08
誰かが私を呼ぶ声がして、脳を優しく震わせる低い声は誰だろうかと目を開けた。暗闇に浮かぶ一対の黄色い目に飛び起きた私は、それが二人で一対を形成していたと気付いた。暗闇に佇む二人の容貌が恐ろしく布団を握りしめたままベッドから転げ落ちる。
そんな私を他所に彼らは「電気つけてもいいですか」「起きたんだし良いんじゃね」と暢気に会話をしている。一気に明るくなった部屋にへたり込んだまま、目を細めながら見上げるとオクタヴィネル寮の生徒二人が左右対称に立っていた。
「夜分に申し訳ありません」
「ノックしても返事ないからさぁ勝手に入ってごめんね」
混乱する私を前に彼らは、オンボロ寮を担保として預かるから今すぐ出ていけと優しい口調ながら有無を言わせない態度で言った。寝起きの頭で状況を理解出来ない私に、無慈悲にも残った私物は処分すると言った。
早くしろよという強い口調に変わり漸く体が動いた。でも、すぐには立ち上がれなくて机に這い寄り教科書などを取り出し始めたところで、やっと足に力が入った。こんな無様な姿を知らない生徒に見られているという悔しさで、頭がショートしそうだ。
寮を追い出された後、一緒に追い出されたユウくん達と途方に暮れているとエースくんとデュースくんが走ってきた。彼らの話ぶりから、ユウくん自ら寮を担保に何かの契約をしたのだと分かった。沸々と湧き上がる怒りが顔に出ているかもしれない。
エースくんとデュースくんが私に謝ってきた。彼らが事の発端なんだろう。頭に生えてる気持ちの悪い物とか契約の話とか、いろいろ聞きたいことはある。でも、話に割り込む隙もなくてサバナクロー寮にお世話になるという話に纏まってしまった。
鏡舎の道すがら話される内容は途中から耳に入らなくなった。彼らの頭の物を取るために交わした契約内容を達成出来なければ住む場所も自由も奪われるなんて。それを同じ寮に住む私の了解も無しに契約するなんてと、怒りで頭が沸騰しそうだった。もう、これ以上彼らと一緒に居たくないと思った私は道を逸れて植物園に入った。
怒りに任せた足取りだったのに、夜露に濡れる植物や月光の下で咲き誇る花を見ていたら、いつの間にかゆっくりと散歩をする様な足取りになっていた。植物が好きとか花が好きとか思った事はなかったけど、トレイさんに言われた言葉を思い出しながら綺麗な花は好きかもしれないと思った。
バラの温室は温度管理がしっかりされている。ここでぼんやり花を眺めながら夜を明かすのも悪くないかもしれない。
明日の授業の予習のために数学と錬金術のテキストを取り出した。錬金術はただ教わった通りに素材同士を配合すれば良いわけじゃない。素材を分子レベルにまで解析し、それらを正しく結合させる知識と技術が必要らしい。それを計算する時に数学的知識が必要不可欠なんだけれど、予習のために読み始めた文章を何度も往復してしまう。ついには数字と記号が二重に見え始め、ごちゃこちゃに混ざったかと思えば頭の上を飛び交いだした。
「おはようございます。といってもまだ夜ですけど、勝手に運ばせていただきました」
巨大化した数式に押し潰されそうになったところで目が覚めた。目の前に寮で見た生徒がいて一瞬タイムリープして過去に戻ったのかと寝ぼけた頭で思ったけれど、よく見たら見た事ない部屋で私は再び飛び起きた。
大丈夫ですかなんて白々しいことを聞かれた。植物園で倒れていたから心配したと言っているけど、夜の植物園にわざわざ来る人なんていないと思うと後をつけられていたのかもしれない。
私は寮に泊まる積もりもお金もない。この人の言う"心配"にありがとうと言って部屋を出ようとするけど、ドアの前に立たれてしまってはどうにも出来ない。見上げるほど背の高い生徒はにこにこと笑っていて、こんな出会いでなければコロッと騙されていたかもしれない。
「そんなに警戒なさらないで。僕はただ貴方のためを思って寮に連れて来たんですよ」
「一万マドルなんて払えませんよ」
「ああ、そんな事を心配していたんですか。それなら僕が代わりに払います」
一瞬、好意で支払いを負担してくれると言ってくれたのかと思って顔を上げた。そんな私の顔を見て愉快そうに眉を歪めたのを見て、この人は借金取りの様に物の貸し借りに厳しいんだろうなと感じた。きっと、その代わりにとんでもない事を要求されるのかもしれない。ユウくんがオンボロ寮を担保に取られたみたいに。
私が何も持っていないことは、この人だって分かってると思う。そんな私が差し出せるのなんて自分の身一つしかない。労働だ。学園生活を豊かにするために使いっ走りの様なことを要求されるのかもしれない。そんな事になったら、勉強する時間も無くなり授業に集中出来なくなり、誰からも相手にされず、ずっと一人ぼっちの生活を余儀なくされるかもしれない。
他人のテリトリーで自分の意見を通し続けられるだろうかという不安にノーともイエスとも言えないまま黙っていると、ベッドに座り込む私の前にその人がやって来た。
「僕に何を要求されるんだろうかと怯えてらっしゃるんですか?ふふふ、かわいらしいですね。そんな心配なさらずとも大したことは申しません」
私の目線に合わせて膝を折った姿からは、私を貶めるような雰囲気は感じられなかった。さっきまでの言い知れぬ怖さは、高いところから見下ろされていたからなのかもしれない。なんにせよ、やっぱりマドルの代わりに彼に何かを支払わなければならないんだなと、不安はなくならない。
ジェイド・リーチと名乗った彼は、私に山を愛する会に入って欲しいと言った。山の動植物を愛でるという活動内容を聞いた限り人気がなさそうな部活だなと思った。だから部員が欲しいのかもしれない。本当に大した要求じゃなかった事に安堵した私は、こくりと頷いた。
朝起きてから授業開始までの時間をジェイドさんと過ごした。そのせいで、いつもの人に揶揄われた。オクタヴィネルの副寮長と一緒だったけど何かやらかしたのかって言われても、やらかしたのは私じゃないし、向こうが寮内は不慣れでしょうって言ったから一緒にいただけ。
貴方には関係ないでしょと言って席を立った。うちの寮の先輩からいい噂ないって聞いたとか、心配して言ってやってるとか、いつも意地悪をしてくる人に言われても響かない。私は自分の目で見て相手を判断したいし、貴方にとって嫌な人でも私にとっては良い人かもしれない。他人がどう思っていようが、私がどう思うかが重要だと思う。
いつも通り、始業間際になって教室に来たセベクくんに席を譲ると始業のベルの後、先生が入ってきた。真面目な生徒なのに、時間ギリギリに来るのをいつも不思議に思っている。いったい何してるんだろうなって隣を見るけれど、真剣な眼差しからは授業への真摯な気持ちくらいしか分からなかった。