10-6



 善逸は必死に走っていた。身体を麻痺させて、動けない自分の兄弟子を背負い、彼の刀を腰にさげ、ひたすらに山の奥へ、雅風から逃げようと脚を動かす。

『私が百を数え終えた時、その時、君たちの後を追うよ』

 その言葉を思い出し、叫びそうなのを必死にこらえて土を蹴った。

 なんでこんな事に、ただ雅風と自分が捕まえる側の鬼ごっこした後にお茶をするだけの予定だったのに!!
 内心そんなふうに恨めしく思いながら、自分の背中でピクリとも動けない獪岳に、複雑な感情を抱いていた。
 嫌われてるのは分かっていたけど、あんな風に思われてるだなんて知らなかったし、さらに言えば、嫌われているのは自分が鈍臭いすぐに泣く泣き虫だからだと思っていたからだ。

 背中から伝わるのは、硝子が罅割れたみたいな、幸せの箱から、どんどん何か、大切なものを落とす音。不満が、苛立ちが、山みたいに積もっていく音。
 けれど、不思議な事に、その騒音の中に、どこか迷っている音がした。

 それは、獪岳が、雅風に言われた“求めてばかり”という、喉に魚の骨がつっかかる様な事を言われたからだ。
 自分が求めているもの、そして、欲しいと願うもの。
 そんなもの、決まっている。自分を肯定する存在だ。そのはずだ、そのはずなのだが……何時もぽっかりと穴が空いてるように物足りない。
 なんでなのか、どうしてなのか、そんなの自分にもわからない。
 ただ確かなのはいつも何をしても“あの寺にまだ居た時のように”満たされることがないという事実。

 獪岳は、自分を背負い、逃げる弟弟子を視線だけで見る。伝わる鼓動は小動物の用に早く、小心者のこいつらしい、と、そしてそんなこいつに背負われる事に屈辱的だと、心臓が嫌な音を立てた。

 なんで、どうして庇う。

 自分を凄いんだと言ったこいつは自虐癖でもあるのか、普通ならこんな自分を嫌う他人のことなど面倒で放っておけばいいのに、嫌いだと言った俺に近寄らなければいいのになんでこんな事をこいつはしているんだ。

 獪岳には今の善逸の行動は全く理解できなかった。それもこれも、獪岳の周りには、彼のような馬鹿な人間は一人もいなかったから。

 善逸は獪岳が嫌いだ。嫌われていることも知っている。
けれど、彼が自分にとっての特別な人の枠に入ることには変わりない。
 いつも背中を見ていた。そんな人がここまでボロボロになりながら挑もうと、何度も落ちた刀をとった。なら、彼のために行動することは善逸にとっては当たり前の事なのだ。

 ある意味似たもの同士である彼等はすれ違ってばかりいる。手を伸ばせば届く距離だと言うのに、分厚い硝子の壁が隔たっているかのように、彼等は噛み合わない。

 それを壊すために、雅風は彼らが本音を語り合えるよう……拳を振るうのだ。

○○○

 雅風の追撃は、思ったよりも早くに始まった。

 善逸の体感で丁度百数え終えた頃、雅風が近づいてくる音を聞き分けようと耳をそばだてていた。
 自分の中でどくどくと跳ねる心臓を少し落ち着かせるように呼吸をして、ひとつの音も漏らさないように目を瞑る。
 兎に角、自分の耳を使い、いかに雅風にあわずに逃げ切るか、それが善逸の思ったこと。
 耳の優れている彼は兎のように危機察知能力がずば抜けているからこそできる芸当だ。
 だから、なるべく入り組んだ場所、音が聞きやすい場所を目指して善逸は足を進めていた。
 だが、それも甘い事。散々色々な隊士と追いかけっこをした雅風にとっては予想しやすいし、さらに言えばまだ善逸には教えてないある技があった。
 それは、生命を探知するセンサーの波紋のことである。水と器さえあれば、長年多くの森に迷い込んだ隊士達などをそれで見つけ当てていた雅風にとっては、彼等を探すのは朝飯前なのだ。
だからといって、彼の聴覚の鋭さ、危機回避能力の高さは知っている。
 けれど、耳を使って危機察知をしただけではだめで一つのことに気を取られていれば、人は不注意になり、無防備な姿を通じ晒す事になる事を、同時に彼女は知っているのだ。

 即ち、後ろから迫ってくる雅風しか見ていなければこっそり仕掛けた足止め用の即席トラップには目がいかない。
 それも、気を失う前の緊張状態の解れていない、荒れた音を響かせる獪岳を背負った善逸なら尚のこと。
 先回りのようにそれを仕掛け、誘導するように雅風は動き、初見殺しとされる技を容赦なく放ったのだ。



 雅風のことを察知した善逸は悲鳴を我慢しながら涙腺を決壊させる一歩手前で鍛え上げた足を動かしていた。

───やばいやばいやばいなんでこんなに速く近づいてくるの!?

 と、そんな事を心の中で叫びつつ、獪岳を背負うために羽織を使い自分の体に縛り付けた体を落とさないよう、膝裏に回していた腕の力を強め、さらに加速する。
 相手は怪我人のはずなのに、なんでこんなに早いのだろうか。ほんとにあの人は人間辞めてるんじゃないだろうかと、そんな事を心の中で思いつつも土を蹴った。
 けれど、その瞬間、びゅんっと風を切る音がし、刹那、気に何かが貫通するみたいな音が聞こえたのだ。
 それは、木に、なぜだか分からないが枝が穴を開けた音だった。
 ひゅっと喉から音を出した善逸は次の瞬間我慢できず、涙腺を決壊させ、汚い高音を森に響き渡らせた。

 雅風は、予想通りに道を進んでくれている善逸について笑みを零すと、痛くなってきた肺に鞭を打つように大きく呼吸をしながら、最短距離で彼の悲鳴が聞こえ、なおかつ、袋小路になりうる場所に誘導していく。
 そして、とうとう彼の背中を見た時、地面に向けて波紋を流したのだ。

 陽の呼吸 攻の波紋 蔦菫

 地面に高圧の波紋を流し、一定範囲内に波紋を伝わせる技。まだ距離が遠いこともあり、身体を多少しびれさせることしか出来ないが、ほんの少しだけ体を鈍くさせることは出来たようで、視界に捉えられる善逸は身体をよろけさせていた。

──────「みつけたよ」

 ぞくりと、肌が思わず粟立ち、冷や汗が出そうな程に冷たい声がして、善逸はひいいいい!!!と、高い声を上げながら一瞬電流のみたいなものが走り、動きにくくなった身体を一生懸命に動かし、すぐ十数メートル後ろに彼女がいるとわかった瞬間にはい゙い゙い゙いや゙ぁぁぁ゙あ゙!!!!と汚い濁音混じりの奇声を発し、呼吸のしすぎで痛くなるくらいに息を吸って吐き、心臓が本当に壊れるのでは?と、自分で思うほどに走る。

 そんな彼をとても揺れる肩越しに見ていた獪岳は、高い悲鳴に耳を痛くしつつ、背後から近づいてくる雅風に同じく気が付き、その事と同時に痛みに顔を顰めた。
 獪岳の傷は酷いもので、特に、刀を持つための手のひらに受けた傷が一番激痛が走り、指を動かそうとする度に汗が吹き出し、腹の痛みはまだずきずきとして大きな石を胃の中に押し込められた様な感覚に陥っていた。

 そして、数分と立たず、断崖絶壁に追い詰められた善逸は、どうする、どう逃げ出せばいいとそんなふうに慌てふためくも、「これで、逃げれない、ね」と、声がし、振り返れば十数m先に彼女がいるのをみつけ、「びやぁぁぁぁぁあ゙!!!!」と腹から声を上げた。
 善逸の悲鳴の山彦を聞きながら、雅風は、「それ、で?鬼ごっこは、もう、おしまいかな?」と、可愛らしく小首を傾げるが、善逸はあばばばばばっと体をがくがくと震わせ、ころ、殺される、ころ、と、心の中で叫びながら、手に汗を握りつつ、背負う力を強くする。
 今こんな距離を詰められたのなら背を向けた瞬間に波紋を流されて一発でやられてしまう。その事を理解しているからこそ、獪岳を背負ったままというハンデをかせられている善逸は見つめあったまま動けない。
 それを察したのか、少し考えたあと雅風はぽつり、彼に言う。

「ねぇ、善逸くん、べつに戦闘に入るのなら、彼、そこら辺におろしてもいいよ」
「えっ」
「間違えて踏むかもだけど」
「絶っっ対に下ろさないから!!!ダメ!!!踏まないで俺の兄貴!!!」

 ブンブンと頭を振りつつ、「ダメだから!!絶対それダメなやつだから!!」と、大声をあげる善逸に、誰が兄貴だ!!とぴきぴきと青筋を浮かべながら、ボソリと獪岳が「うるせぇ」と地に這うみたいな声で呟いた。

「酷い!!でもごめんよたしかにめちゃくちゃ大声出してる自覚はあるよ!!!ん!?てか獪岳話せてる!?」
「耳元で、騒ぐなッ、ちぎるぞこの耳」
「ひどい!!俺に対してなんでそんな当たり強いのさ!!そして叫ばないとやってらんない無理!!」
「……体の痺れが少し解けてきて、話せるように、なっただけ……それと、降ろしてもいいよ踏まないから」

 二人のやり取りに頭に手を当てつつ深くため息を吐いた雅風が、助け舟の様に戦闘の際の下ろす許可を出した。
 そんな彼女にぴん!と反応した善逸は「絶対ですよ!!絶対ですからね!!」と、脇の下から通していた、折り畳んだ羽織の結び目を震える手で解いていく。

「いいから早くしろ、お前の背中乗り心地悪ぃんだよ」
「背負って貰ってなにさその言葉は!!」
「俺は頼んでねぇ」
「それにしても今のはないだろ!」

 確かに俺が勝手になんかやってたけどさぁ!と、声を上げて、同時に彼を壁近くに背を付ける様に下ろし、雅風と向き直った。
律儀に彼がちゃんと獪岳を下ろすのを待っていた雅風は、もういいかな?と、足首を回し、森を移動している最中に拾ったらしい木の葉を手で弄んび、そして、それを波紋を纏わせ弾けさせる。
手裏剣の様に飛んでいくそれは、善逸を……いや、獪岳を狙ったものだった。
 その事に音で気がついた彼は瞬時に抜刀した刀を叩き落とす様に振り、木の葉を切り軌道をそらせば、「ちょっとおおお!?!?」と、剣先を彼女に向け、「なんでこっち狙ってんのさ!!!」と、声を上げる。

「“踏まない”とは言ったけど、“狙わない”とは言って、ない」
「な、なんだよそれぇ!?」
「まあ、君はそんな叫ぶより、さ、」

────これからがちゃんとした戦闘だってことを、思い出してね

 茶番もここまでであると言外に言っていた。
 先程の動きとは全く違い、善逸が数度瞬きをした瞬間、視界から雅風が消える。
 風の切れる音に無意識に横に飛びつつ、身体をひねさせれば自分のいた、丁度刀を握っていた手の付近にあの時、獪岳にしたように発勁を繰り出す彼女がいた。

 まずは得物を使う手を潰す。そういう意思表示なのだろう。
 ひゅっと息を飲みつつ、またバックステップを取れば、それの隙をつくように彼女は鋭い蹴りを繰り出した。
 刀の鎬でそれを受け流そうとした瞬間、バチバチと弾ける音を聴き、刀を引こうとするがもう遅い。
 つま先の一点に絞り込んだ波紋が鋼を伝い、善逸の身体の動きを鈍くする。足の早い彼も、一瞬動きが止まればそれは致命的な事。
 距離を瞬時に詰め、容赦のない、顎を狙った拳が入れられた。
声を上げるまもなく、脳が揺れる。視界が揺れる。
 ひっくり返るように倒れた善逸は白目を剥き、気絶し、刹那、刀を握る手目掛けて雅風の脚が下ろされるが、気を失ったまま善逸は横に転がり回避した。
 まだ頭が揺れている感覚がするのだろう、覚束無い身体運びで善逸は獪岳を背に隠すように、元の位置に戻り、額から汗を垂らしつつ、鋒を雅風に向ける。

 獪岳は不思議に思ったことだろう。なんで、今の一撃が入ったというのに、彼はまだ動けているのか。

 彼が背を向ける善逸になにか声をかけようとしたその時、間髪入れずにまた戦闘が始まる。

 雅風は善逸の動きが鈍くなっても容赦しなかった。体全体が揺れてるような感覚に四苦八苦しながら振られる刀。それを避けながら、的確に身体の急所になる場所へ拳を、蹴りを入れていく。
何度も善逸はその度に膝を着き、その度に直ぐに立ち上がり、雅風へ向かっていく。
 獪岳の方が狙われないように、彼が回復できるように、そして、タイムリミットであるあと一時間という長い時間を稼ぐ為に。

 痛みが先程よりは引き、身体に何層か分厚い膜が張られたような感覚に顔を顰めつつ、獪岳は目の前で自分と同じくらいにボロボロになっている弟弟子を見て、何をしているんだ、と、心の底から思った。
 なんで、そんなになるまで立ち上がるのか、いつもはこれくらいでビービーと泣きわめくし逃げ出すような奴が、なんで今は逃げないのか。

 ごきりと嫌な音が鳴った。それは、善逸の左肩の骨が蹴りの衝撃ではずれる音。
 激痛に一瞬かたまり、その瞬間、脇腹に横殴りの蹴りが入る。倒れ込み、地面に顔を擦りつけながら、薄らと開いた目で、善逸は獪岳の困惑した様な顔をして、あの耳障りな騒音と違って、子供が泣いてるみたいな音が聞こえた。

「お前なんなんだよっ、嫌いな奴になんでそこまでするだよ!!気持ち悪いんだよカス!!!」

 どこか最後、震えた様なその声に、痛む体に鞭を打って、土で汚れた白い服を鼻血で汚して、ふるふると、脱臼していない右手を支えに、善逸は刀を杖にして立ち上がる。

「テメェみてぇな他人にんな事されても迷惑なだけなんだよ!!!」

 その言葉にカチンときて、目が覚めたらしい。額に怒りマークを浮かべながら、激痛に悲鳴を上げそうになりながら、善逸は今まで溜まっていたものを吐き出すように大声を出す。

「うるっさい!!!」
「なっ」
「獪岳こそいい加減にろよ!!!何だよ他人って!!!」

 腹に力が入ると痛いだろうに、彼は泣きながら、鼻水を垂らしながら、視線を雅風から獪岳へ移る。怒りで真っ赤に染めた顔が向き、今まで弱気な顔しか見た事がなかった彼は目を見開き固まった。

「俺はさ!獪岳の事嫌いだよ!!顔いつも怖いし!!いつも直ぐに殴るしさ!!罵倒とか凄いし!!性格悪いし!!!何度も心に包丁突き立てられたよ!!めちゃめちゃ傷ついたんだからな!!!!」

 突然のその本音から来るだろう言葉に、文句を言ってやろうか、そう思ったが、次の言葉に、獪岳は固まる事になる。

「でもそれと同時に大好きなんだよ!!アンタのこと!!尊敬してんの!!めっちゃ!!自分で言うのもなんだけど!!あんたの背中追いながら俺頑張ってたの!!ずっと!!!それに!!それにさ!!ッ、」

 せり上がってきた今までなかなか言えなかった言葉を、彼に向けて言いたかった言葉を、それが嘘偽りないモノであると、鼈甲色の双眸が語っていた。

「爺ちゃんと獪岳と短い間だけど暮らして、家族ってこんな風なのかなって、兄貴がいたら、こんなふうなのかってそう思って………俺にとっての兄は獪岳なんだよ、だから、他人だとか言うなよ馬鹿!!!

────────家族の為に体張るのは当たり前だろ!!!!」

 ひゅっと、獪岳は息を飲んだ。
 心臓の辺りがきゅっとしまるような、そんな、感覚がして、何を馬鹿なことをと言いたいが、なかなか言葉が出てこなかった。
 戸惑う獪岳の目に、善逸の向こう側にいる雅風が映る。彼女はちいさな唇を動かして、『だからいったでしょ?』と、音を出さずに彼に言う。

 その時、獪岳はなぜ、善逸の事を見ようとしないのか、そう言われたことを思い出す。

 俺から周りの、先生を奪ったあいつが許せなかったから、泣き虫でビービー泣いてばかりで五月蝿いし、俺と違ってひとつの型しか使えないのに、よりによって壱ノ型しかアイツが使えないから。
 先生を自分から奪ったから、ずるいと、そうおもったから……

 そう理由を並べるが、決定的な言葉を、彼は見つけられなかった。彼の中にその言葉が存在しなかったから。

 固まる彼を置いて、善逸は痛みによる悲鳴を雄叫びに変えて、雅風相手に真正面から突撃する。右手に持った刀をギリギリではなしフェイントをかけ、彼女に組みつこうとしたらしい。

「遅いよ」

 あっ!と声を上げるまもなく、とんっと、雅風は彼の首を叩き、同時に波紋を流し込む。びりっ!!と体の痺れる感覚と、麻痺して動かない手足。
 倒れ込んでくる善逸を受け止めて、雅風はズルズルと若干引き摺りつつ、どさりと、獪岳の目の前に彼を下ろした。
 今度こそ完全に気を失ったらしい。目を開けたり話す気配のない彼を横たえながら、涙や鼻水、鼻血などでぐちゃぐちゃになってしまってる顔を拭い、冷たい空気も気配も霧散させた雅風が落ち着いた声で獪岳に語りかける。

「凄いね、善逸くん、こんなにボロボロになるまで、君のために頑張ったんだよ」
「……俺はそんな事頼んでねぇ」
「そうだね、彼が勝手に、自分で考えて、それでやった事だ」
「嫌いな奴に、なんでこんなことすんだよッ!!意味わかんねぇ!!押し付けがましくて鬱陶しい!!馬鹿なんじゃねぇのかよ!!」
「うん、そうね、善逸くん押し付けがましいかもしれないし、結構お馬鹿だ……でも、ね、」

 獪岳に目線を合わせるように雅風はぺたりと座ると、慈しむような笑みを浮かべて、「それだけでは無いのは、もう、獪岳にも分かるよね、」と、そう言って彼の心臓の上に指をとんっとつける。

「彼は、君に家族にむける愛情を注いでいた……君をとても愛していた……それは押し付けがましいものだったのかもしれない、けど、君は、心のどこかでそれを求めていなかった?

……君の本当に欲しかったものは、誰か信頼できる人からの、とても純粋な、愛情だったんじゃないのかな」

 違うと言いたいのに、言葉が出なかった。どこか空洞になっていた穴が埋まっていくようで、それと同時に息苦しいくらいに、胸が痛んだ。

「君は誰かにただ一つとして見て欲しかった、ずっとずっと、愛して欲しかった……
大人に求めるあまりに見えないでいたんだ、善逸君の事を……
君のことを誰よりも見て、それで、大切に思ってくれる弟の事を」

 困惑した様子の彼を、眉を下げながら雅風は優しく抱きしめる。
 そんな事ないと言いたいのに、何か言わないといけないのに、声を出そうとして口を開くが、喉から声が出なかった。
 大人に求めるあまりという言葉、それは確かにあてはまっている。だって、自分を認める、見てくれる存在が強い大人であれば、それだけで自信になれた。
 だから、ぱっとでの構われるアイツが許せなくて、子供だということがあの寺院の奴らと重なり、直接見ることも嫌になったのだ。
 自分がまた追い出されるのではと思って……

「人は、やっぱり、誰かに認めてほしいと、そう思うよね、上手くいかないと、焦っちゃうよね……信じるのは、簡単な事じゃないよね」

 トン、トン、と背を叩く彼女の小さな手のひらは暖かく、獪岳を落ちつかせる。
 信じるのは簡単な事じゃない、という言葉に喉が締められるようだ。

「獪岳……君は少し肩の力を抜いて見方を変えてごらん。求めてばかりで嫉妬心を燃やすばかりいないで、少し立ち止まって後ろをたまに振り返るの……確かに、まだ泣き言ばかり言うと思う。君にとって鬱陶しいと思ってしまうと思う。
でも、それ以上に、君のことを一生懸命見て、大切に思ってくれる人は見ようとしなかっただけで、直ぐ後ろにいるよ。

だから、それに応えてあげて……一方通行のままじゃ伝わらないこともあるから」

 ストン、と、石が胸に落ちるみたいに、空いた穴が、空洞が埋まっていくみたいで、息をするのが苦しかった。
 くらりと揺れる頭で、彼女の言葉をゆっくりと飲み込み、自問自答を繰り返して、そうじゃない、そんなんじゃない、と、そう自分に言い聞かせようとして、出来なかった。

 自分は一度も彼を見ようとしたことがなかったのだ。

 獪岳は目線を善逸に向けると、きゅっと唇を噛んで、そして、目を瞑る。

 ずっと誰かの一番でいかった……
 それがこんな近くにあったのに、嫉妬にかられて、焦って、気がつくことも出来なかった。
 相手が自分と同じ子供だからと、自分より下だと見て、あの寺にいた子供と同じ……


 ずっと誰にも言えずにいた事を、あの時の後悔を思い出す。
 家族同然だと暮らしていたあの寺で起きた、金を盗んでしまった自分が起こした悲劇を……
 自分のことをアイツらが追い出したせいだと、だから俺のせいじゃないと何度もあの時の自分にいいきかせた。生きてさえいれば勝ちなんだから。
 でも、力のない己が大人を呼びに行き、全てが終わったあとにあの寺に帰れば惨状が広がってたのだ。

 いつもただいまと言って開けていた扉も、巫山戯て枕投げが始まった寝室も、寺にいたみんなで食事をし、団欒をしたあの居間も、全て壊れて、血が飛び散り、自分があの時金を盗まなければ、あんな事をしなければおこらなかった悲劇を目の当たりにした。
 その光景を何度夢に見て、自分の罪を突きつけられた事だろう。
 自分の行動で人を、家族だった者を殺めた事実を……

 その事を脳裏にうかべて、思い出し、ゆっくりと閉じていた瞼を開く。
 そして、何を思ったのか、ぽつりと、いつの間にか、震える、か細い声で獪岳は呟いた。

「雅風さんは、人を殺したことはありますか」

 その言葉にぴくりと、彼女の肩が揺れ、抱き締められていた体勢で見えなかった顔が見えた。
 彼女は薄らとした笑みを浮かべて、そして、ひとつ頷くと体を離し、獪岳、と彼の名をよぶ。

「君はあるの?」

 無言でいる彼に、そう、と呟き、数秒目を瞑り、ひとつ、深い呼吸をした彼女は長い睫毛に縁取られた藍山摺色に影を落とす。

「獪岳、君に私の秘密を教えてあげる」

 御館様しか知らない私の秘密を……

 冷たい風が頬を撫でて草木を揺らす。
 戸惑い、瞳を揺らしながら、獪岳はこくりと唾を飲んだ。

 




とっぷ