「え。ええええええッ!寿沙都さんの、父上・・・・!?あなたが・・・・・・!?」
御琴羽悠仁は、マヤにニコリと微笑んで頷いた。確かに、この落ち着いた微笑みは寿沙都と似たようなものを感じる。
色々と聞きたいことは沢山あったが、ホームズが「ぐはぁっ!」とわざとらしく相手に殴り返されたところでマヤは我に返った。「大丈夫ですか、ホームズさん!」とマヤが駆け寄ると、ホームズはふらついた足取りで不敵な笑みを浮かべて見せる。
「マッタク。アキれたものだよ。一人の
「(必死にお腹を庇いながら何か言ってる・・・・)」
「しかも、拳であるボクに向かって剣や銃とは・・・・ヒキョウだぞ!キミら!」
「(賊に対して“ヒキョウ”ときたかあ・・・・)」
ここまで来れば単なる言いがかりである。だが、ホームズはそんなことには気にもとめず、おもむろに一つの爆弾のような物体を取り出した。
「それなら、ボクも手段は選ばないがね」
「・・・・ちょっと。ホームズさん?」
見るからに怪しい物体は、いつぞやの時限爆弾を彷彿とさせる。「ミコトバ!」と叫ぶホームズに、御琴羽悠仁も「な。なんですか、ホームズ」と困惑している様子。
「ミス・マヤを連れて・・・・逃げるんだ!できるだけ遠くに!」
「え。で、ですが・・・・キミはどうするつもりですか?ホームズ」
「ボクはコイツらを食い止める。あとのことは・・・・二人に任せたよ」
その言い方から不吉な予感を察したマヤは、「ホームズさん、ダメです!」と咄嗟に彼を止めようとした。だが「行くんだ!さあ早く!」とホームズに急かされ、御琴羽悠仁がマヤの手を掴んで走り出す。
「ミス・マヤ!ここは彼の言う通りにしましょう!」
「でも・・・・でも!ホームズさんが・・・・っ!」
そして走り出してからしばらくすると、巨大な白い煙がホームズのいたところから空に向かって伸びていた。明らかに尋常でない光景に、マヤはいてもたってもいられず、御琴羽悠仁の手を振り払って引き返す。「ミス・マヤ!待ちなさい!」と呼び止める彼の言葉も聞かず、爆発元に戻ったマヤは衝撃の光景に目を見開いた。急いでマヤを追ってきた御琴羽悠仁も「こ。これは・・・・!」と思わず舌を巻く。
「・・・・・・・・眠っていますね。みんな・・・・」
「・・・・そういえば。船から戻ってくるとき、ホームズが『新しい催眠弾を作った』とか言っていたような気が・・・・」
「でも・・・・寝てますよ、ホームズさんまで」
「私たちに『逃げろ』と言ったのは自分たちまで寝てしまうからでしょう。なんというか・・・・変わらないものです、カレは」
「(色々と問題作だなあ・・・・)」
マヤは気持ちよさげな顔で眠るホームズの頬をつついてみるが、彼が起きる気配は一向にない。先程までの心配が全てムダのようにも感じたが、ホームズのおかげで賊の脅威から救われたのも事実である。ともかく、今はこの《死神》の手先たちをどうにかすることが先なのだが、グレグソン刑事の一件で《
「どうしますか?この賊・・・・警察に突き出すのも難しいと思いますがね」
「ううん・・・・そうですね。でも一人だけ、信頼できる警察官がいます。彼女にお願いしてみましょう」
「・・・・“彼女”・・・・?」
首を傾げる御琴羽悠仁に、マヤはひとまず賊たちがこれ以上身動きできないように、どこからともなく取り出した手錠を順々に掛けていく。そして、最後ホームズにも手錠をかけ終えた彼女は、大人数用の馬車を呼んで彼らを目的地まで連れていくよう御者に頼んだ。その一連の流れを見ながら、呆気に取られた御琴羽悠仁は「・・・・イマドキの婦女子は、なかなかに豪胆ですね」とやはり舌を巻きながら、彼女と共に馬車に乗り込むのだった。目指すはイースト・エンド。スリの子供たちが身を寄せ合う、あの路地裏である。