被告人夏目漱石の審理は無事に終了した。誰もが予想だにしない展開だったが、それは誰もが疑う余地のない真実でもあった。
裁判には負けたが、マヤは今まで体験したことのない清々しさに身も心も包まれていた。負けたことに微塵も憤りなど感じない。なぜなら、今日明るみに出されたものは紛れもない真実だからである。
検事局の廊下で、そのような余韻に浸っていたマヤは、どこか嬉しそうに笑いながらバンジークス卿に語りかける。
「今日の審理は、色んな意味でドキドキしました。龍ノ介さんは相変わらず、目が泳ぎっぱなしでしたが」
「・・・・マヤよ」
「はい?」
「そなたは、最近よく笑うようになったな」
「え。・・・・そ、そうでしょうか?」
首を傾げるマヤの足元には大きな袋が置かれている。その中には、バンジークス卿が今回の審理で投げ捨てたグラスや瓶の破片がぎっしりと詰まっていた。
「最近・・・・特に、この2日間だ」
「それは、偶然私の機嫌が良いだけとか・・・・」
「では。その機嫌が良い原因を私が当てるとしよう。・・・・あの極東の留学生たち、だろう」
普段は聞かないような冷たい声のバンジークス卿に、マヤは思わず閉口した。それを肯定の証と取ったのか、バンジークス卿の声色はますます冷たくなっていく。
「・・・・あの者たちもそうだ。日本人というのは、同朋に並々ならぬ思いがあるようだからな」
「バ、バンジークス様!お待ちください。私は決して、日本人に同調しているわけでは・・・・!」
いつもならば、マヤの歩幅に合わせてゆっくりと歩くバンジークス卿だったが、今日は彼女に構わず、彼自身の速さで歩いていく。マヤはバンジークス卿の後を必死に追いかけようとしたが、その前に破片の入った重い袋を持とうとして、思わず指を切ってしまった。
「痛・・・・っ!」と呻くマヤに、バンジークス卿は思わず足を止める。
「・・・・・・すまない。今の失言は、どうか忘れてほしい」
「とんでもありません。バンジークス様が謝る必要など、どこにもないのに・・・・」
マヤの指先から赤い血が綺麗な曲線を描いて流れ落ちていく。バンジークス卿はマヤの指を手に取ってから、どこか悲痛な面持ちで眉根を寄せた。
「痛むか」
「大丈夫です。ちょっと切ってしまっただけですから・・・・」
これまで、重い荷物をマヤに持たせることは決して無かった。淑女に怪我をさせることなど、英国紳士としてあってはならないことであり、彼女に葡萄酒の入った樽だけは触らせたくないのも、大部分はその理由である。
「バンジークス様が、そのように私のことを気にかけてくださるだけで、私はとても幸せです」
「・・・・・・・・」
だが、穏やかに微笑むマヤの顔は、やはり2日前までの彼女とは別人に見える。その事実がどうにも重く、苦しい。
「・・・・あの、バンジークス様?」
マヤの声で、バンジークス卿はハッと我に返る。気づけば、彼女の血をじっと見つめていたようだった。
「・・・・執務室に膏薬があったはずだ。それを塗るといいだろう」
「は、はい」
切っていない方のマヤの手を取って、バンジークス卿は歩き出す。不覚にも、彼女の血の色を確かめてしまった己の卑屈さを恥じた。血の色など、己と彼女で違うはずもないのに。
執務室に着くと、バンジークス卿はマヤを椅子の上で座らせ、待つように言い渡す。そしてデスクの中から取り出した膏薬を持ってくると、彼女の前に跪いた。
「・・・・お手を、
「あ。あの、バンジークス様・・・・・・」
いつもとは少し違う雰囲気のバンジークス卿に、マヤは思わず困惑する。だが、バンジークス卿は、自分の手袋を咥えて外すと、そのままマヤの手を優しく取った。
青白く大きな手が、自分よりも小さな白い手を包む。冷えた指先で膏薬を取ると、彼女の傷口に優しく塗りこんだ。膏薬のツンとした匂いが鼻を刺す。
裁判も終わり、外は闇に包まれているのだが、そんな中でも月だけは青白く、どこまでも光を届けるのだから不思議なものだ。
薬を塗り終えると、マヤは「ありがとうございます」と言って、手を引っ込めようとした。だが、バンジークス卿は未だ彼女の手を掴んだまま、離そうとはしなかった。ただ、彼女の目を、その青みがかった灰色の瞳でジッと見つめるばかりである。
本当に、一体どうしてしまったというのか。見つめられる側のマヤの胸も、ドキドキと少しずつ高鳴っていく。これも全部、月のせいだろうか。今日は、倫敦の街にしては珍しく霧が薄く、いやに月が綺麗に見える。
ふと、バンジークス卿が目を閉じた。そして、彼女の手の甲にそっとキスをする。
冷たい唇だった。まるで、本当に死神のような・・・・だが、それに反してマヤの顔は熱く火照っていく。胸の高鳴りがこうもうるさくては、きっと彼に聞こえてしまうだろうと思うぐらいには。
「・・・・・・マヤ」
そのまま、バンジークス卿は立ち上がってマヤの顎を掬った。これから何をされるのか、彼女も分からないわけではない。
空いた片手でマヤの髪を耳にかけると、彼女の目線がまたもやドギマギと動く。バンジークス卿がそれを見てフ、と笑うと、彼女はハッとしてから、ゆっくりと目を閉じた。
「失礼します、トバイアス・グレグソンです」
しかし、その時執務室の扉が強くノックされた。扉を開けたグレグソン刑事は、執務室の中を見て、はてと首を傾げる。
「二人とも、」
「い。い、いいえッ!ナンデモアリマセン!決してなんでも!そのようなことは決してッ!」
「・・・・まだ何も言ってないんだが」
グレグソン刑事が辺りを見回すと、真っ赤な顔で気が動転して騒ぐ助士もいれば、窓際で自らの顔を隠すように覆う検事もいる。グレグソン刑事は「・・・・・・ははぁ」と何かを察すると、極めつけにこんな爆弾を投下した。
「真冬なのに今日はヤケにあついですな」
「!!」
その後は、グレグソン刑事の報告も全てが右から左へと流れていく始末。マヤはぼんやりとした頭の中で、先程の白昼夢のような出来事を思い返す。
「(バンジークス様が、私に・・・・・・)」
こんなこと、初めてだった。自分は今まで、彼の助士として誇りを持って働いてきたはずだ。そこに恋愛感情などなかったはずである。
「(・・・・でも。嫌では・・・・)」
そこまで考えて、マヤは自分の中に湧き上がってくる邪念を打ち消す。
彼女のなかでは、そのような感情は決して許されないことであった。
「(だって。バンジークス様を《死神》にしたのは、私なのだから・・・・)」
倫敦の街には、濃霧が再びかかり始める。マヤは美しい街並みが微塵も見えなくなってしまった窓の外を見ながら、自分の心にも濃霧がかかっていくのを感じていた。