無花果


 なんてことのない任務のはずだった。いつものように傷を癒やす、そんな任務。それがどうだ…苦しくて仕方なくて、でもそれを声に出すことは出来ない。
 声に出すことを許されない。
 目の前で初めて助ける寸前に息絶えた人を見た時、その人の手を握りしめていた時、私は思ったのだ。もっと早ければ、もっと私が呼吸を扱えていれば良かったのに、そうすればこの人は死ぬことがなかった。
 己を責めたてる激情は止まらず、酷い頭痛がした。

「雅風」

 私のことを呼ぶ声。それは聞き覚えのある声で、今一番聞きたくない人の声……

「さびと、っ」

 やっとでてきた言葉、それは宍色の髪の少年の名前だった。

 ○○○

 光の無い瞳で涙を零し、遺体となった隊士の手を握りしめる少女の姿をした者―――雅風を見て、錆兎はそっと手を伸ばした。
 けれど、手のひらは握り返されることはなく、己の名を呼んだ彼女は俯き、ふるふると頭を振る。
「ごめん、なさい」
 一言。いつも気丈に振る舞うはずの彼女から出るはずのない、途切れながらも発せられたそれに、錆兎はたまらず雅風の胸ぐらを掴み、顎を掴み俯いた顔を上に向かせ、目線を合わせ、怒りで歪んだ顔で口を開く。
「なんでお前が謝るんだ!!」
 怒声は静かな森に響きわたる。
「たす、け、られなかった、わたし、わた、しのせいで、」
 遺体から手が離れ、震える手で自分の顔を覆って、私がもっと、もっと!と、涙を流す彼女は、いつもと違う、ただひ弱な少女にしか見えなかった。そんな雅風の手を離させると、いい加減にしろ!と、頬を張った。
 乾いた音がし、白魚のように白い肌は赤く色づき、未だにぼんやりとしたままの瞳で、錆兎のことを見つめる。
「お前が居ようが居まいが、アイツは既に手遅れだった!!
 決死の覚悟で戦ったものへ謝るな!!侮辱と同じだ!!」
「でも、わたしは、」
「でもも何も無い!!いいか?もしもだ。もしもの話、確かに雅風の呼吸はあと少し早ければ助けられた命だったかもしれない」
「、」
「けど、そんな隊士がこの世に何人いると思う!!」
「は、」
 そんなもの、数えてもキリがないほどにいるに決まっている。だって、今この瞬間にも、命の灯火は消えていっているのだから。顔を青くした雅風に、話を聞けと錆兎は彼女の両肩に手を置いた。びくっと肩を跳ねさせる様子に唇を噛みそうになりながら、いいか、と言葉を続けた。
「今この時も鬼殺隊の隊士は皆戦っている!!血を流して、血反吐を吐いて!!必死に一人でも多くの人々を守る為に、鬼を滅殺する為に……
同時に、お前以上に鬼と戦う才を持つ者も、その呼吸で、直接傷を負った人を助ける者も居ないし、知らないんだ。
お前はずっと自分を責め続けるんだろう。そのぐらい予想はつく。
けど忘れるな……お前に助けられた命がより多くの命を助けようともがいていることも」
「私が、助けた命……?」
「失礼する」
 そう言うと、錆兎は雅風を抱きしめた。驚き、逃げようとした彼女を押さえ込み、己の心臓の鼓動を聞かせるように胸元に耳を当てさせた。
 大きく、そして早鳴りになる鼓動。それになんと言ったらいいのか。
「俺はお前に助けられた命、そのひとつだ。今も尚、必死にもがいて、鬼に食らいついて、滅して、けど、いつかそれを終わらせてやる!
 どんなに苦しかろうが、手足を失うことになろうとも、死ぬまで俺は鬼と戦うことを辞めない!」
 呼吸が止まりそうになった瞬間、ばんっと大きく錆兎の胸元を叩いて離れら次は逆に雅風が彼の胸ぐらを掴み悲鳴をあげるように声を出す。
「やめて!!そんな、死ぬまで、なんて、言わないで!!」
「ッ、雅風?」
「死んで欲しくなんてない!君は私の友人だ!友人なんだ、大切なんだ!そんな人を亡くして鬼狩りを続けるなんて、私はきっとできないッ!!」
「!」
 そう、雅風の恐れるもの、それの最もたるものが親しくなった者の死。
 雅風だって分かってる。そんなことを言ってもこの世の中、この鬼狩りという行為をしている時点で死ぬ可能性が高いことも。どんなに強い人だって、どんなに才に秀でていてもしは訪れる。
 それは唐突に、賽子が振られるように……
 だからこそ怖いのだ。
 だからこそ嫌なのだ。
「君が死ぬなんて嫌だ!!嫌なんだ!!我儘だって、きっと君は侮辱だと感じるだろう!!でも、けれど!!私は君に死んで欲しくなんてないんだよ!!」
 肩で息をして大粒の涙を大きな瞳から溢れさせた雅風は、嫌だ、嫌だと泣きじゃくる。
 まさか、そんなことを言われるとは思わず固まった錆兎は、雅風の名を呼ぶが嫌だ、嫌だと泣くのを彼女はやめない。困り果てた錆兎はそっと、彼女の手に己の手を重ね、優しく抱きしめた。
「お前がそんなふうに考えてるなんて思っていなかった、すまない……」
「っ、謝る、なら、そんな、死ぬとか言わないで生きて戦いを終わらせると言え!!
 生きて、生きて、生き抜いてッ、それで、最後には幸せになるんだ!鬼のいない世界で!!」
 強い眼光で、次こそ生きた双眸で雅風は藤色を射抜く。その光に負け、ああ、ああ、と頷きながらまだ泣き止まない彼女を抱きしめる。
 彼女の胸の内では永遠に懺悔の花が、後悔の花が咲き続けるだろう。それこそ、無花果のように姿を見せない花のように、そして熟れに熟れて傷を表す。
 それを錆兎は受け止めようと決める。屈辱だなんて、そんなことを思わない。とうに死んだはずの自分を、今も尚生かしてくれてるのが彼女であり、今の自分だ。彼女の言う幸せを掴んでやろう。助けられた命を簡単に投げ出す訳にはいかない、こんな、傷をずっと隠し続けるだろう彼女をひとりぼっちにするわけにはいかないのだから。

 ✿❀✿❀
 
 目が覚めれば布団に横になっていた。重い頭で眠る前のことを思い出し、さたまが痛くなる思いだ。
 まさか、あんな醜態を我慢の限界だったとして、錆兎にぶつけてしまうとは思ってもみなかったから。
 深いため息をつき、次はどんな顔をしてこれに会えばいいのだろうと思いつつ、布団から起き上がった時だ。

「義勇、くん?」
「……」

 襖が開けられ、そこには義勇くんの姿が……何なのだろう。厄日なのか、今日に限って逢いたくない人にばかり出会ってしまうのは……
 無言の彼はすごすごと私に近寄ってくると眠っていたというのに冷えきっていたらしい私の手を優しく包み込んでくれた。
「…………」
 無言で、何も言わずにただ寄り添ってくれる彼はなんとも優しい事か。その優しさが今の私にとっては尖った針のように痛くて、辛くてたまらない。
 そう、とっても辛くてたまらなくて、苦しいのだ。

 ○○○

 冨岡が雅風のことを任されたのはある意味必然とも言えるだろう。
 泣き腫らしたあとの彼女を錆兎から預けられた彼は、藤屋敷の者に声をかけ、彼女のことを寝かせてもらい、甲斐甲斐しく看病をするように腫れてしまった目元に冷やした手ぬぐいを当てていた。
 そんな時だ。

「……、さ、い」
「雅風?」

 声をかけても返事はなく、深く眠っている彼女の口元に耳を寄せれば、直ぐに分かった。“ごめんはなさい” そう、譫言のように呟いて、酷く苦しそうに呼吸をするのだ。
 これはただ事では無いと思った冨岡だが、どうすればいいか、そう迷った先にとった行動は彼女の手を握り、“大丈夫だ”と、声をかけることだった。
 苦しい、悲しい、怖い……そんな感情の籠った言葉に、優しく語りかける。
 何も怖がることは無いと、自分が側に居るよと教えるように。
 そうして少し雅風が落ち着き出した頃、義勇は不安になりながら藤屋敷ののものに手ぬぐいなどを返しに席を外し、戻ってきたら、今にも泣きそうな顔をした彼女がいたのだ。
 包み込んだ手は冷えきっていて、彼女の体温の低さを表しているようだ。
 凍えるような季節でもないのに、なんでこんなに冷たいのか、そんなの、彼女の心がそれほどまでに傷ついているからに決まっている。
 普段雅風はそれを表に全く出さない。気丈に、そして気高く任務を遂行している姿しか冨岡は知らなかった。
 友人でありながら、ここまで傷ついていると知らなかった。
 不甲斐ないことこの上なく、己に怒りが込み上げてくるほどだ。
 そんな彼に、無言で安心させてこようとする彼から逃げるように己の手を引いた。
「義勇くん、大丈夫だから」
 安心してと、微笑む姿は、今は仮面を着けた表情にしか見えない。
「俺では、だめなのか」
「……」
「錆兎から聞いた。何があったのか」
「!、」
「大丈夫なんて嘘だ……
 雅風は嘘つきだ。だから無理をしないでくれ。辛かったら辛いと言ってくれ。
 それとも俺は、そんなに頼りない友人なのか?」
「それは……」
 とてもずるい言葉に、唇を噛んだ雅風はふるふると頭をふり、そんな事ないと震える声で発した。
「わたしは、君が死ぬのも怖い。とても、とてもだ」
「ああ、」
「だから、死なないで……お願いだ……」
「分かった」
 大丈夫だ……俺はここにいる。そういい、冨岡は冷えきった雅風を温めるように抱きしめた。何があっても、帰ってくると、そう約束するように、彼女をただ安心させるために、小さな体を包み込む。
 少しでも、この優しい友人の心が傷つかないようにと、冨岡は目を瞑り、願うのだった。

トップ