「ーーーー」
分かっていたことだった。そんな簡単にハッピーエンドを迎えられる筈がないって。
ーーーああ、今が死に時だ。
そう、錆兎が崩れ落ちた時に、すぐに理解した。
上弦の鬼、それも、上弦の壱との戦闘で、彼を庇いながら、負傷した自分が戦えば、恐らく、最悪の結果になってしまう。
それなら、自分は、どうするべきなのか、そんなのわかり切ったことだ。
『上弦の壱、おねがいが、あります』
彼は元々私を連れ去りに来たのだから、私が大人しくついていけばいい。
『ついて行きます、大人しく。だから、彼を、殺さないで、誰にも、これ以上、手を、出させないで』
『俺がその申し出を受けなかったらどうする』
『今すぐに、心臓を引き裂いて、自害する』
『………』
彼等にとって、今の私は貴重な情報源にほかならない。そんな私が死んでしまえば、折角の不老不死への手がかりがなくなってしまう。それは、鬼舞辻にとっては大きな損害だ。考え込んだ目の前の鬼は、虫の息の錆兎を一見して、私に目を向けた。
『いいだろう、だが、逃げぬように貴様の足は切り落とす』
『構わない、それでいい……最後に、彼と話させて、止血だけでいい、やらせて』
『……早く済ませろ』
じっと見つめるだなんて野暮なことはしないらしい。刀を鞘にしまった彼は、私たちから顔を背けた。刀傷だらけの、意識をぎりぎり保っているらしい錆兎に近づき、私は他人に使うには最後になるだろう、癒しの波紋を彼に浴びせる。
会話を聞いてたのだろう、錆兎は、絶望に染った顔で、私の事を見ていた。ぎりぎり動かせたのであろう血まみれの手で、私の、波紋を流している手を掴んだ。
それには、いつものような力強さも温かさはなく、冷えきった手で弱々しく、震えていた。
『や、めろ、がふう、いくな、』
『…………』
『おれ、の、こ、とは、きに、するなっ、にげ、ろ』
途切れ途切れに彼は、息をするのも苦しいだろうに、言葉を繋げる。痛みからなのか、悔しさからなのか、これから私が死にに行くことを察してくれてなのか、彼は、私を睨みながら、目じりに涙を浮かべていた。でも、ごめんね、錆兎。
私は掴まれていた手から、片方の手を抜いて、彼のあたたかな頬に触れた。目じりの涙を拭って、ああ、やっぱり、彼には生きて欲しいな、と思った。
それと同時に、彼の笑った顔をちゃんと、目に収めたいと思ったのだ。最後のお願いだといえば、彼は、やっぱり怒って、大きな声を上げて苦しげに噎せた。
最後にはしない、だから、と、言うけれど、でも、それが無理なのは彼が一番分かってるだろうな。
悲痛に歪む顔に、必死に私を行かせまいとする声に、段々と、胸に思いが燻る。
ねぇ、錆兎、締め付けりる様な気持ちを、なんと言うのか、君が、私に向けていたそれがどんな思いなのか、私ね、知ってたんだよ。ずっと、ずっと前から、知ってたの。
彼の身体を巡る波紋が、止血を終えた時、未だにやめろ、行くな、と声を上げるその口に、私はそっと、唇を合わる。目を見開いて驚いた錆兎は、私の手を握る力を強めて、ぐっと目じりを歪めて、今にも泣きそうな顔をした。初めてのキスは、檸檬味だなんてことはなく、ただただ、彼の血の味がした。
合わせるだけの口付けは、一瞬だけど、長い時間のように感じた。唇を離した後には、鼻にツン、としたものを感じて、それを抑えるように、一瞬、きゅっと、唇を引き結び、それから、私は、自分の想いを初めて溢した。
『すきだよ、錆兎、』
そう言って、今できる、最高の微笑みを浮かべる。貴方の中に残る私が、記憶に残るモノが綺麗なものであって欲しかったから。
瞼が熱くなって、ぼやける視界の中で、彼は、何かを言おうと口を開き、それを止めるように、ばちんと音を立てて、波紋で錆兎の意識を落とした。きっと、聞いてしまったら迷いが生まれてしまうから。
こぼれるものを振り払い、最後に見た錆兎は、やっぱり、、つぅと、涙を流し、幼い表情で眠りについていた。
『もういいだろう』
鯉口を切る音がした。ああ、時間だ。
振り返った瞬間に、刃が私の膝から下を切り落とすのを、血飛沫が辺りを汚すのを見た。
襲いくる激しい痛みの中で、ごめんなさい、と心の中で懺悔する。
痣を発現させるのには、切っ掛けがいる。それは、誰かを強く思ったり、乗り越えることで得られるモノ。
私はね、錆兎……ずっと、君なら、痣が発現するんじゃないかって、そう思ってたの。
だから、これは、自分の気持ちと、君の気持ちを利用した、今の私に精一杯。最後の布石。
本当はね、伝えるつもりはなかったんだよ。一生、しまっておくつもりだったの。
ごめんね、錆兎、狡い形で君の中に残る選択をしてしまって、好きだよって、伝えてしまって。
目を覚ました時、君が私の切り落とされた足を見た時、一体どんな気持ちになるのかな。泣いてくれるのかな、悲しいって、やっぱり思ってくれるのかな。
後悔をして、強くなろうと、足掻いてくれるのかな。
君の心に残った私を乗り越えて、彼らを倒してくれるのかな。
最後にはちゃんと生き残ってくれたら、それで私は満足だよ。
ねぇ、錆兎、君が私のことを心配してくれるの、実は少し照れくさかったりとしたけど、とっても、嬉しかったの。
だって、好きな人に大切に扱われてるみたいだったから、なんて言ったら、君は怒ってしまうんだろうね。
私はきっとすぐに彼岸花のことが偽物だとバレて惨たらしく殺される。鬼にされたとしても、体の中に残留する波紋のエネルギーで体がばらばらに砕け散る。どの道、捕まった私には死ぬ道しか残ってなかったんだ。
だから、あとは頼んだよ。自分本位で本当にごめんなさい。きっと、君にとってのハッピーエンドには程遠くなってしまった。
それでも、せめて、トゥルーエンドで終わらせて欲しい。君は、私が最後に残した切り札だから。
でも、やっぱり、心残りといえば、最後に見るのは君の笑った顔が良かったな。
◇◆◇◆◇
「うっ、ぐっ、ーーーっ!」
膝から下にかけて綺麗に切り落とされ、激痛の走る中、私は無限城に連れてこられ、座敷牢に転がされていた。
応急処置として巻かれた止血用の布はもう真っ赤に染まり、畳は布から染みたそれで赤黒く変色していた。
額から脂汗が滲んでくるのがわかる。痛みと血液が減ったせいで背筋に氷が当てられたような寒気が走る。
荒い呼吸を整えて、切り落とされなかった木製の手枷の着いた両手を、切られたそこに当てる。じくじくと焼けるような痛みが緩和されていくのを感じながら、せめて止血だけでも終わらせようと波紋を強めた。
その時────────
「ほう?それが例の呼吸法か」
「!!っ、」
紅梅色の猫の様な目を細めて、こちらを見下ろす鬼舞辻無惨が、そこに居た。
濃厚な、今までにない突然現れた鬼の気配に唾を飲み込む。
「その光はなんだ、なぜ鬼を溶かす」
「……」
「なぜお前はあの花を見つけられた」
強い口調で彼は私を問い質す。ああ、そうだね、やっぱり、臆病者のあなたならすぐに来て真相を確かめようとするだろうね。
木の格子越しに、彼を見上げ、私は汗で髪を張り付かせながら、相手が怒りを抱くように、態とにっこりと笑って答える。
「そう、簡単に、答えると思う?」
「…………」
能面を貼り付けたみたいにピクリとも顔を動かさない鬼舞辻は、けれど、確かに苛立ちを抱いて、それを私に向けていた。
「残念だけど、話す事は、何も、無い」
「それを決めるのは私であって貴様でない、貴様の選べる選択肢はただ一つ、私に知っていることを全て話すということだ」
反論は認めないとばかりに目を細め、ずっしりと肩にくい込むような威圧感を私にかけてくる。
でも、そんなことを言われても、言うわけがない。血塗れの手で、畳を擦り、まだ乾いていなかった血で文字を描きながら、ギリギリまで格子に近づく。カラカラと頭上に天井にある滑車が音を立て鳴り、ガシャンッと、鎖が伸びきる軋む音がし、あと数センチで格子に手が届く距離で止まった。
「哀れだね、鬼舞辻無惨」
「……いま、なんと言った?」
「君は可哀想な人だと、そういったんだ、よっ!!」
「!!?」
止血のために流していた波紋を止め、掌に集めていたそれを、一度に床に一気に流す。障害物は多いけれど、バチバチと音を立てた波紋は床を、格子の表面をつたい鬼舞辻の方に伝っていく。
目を見開いた彼は、一瞬その攻撃を受けるも、身体の一部を肉塊として切り離し波紋が全身を伝うのを避けた。
せめて一撃を入れてやろうと思ったが、やはり、そう簡単にはいかないらしい。
溶け崩れる身体を見た鬼舞辻は目を鋭く細め、私を目に撮した瞬間──────
「っ!?」
急に滑車がガラガラという音を立てて火花が散るんじゃないかという程に強い力で鎖が引かれる。身体が引きずられ、畳に傷口が剃られ、腕の付け根からごきりと嫌な音が鳴った。
「ひっ、っ」
体が不安定に宙ずりになり、腕に自重で激痛が走る。右手の感覚が鈍い、脱臼した、のか……
歯を噛んで、左手を握りしめる。痛みで涙が目に浮かんできた。
そうしてるうちにも、耳には戸を開ける重い音が聞こえる。あいつが中に入ってきたんだ。私は彼と目線が合う高さに吊り上げられたらしい。眼前に鬼の目が見える。
「覗き見ていただけでは分からなかったが、陽の光と同じものか」
彼はそう、忌いましいとばかりに吐き捨てる。
「まあいい、貴様の呼吸については見て知っている、身体の末端からでしか出せないこともな……そして、身体の中で巡っている事も」
「!……」
「貴様では色々実験をしてみたいと思っていた、陽の光が体内を巡る女が、鬼になればどうなるのか、鬼の子を宿せばどうなるのか」
「……は、?」
今、この人なんて言ったの?
その時、私は彼が、モルモットを目の前にした学者の様な目をしている事に気がついた。
考えてみればそうだ、その可能性は確かにあった。太陽のエネルギーを身体に秘める人間を、彼が実験動物として見逃すはずがなかった。
鬼は元々人であり、確か、童磨は好んでまぐわいの最中に女を食べていた。そういった欲は個体差はあるが、あるにはある、という事なのだろう。
「水子となる事が多いが……まあ、時間はある。日を克服するのに仮であっても陽の光を使うのは合理的だろう?」
「無駄なこと、私の波紋は鬼そのものを溶かす、お前らの子なんてなせるわけが無い!!!」
「それはやってみないと分からないだろう?それに、おまえのそれは、呼吸法が出来ている時だけ巡るもの……」
────骨髄まで余すことなく使ってやろう、そうすれば生意気な口も聞かず、いずれ大人しく話してくれるな?
そうだよ、なんで考えなかった?
相手は鬼、死ななければ永遠に時間がある。長期戦を前提にしていても不思議じゃなかったっ!!
それに、この様子だと例え煽ったとしても私をこいつが殺すことは無い。癇癪は起こさせることは出来るけれど、殺されるまでは至らないっ!!
チェシャ猫のように目を細めて笑う鬼を見て、あ、やばい、そう私は思うと同時に無意識に自分の舌を噛もうと歯を立てた。
ガリッと音を立てて血の味が口の中に広がる。けれどそれは中途半端な状態で止まることとなった。鬼舞辻に口を無理矢理開けさせられ、布を詰め込まれたからだ。
「ふむ、舌を噛み切られては面倒だな、後でちゃんとした口枷も付けさせるか」
何処まで耐えられるのか、そうクスクスと笑う男に、体が震えた。恐怖や、悔しさや、嫌悪感で目の前が滲む。
突然の浮遊感と共に畳に叩きつけられる。また、ごきりと音を立てた脱臼した腕に、切断された足に鈍い痛みが走った。
誰かを呼びに行くのか去っていく奴のことを視界の端で目に止めながら、痛む体でまるまった。
いやだ、いやだ……っ!あいつはどうやっても私の心を折る気だ。どんな方法を使っても殺さず生かさず、利用するつもりなのが嫌でもわかる。
「っ、ぐぅ、ぅっ」
目をぎゅっと強く瞑れば涙がこぼれて頬を伝った。
瞼の裏で、焼き付けた錆兎の姿を思い出す。私は、ずりずりと音を立てて、自分のまだ動いてくれる片方の手を、頭に当てるように丸くなった。
────錆兎、
この方法は、本当は使いたくなかった。きっと私は彼の事も何もかも、記憶に残すことが出来なくなるから。
飼い殺しに、嬲り殺しになるくらいなら……私は私の脳を破壊する。
脳内の電気信号を高圧の波紋……電気によってとち狂わせる。
記憶を引き出し暗示をかけることができるなら、その略も然り、無理やり記憶に蓋をして、ぐちゃぐちゃにかき混ぜて使い物にならなくすることもできる。廃人になった人間なんて使い物にもならないだろう。
これが鬼舞辻へのせめてもの抵抗だ。ざまあみろ、お前の思い通りになんてなってたまるものかっ!!
大きな電気の音を立てる手で、私は自分の頭に触れる。衝撃や、目の前がスパークして真っ白になり、頭がぐちゃぐちゃになる度に意識が遠のきそうなになる。
「ゔっうううっ!!ぐっ、うっ、!」
まだ、まだだよ、もっと、もっと強く波紋をながすの、何もかもめちゃくちゃになるくらいに!!
口枷の布を噛み締めて、声を殺して、楽しかった事、悲しかった事、苦しかった事、嬉しかった事、出会った人達との思い出も、愛おしいと思えた時間の出来事も、何もかもを崩し去る。
忘れたくないと思う、心から、でも、もし、記憶を盗み見られたら、心を覗かれたのなら“これからの記憶を盗み取られたら”どうなるか、安易に想像がつく。だから、私は全てを忘れなくちゃならない。
涙が止まらなかった。波紋の光が私の記憶を消していく。ぱちぱち、ぱちぱちと弾けながら、記憶のしゃぼん玉を割っていく。
───さびと、さびと、
脳裏にうかんだ最後の記憶、彼と初め会った時は、月の光に照らされる宍色をみた。狐の面を付けた彼は、人を助けてすぐにその場を去ってしまった。
去っていく背中を私は思わず見ることしか出来なかったのだ。まさか彼に会うだなんて思ってなかったから。
見過ごすことが出来なかった、だから助けた。
でも、今思えば私は自分の存在を肯定する何かが欲しかったのかもしれない。
存在がはっきりしない、ふわふわと宙を漂うだけの私がちゃんと地に足つけていられるような。生きていていいよと言ってくれるような。
あの時君が笑ってお礼を言ってくれた。それが私の救いだったの。
──────さびと、錆兎
最後に目に収めたあなたの幼い泣き顔も、全部全部無駄になっちゃったね。もう君の顔もわたしは思い出せない。
大好きな人、私の愛おしい人、今度こそ、さよならだ。
目の前が真っ白になり、ぱんっと、頭の中で大きな破裂音がして、目の前が黒に塗りつぶされた。
▪
雅風は、脳を自分で弄り回し、記憶の全て滅茶苦茶にかきまわし、鬼舞辻が見れないように破壊した。強い波紋を送ったために、脳はほぼ壊死しかけ、その直後、鬼舞辻が戻ってきたのだ。
虚ろな目で生気のないその様子に、彼は苛立ちながら、彼女を延命させようとした。
その為に、雅風の口に自分の血液を大量に流し込んだのだ。口から入ったそれは、沸騰したように蒸発するが、一部、蒸発せずに奇跡的に彼女の体の中に取り込まれた。
結果的に、その血液が体の構造を変え、失われた足は元あったように生え、壊死していた脳は回復したのだ。
だが、彼女の記憶は戻らなかった。空っぽだったのだ。器が粉々に割れて水が全て零れ落ちたように、雅風自身の目論見通り、何も覚えていなかった。
鬼舞辻は激怒し、幼子のように泣き叫ぶ彼女を、数度体をバラバラに解体した。鬼の体ならば死ぬことは無いからと、鬱憤を晴らすように。
そして、最後には太陽の光に当てたのだ。だが、驚くことに彼女は完璧と言わずとも、1時間もの間、その光を耐えて見せた。
彼はそれを見て目を見開き、そして歓喜した。克服までとは行かなくとも、彼女はそれの為に使えるモノだと。己が太陽を克服するために必要ないい実験材料だと。
空っぽだったその器に、新たに鬼舞辻は名を付けた。曼珠沙華、自分を不変のものにする、可能性のある花の名を。
♢♢♢♢
「いやぁぁぁぁあ゙っ!!!!!」
甲高い少女の叫び声が薄暗い座敷牢の中で響き渡った。
はらはらと涙を流す声の主である彼女は、浅く呼吸を繰り返して、ぐにゃぐにゃに砕かれた右腕を庇うように手を当てる。
そんな風にして蹲る彼女の前には鬼舞辻が苛立たし気な表情をして立ち、額に血管を一筋浮き上がらせると、泣き喚く彼女の髪を焼き爛れた手のひらで掴みあげた。
ブチブチと嫌な音をさせて、ひぎっと痛みに声を漏らす彼女は、恐怖で体が震え、カチカチと歯を鳴らす。なされるがままの彼女を瞳孔の開いた紅色が睨みつける。
「抵抗するなと何度言えばわかる」
「っ、ごめん、なさ、っぅう、ご、めっん、な、さ、っ」
謝罪を述べる彼女を三め布団に叩きつけた。
苦しげな声を漏らし体を数度バウンドさせ、緊張で心音を大きくさせながら、ぎゅっとキツく目を瞑る。
無意識に出てしまう“波紋”を抑えるように、息をする彼女に、彼女のそれのせいで焼けた肌を再生させた鬼舞辻が覆い被さった。
「安心するといい……大人しくしていれば子を作る実験だけで済む、でなければそれに加え、藤の花と陽の光……どちらかを投与するか浴び続けるかになるが……分かっているな?」
「っ、」
忌々しい藤の花が短時間だけでも日の光を浴びれる鬼には有効なのか、そして、太陽を浴び続ければ耐性があがるのか……一度藤の花を無理矢理胃の中に入れられた彼女は吐血し、死ねないまま体を毒に内側から蝕まれる苦しみを味わった。
太陽はに焼かれた時は全身燃えたのにも関わらず、痛みで気絶も何も出来ず、永遠と繰り返される痛みに叫び声をあげることすらままならない激痛を味わった。
体の肉をサンプルとして取られることもあったが、でも、その中でも藤の花と陽の光、は彼女にとって強い恐怖の対象でしかない。
けれど、子を作る実験、それをしようとする度に雅風は鬼になる前の記憶がないにもかかわらず、その事だけは無意識に拒否し、強行されようとした時、身体に波紋を流してしまう。
それは彼を苛立たせる行為でしかなく、いつも、身体のどこかを酷く痛めつけられたあとに大人しくするか、抵抗するかを選ばされる。その時のみ、恐怖で体が支配され、呼吸が上手く使えなくなるからだ。
遅れて治った己の血で汚れた震える手で、乱れた着物の帯を解けば、見下ろしてくる彼はうっそりとした笑みを浮かべ、「いい子だな、沙華、それでいい……」と、そう言って彼女の首に歯を突き立てた。
❀✿❀✿
行為が終わる頃には、いつも彼女は鬼だというのに、身体や、精神にかかる負荷で気を失っていた。
「…………」
鬼舞辻は無言で、子種をたっぷりと仕込んだ腹を指先で撫でる。
ぴくりと身体を震わせて反応する雅風に、舌舐めずりをしながら、まだ清潔な、体液の着いていない布に彼女を包むと抱き寄せ、真っ赤に晴れた目元に長い舌を這わせた。
涙の跡をなぞり、味わう様に、ぴちゃり、と音を立てて……
その行為をした時、フルリと、長いまつ毛が揺れて、ぼんやりと濁った色をした藍山摺色が鬼舞辻を見上げた。
「……、むざん、さ、ま、」
「あぁ、沙華……よく受け入れてくれたな……」
行為の時とはうって変わり、優しげな声を出す彼に、小さく頷く。
「これで着床していなければ、またすることになる……分かっているね?」
「は、い……わかって、いま、す」
「これも“全てはお前の為”だということも、わかっているね?」
瞳の色を濃くして、瞳孔を大きくしながら、そういう彼に、また、はい、と暗示にかけられたようにただ彼女は頷いた。
「私の曼珠沙華……それでいい……───────お前の存在理由は“私に必要とされる事”……そのことを忘れるな
安心するといい……お前が従順な限り、“お前は私の特別”になれる」
いつも、いつも、彼はそうは最後に彼女に囁く。何重にも細い糸をきつく体にまきつけるように、呪いをかける。
より強固に、どの鬼よりも強く、強く、自分に依存させるように……
酷く、喉から手が出る程求めても、手に入れることが出来なかった可能性が、憎たらしい太陽が、いま、私の腕の中にある。
────逃がすことなど、誰がするものか
紅梅色の瞳がぎらりと光り、縦に裂けた黒い瞳孔が大きくなる。
抱きしめる力を強くすれば、彼女は再び目を瞑り、彼の胸元に顔を寄せ、はい、とまた頷いた。
頷くこと以外、彼女には選択肢がないのだから。
♢♢♢♢
嘘だと、そう思いたかった。生きて欲しかったと願った彼女は、記憶を失って、鬼に成り下がってしまっていたのだから。
真っ赤な花弁を素足で踏みながら、雅風は言った。
「私は曼珠沙華、沙華があの人がくれた私の名前、私の全て」
そう温度のない虚ろな目で笑う彼女は、俺の知っている彼女とはかけ離れていた。あの途切れ途切れの話し方は同じでも、姿かたちが同じでも、あの、雅風は、俺の知っている、愛した女は、死んでしまっていたのか?
俺がもっと強ければ、力があれば、彼女は連れていかれずにすんだ。彼女を鬼にせず、済んだのではないか。
強い後悔の念を抱きながら、俺は、刀の柄を強くにぎる。カタカタと刀身が音を立てた──────
◆
『すきだよ、錆兎』
そう下手くそな泣き笑いを浮かべた彼女は、俺の返事を返す前に消えてしまった。ずっと欲しかったその言葉を、なぜあの時言ったのか。
アイツが誤魔化していたことは知っていた。
ずっと見ていた。口元を隠しながら照れ笑いを浮かべる愛おしいその横顔を……
いつか、いつの日か、俺の方から伝えるつもりだった。お前の事が好きだと、愛していると。
なあ、雅風、お前はどんな気持ちで俺にその言葉を言ったんだ?
何故、返事を言わせてくれなかったんだ。
『さびと』
お前が消えたあの日から、お前は俺の中にいる。ずっと、ずっと、この胸に、締め付けられるような後悔を残して……
◇
「君はおかしいね、会ったことないのに、知ってる匂いがする」
「ーーッ!、お前が忘れてしまっただけだッ!!思い出せッ!!!お前はここにずっといた訳じゃない!!鬼舞辻に騙されているんだと何故分からない!!」
「なんでそんなことを言うの?私は、君のことなんて知らないのに」
「お前が知らなかろうが知ったことかッ!!」
大火傷を負って生死をさまよった時、俺は胸が張り裂けそうな思いだった。
お前はいつも、自分の命より他人を優先していた。傲慢な程に、人を助けるのが当たり前だとお前は言った。
俺はそんなお前が正直嫌いだったよ。自分を、自分自身だけを考えて欲しかった。いつの日か、お前が壊れてしまう日が来てしまいそうだったから。
俺がなんでそこまでするんだと聞いた時、お前は、『誰もが最後に幸せになる終わりがいい』、と、そう言ったな。
なあ、雅風、その、誰もがの枠組みに自分は入ってなかったんじゃないのか?
お前の考える幸せの中に、なんで自分自身が含まれていないんだ。
◆
「雅風ッ!!!お前はいつもそうだ!!勝手に居なくなり、他人に心配ばかりかけるッ!!!」
「だから、沙華だって言ってるのに、知らないって言ってるのに、しつこい人だなぁ」
「いいや!お前は雅風だっ!!」
「だから、ちがうってっ!!」
「なら何故周りの隊員を殺さなかった!!とどめを刺さなかった!!」
「それは、」
動きの一瞬止まった彼女に、俺は追い打ちをかけるように刀を振るった。脇腹に入り、雅風の軽い体は簡単に襖の向こうに飛び、大きな音を立てて転がった。
「心のどこかで分かっているんだろッ!!殺してはいけないと!!お前の中に、まだアイツはいる!!お前が忘れているだけで、記憶はまだそこにあるっ!!」
「ーーっ!!勝手なこと、言わないでよっ!!」
そう吠えるように言った雅風は、どこか、なにかに脅えているようだった。
そして、振り払うように頭を振る彼女は、俺をきつく睨みつけ、己の獲物である鉤爪を構える。
同時に畳を蹴り上げるように駆け、高い金属音を立て、刃を交えた。刃が擦れ火花が散り、ギチギチと音を鳴らし、睨み合う。
「わたしは曼珠沙華、そうでなくちゃ!!いけないんだっ!!」
悲痛な叫びの様だった。刃を押し、後ろにさがった雅風の足元から、真っ赤な花弁の花弁が浮き上がり、宙を舞う。
「君と話してると、頭が痛くなってくる……いい加減、死んでッ!!」
花弁は俺に向かって鋭い刃となって襲いかかる。
────陸ノ型 ねじれ渦
体を大きく捻り、それを一気に解くように斬撃を放つ。けれど、操られている細かな花弁を全て切り捨てるとまでは行かない。漏れたそれは、俺の体を削るようにして傷つける。
花吹雪の嵐の中にいるようだった。
◆
切れた傷口から舞った紅色が、畳を汚す。
自分に近づくなとばかりに赤色を散らし、彼女は距離を置いて刀を振るう俺を見ていた。
毒も混じっているのだろう、傷口から入ったそれは、焼けるような痛みで身体を蝕んでくる。
あと少し、手を伸ばせばアイツに届くというに、なんと歯痒い事かッ!!
何故、後一歩が届かないッ!
──────『君らしくないね』
膝を着きそうになったその時、声が聞こえた気がした。
耳元にひとつの赤に交じる白い花弁が通り過ぎる。
ああ、そうだな、らしくない。俺らしくなかった。
お前はいつも、張り倒すまでやらなければ聞かないやつだった。喚くだけなんて誰でも出来る。
膝が震えようと毒が回ろうと、何度でもお前を張り倒して、喝を入れて、怖がりで臆病なお前を迎えに行こう。
俺は俯いた視線を再び雅風に向けた。
体が熱い、鼓動がドクドクと心臓が弾けてしまうのではないかと言うほど、速くなる。
それは、そう
──────痣の出現の前兆だった。
◆
俺は駆けた。雅風に向かって。
向かってくる花弁は驚く程にゆっくりに見えた。それを振り払うように切り裂いて、あいつの眼前に迫る。怯んだ彼女の鉤爪を弾き、手首を掴み、その場に張り倒した。
「な、にをっ!?」
「俺は何度でもお前に言おうッ!!思い出せ!!あの日、あの時、俺と出会った時!!俺はお前に助けられた!!」
背中に痛みが走る。けれどそんなの知ったことかッ!!
「負けるなッ!!鬼舞辻に、呪縛に打ち勝ってくれッ!!」
「っ、は、なせ、!!このっ!!」
暴れる体を無理やり押さえつける。暴れる、涙を目に溜める彼女に、俺はその叫ぶ口を、己の口で塞いだ。驚き、動きを止め、雅風は目を零しそうなほどに、見開いた。
いつの日か、孤児達に贈るんだと持ってきた本があった。その話を読んだ時、なぜ最後にはこういう終わり方をするんだと聞いたら、彼女は答えた。
『うーん、やっぱり……それは、好きな人の、口付けが、愛おしいと思う情が、呪いを解く鍵なんだろうね、
だって、それって、とっても、浪漫があるでしょ?
女の子はみんな、憧れることなんじゃない、かな……』
恥ずかしそうにそういった彼女のことを今でも覚えている。そんな事で呪いが解けるのは夢物語だけだけだけどね、と。
あるかもしれない夢物語に縋るなんて酷く女々しいことだろう。
けれど、もしも彼女が思い出してくれるなら、俺はもう一度彼女に会いたい。もう一度、あの告白のやり直しをさせてほしい。
2回目の口付けも血の味がした。触れるだけのものだったけれど、俺の中で雅風を求める気持ちは、変わらず強くなるばりだった。
唇を離したその時、彼女は酷く泣きそうな顔をしていた。
そして─────
「さび、と、?」
そう彼女の口から出た言葉に、俺はぐしゃりと顔を歪めた。
❀✿❀✿
彼女の記憶は確かに消去された。そう、消去されたはずだった。
あの時、鬼舞辻が血を分け与え、彼女の体を変質させた際、脳が再生した。記憶の領域の再生も、その際行われていたのだ。
けれど、彼女は強く忘れることを望んだ。鬼舞辻の手が届かないように、すこしでも、この先のことを彼に知られないように、自分の心が読まれないように。
それと同時に忘れたくないと思ってしまった。強く彼を望んでしまった。
脳の遥奥底にしまい込んだ記憶を蘇らせる方法、それは、あの時、あの瞬間、彼女が強く思い浮かべた光景、記憶を呼び覚ますこと。
錆兎から口付けをかわされた瞬間、彼女の脳に暗示のために働いていた波紋が強く弾けた。
頭をパンクさせようとするほどの情報が、思い出が、記憶が、断片的にだけれど彼女に戻っていく。
彼女の心にも、ちゃんと彼はいたのだ。
目の前に光が散る度に、体にこびりついた黒い糸は解れ、ちぎれていく。心を縛っていた呪縛を払うことが出来たのだ。
忘れていい記憶なんて、忘れたくない記憶なんてひとつもなかった。
正気を取り戻したその時、彼女が最初に見たのは、名前を呼んだ彼の、酷く泣きそうに歪んだ顔だった。
けれど、鬼舞辻とてそれは予期していた。彼女が自分の呪縛を解いてしまうかもしれないことを。
竈門禰豆子という完璧な太陽を克服した鬼を見つけたことにより、彼女は既に用済みとなっていた。
陽の光を使える隊士など、彼にとっては天敵でしかない。
もしも、もし、彼女が自分の呪縛を解いてしまったら、その時のことを考え、彼は対策をとっていた。
それは酷く残酷な
───────覆しようのない死の宣告
◇◆◇◆◇
正気を取り戻した雅風は、直ぐに俺の治療を開始した。鬼である彼女でもこの力は健在だったようだ。幸い、他の隊士は気絶をしているだけで、俺の治療を手早く、いつもと同じように終わらせた。
ここにとどまっている訳には行かない、そう、雅風に言い、ここから出よう、と俺は告げる。
けれど、彼女は俺の言葉に、首を縦に降ることは無かった。申し訳なさそうな、覚悟を決めたようなその表情に、酷く嫌な予感がした。
「ごめんね、私の体は、もう、もたない…沢山、いじられてしまって、ガタが来ていたから……」
何を言っているのかわからなかった。口を開けるまもなく、俺の手を握る彼女は、強く、波紋の光をそこに集中させる。
「だから、これが
────私の、鬼殺隊、陽柱としての、最後の仕事」
「!、何を、?!」
彼女の波紋が俺を包んだ。治療の時とはまた違う感覚。温かな日差しの海に頭まで浸かっているようだった。いつもすぐ消えるというのに、その波紋は俺の中に留まるように停滞している。
「波紋法究極の奥義……私の力を譲渡、したの、一時的に、ではあるけど、これで、きみは陽の光そのもの……」
「なあ、雅風、どうしてなんだ、なぜ、そんなことを言うんだ。お前が一緒に来ればいいだけだろ、そうすれば……」
その言葉を遮るように、彼女はごめんなさい、と一言、俺に謝る。息が詰まる思いだった。
「やっと、この腕にっ、お前を抱けたんだぞッ!?これが終われば、鬼舞辻さえ倒せれば、お前はもうっ、っ!!お前が言った幸せな終わりになるんだぞッ!!俺は、またッ!!、またお前を救えないのかッ!!」
「!」
悔しさで涙が滲んだ。
なぜだ、なんで、お前が死んでしまうんだ。鬼の治療薬だって、もうあるんだ。それさえあれば、死ぬ事なんてないだろう、っ!!禰豆子と一緒に人に戻ればいいだろうっ!!叫ぶ俺に、雅風は、自分は人を食べてしまったと、苦しげにはっきりと口にした。
「記憶がなかったとしても、食べてしまった、亡くしてしまった命はもう、償えない、」
「それなら俺が一緒に背負う、一生、お前の隣りで、」
「だめだよ、これは、私の罪だから……それに、もう、時間みたいだから」
「!っ、!!」
そういった彼女の体には、段々とヒビが入り始めていた。嘘だと、そう思いたかった。俯く俺を覗き込むように、顔を近づけて、雅風はそっと、俺の頬に手を寄せた。
「泣かないで、錆兎……わたしは、ね、もう、たくさん救われたの、君が知らないだけで、たくさん、たくさんっ……だから、ね、もう、いいの
それに、ね、錆兎、私は君の傍にいる、君の心の中に、ずっといるよ……君が、私の中にずっと居てくれたみたいに」
自分の、俺の心臓の上に、慈しむ様に俺の頬に当てていた手を添えて、そう言う。崩れていく彼女に、俺は涙を堪えるように、唇を一度強く噛む。そんな事言うなんて、本当に、なんて、お前はずるいやつなんだろうか。俺は、痛いくらいに拳を強く握り、息を大きく吸って、彼女に向き直った。
「雅風、俺はお前の事を、ずっと見ていた。初めて会ったあの日から、俺は、お前に惚れていた……っ、
好き、なんだ、愛しているっ、おまえを、おれは……っ、」
堪えていた激情が、恋慕の情が溢れていく。彼女を愛おしいと思っていた感情が、ぐつぐつと煮え滾るみたいに湧き立つ。
耐えていた涙が、情けなくも溢れだす。なんとか言葉を繋げようにも、喉に何かものがつっかかったように、声が出なかった。
滲む視界の向こうで、彼女の驚いた顔が見えた。少し、頬を赤くした雅風は、照れたような顔で、泣きそうな顔で、優しく微笑んだ。
「ありがとう、錆兎、私を助けてくれて……
──────わたしを、あいしてくれて」
その言葉のあと、俺と雅風は契りを交わすように、口付けをした。
三回目の……最後の口付けは優しい涙の味がした。唇が離れて、彼女が崩れていくのが見える。泣きながら、幸せそうな笑み浮かべる彼女を見て、俺は自分の出来る、彼女が好きだと言った笑みを浮かべた。
最後に見るのなら、笑顔がいい、そう、お前が言ったから。
雅風は、一瞬、目を見開いて、次には、大粒の真珠の様な涙をボロボロとこぼして、下手くそな、けれど、とても美しい笑みを浮かべた。
「好きよ錆兎
あなたを愛することが出来て
わたしは──────────幸せでした」
震える声で最後の言葉を彼女は紡いだ。さらさらと音を立てて塵になった彼女の体は、身に付けていた衣服だけを残し、跡形もなく消え去ってしまった。まだ、微かに残る、雅風の温かさに、喉が震え、気がつけば、声を上げ、涙を零していた。
「っ、!、あ、、あぁ、ぁぁぁあッ!!!」
❁ ❁ ❁
錆兎の言葉に、行動に、身体を弄られ、崩壊を待つだけだった雅風の心は救われた。
彼女の思いは、気持ちは、彼の中で生き続ける。
彼の痣に刻まれるは彼女の生の証
────────『勿忘草』の紋様
泣き腫らした彼はすぐに立ち上がる事だろう。刀を振るうことだろう。彼女と約束した終わりのために。
波紋の光は、彼を抱き締めるように包み込む。彼に『生き残れ』と言うように。