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私の知らない彼の顔があることはわかっていた。
でも、それに気づかないように、大切にその秘密を片隅に仕舞っておいたのだ。
気づかないように、気づかれないように。
それを人に暴かれるというのは、こうも疲れてしまうものなのだろうか。
ため息をついて、ベッドに突っ伏す。
ケータイを開いて、メッセージ画面を開いた。
そこに一言、報告は義務だと言わんばかりに文字を打つ。
【シャロンさんに会いました。】
それを送信してすぐ、ケータイが知らせたのは着信だった。
『夢さん、今どこにいますか?』
「…家です。」
『すぐにそちらに向かいます。』
こちらの返事も待たずに、彼はその電話を切った。
私はしばらくケータイを見つめて、そのあとそれを放るように机の上に置いて、目を閉じる。
自覚してもそれをないものにして閉じたはずだったのに、こじ開けられてしまうと、言葉に出されてしまうと、途端にそれはひどく幼稚な行動に見えてしまう。
10分もしない程で、玄関から音が聞こえる。
それはいつもよりも少し大きい物音だった。
「夢さん。」
名前を呼ばれて、そちらを向くと、彼は躊躇いなく寝室に入りこんできた。
よく見るスーツ姿でも、ポアロで見るラフな姿でもない。
ワイシャツにベストを着て、ループタイを掛けた姿だ。
彼女が、私を彼の監視なく連れて行くことができたのも、このためだったのだなと理解できた。
「…その姿が、バーボンさんですか。」
「…何を言われたんですか?」
「色んなことを話しました。本当に色んなことを…頭が追いつかないくらい。」
「…危害は加えられていないですか?」
「…なにもされてはいません。」
「…そう、ですか。」
少し、部屋に入った頃からなのか、電話した頃からだったのか、焦った様子だった彼が安堵の色を見せた。
私は、その姿が何者なのか、もうよくわからなくなっていた。
世間一般的に言えば、これを混乱と呼ぶのだろう。
小さく、息を吐いた。
「なにを話したのか、教えては頂けませんか?」
「…ヘッドハンティングされました。」
「は?」
「私に着かないかと、優秀だと褒めてくださって。」
「…それで?」
「…あとは、私の自己評価が低めだとか…」
「他には?」
「…組織の、こととか。」
言えば、返ってきたのは先程までのしっかりとした声ではなく、沈黙だった。
私はそれに、小さく声を漏らす。
「貴方は、何者なんですか。」
それに、答えを期待していたわけではない。
聞きたかったわけじゃない。
今まで求める事をしたいとも考えなかった。
それはきっと、小さくしまい込んだ自分の気持ちを掬った時に決めた唯一の自己愛だったのだろう。
聞きすぎなければ、嫌われない。
子供染みたその考え方を幼稚だと小さく笑いながら、それでも大切に守っていたはずだった。
その、小さな自分への裏切りに、彼は声を返してきた。
「場所を変えます。」
私を無言のまま連れて、彼はきちんと私の家の扉の鍵を閉めて、そのまま車に乗せた。
車内は無言のまま、しばらく景色を飛ばして行き、着いたのは少し離れたところにあるマンションだった。
なにやら厳重な警備のその中を進んでいけば、一つの部屋に着く。
カードキーで鍵を開けて、私を中へと通した。
そこは、あまりに生活感のない部屋が広がっている。
「…いくつか家があると、以前話していましたね。」
問われて考える。
思い当たる節があるとしたら飼っているかもしれないわんちゃんの話をした時のことだろうか。
「そのうちの一つです。電波は通らないので安心してください。」
通らない電波というのは、多分盗聴のことだろう。
彼に促されて、その生活感のないソファのうちの一つに座り込む。
彼は、その隣に腰かけ、ループタイを緩めた。
「…夢さん、辛いのであればやめてください。貴方にはその権利があります。」
「だと思います。」
いつも、私には拒否権を与えられていた。
仕事とは言わずに、頼みごとだと言われた。
最初から、協力と言われていただけだった。
私には、彼の協力者でいるかどうかの選択肢を常に与え続けられていたのだ。
「見返りなく、やり続けるというのは一種執念のようなものが必要です。でも、それを協力者である貴方に強いる権利は僕達には存在しない。」
「そうですね。」
「全ては話せませんし、全てを叶えることは難しいと思います。ですが、可能な限り答えます。」
彼の、最大限の譲歩なのかもしれない。
私はそれに、少しだけ縋ろうと思った。
「聞きたいとは思います。知りたいとも思います。でも、それは安室さんが口にしなければならないことだけでいいです。」
ツギハギのような、うまく出せない言葉を彼は黙って聞いてくれる。
絞り出すような細い自分の声に、少しの苛立ちを感じた。
「組織って、きっと私が知ってはいけないものの事で、それを知らせないように、安室さんは隠していてくれてたんですよね。じゃあ、知らなくていいです。」
「…彼女の…シャロンの誘いにはどう答えたんですか?」
「考えておきます、と…」
「貴方は、シャロンの下に着きたいと思っているんですか?」
「…考えています。」
「僕では、不足ですか?」
「…彼女は、私の気持ちを尊重するそぶりを見せてくれました。」
「気持ち?」
「きっと安室さんにも気づかれない程度の、小さい気持ちを、彼女は読み取って、それを開いてくれました。だからこそ、私を見てくれているのかもしれないと、勘違いしてるのかもしれません。」
「…それは、僕には話せない事ですか?」
「はい。」
「…そうですか。」
小さく、彼の声が滲んだ。
私は、それに気付きながらも、知らないふりをする。
残念そうな、悲しそうな、これが例え演技だとしても、そうしてもらえるだけの力が自分に備わっていたのかもしれないと、そう思わせてくれた。
「バーボンさんは、ハニートラップがお得意と聞きました。」
「は?」
「私が彼女に着くことを阻止したいのであれば、私にもそれを仕掛けてください。」
「…夢さん?何を言ってるんですか?」
「それだけです、たったそれだけの事なんです。」
小さく、自分を納得させるように呟く。
きっと、抜かりのない彼の事だ。
そう頼めば、うまくやってくれると思う。
少しでも揺れた自分を、そうして宥める。
そこまでしてでも、彼の手を引きたいと願ってしまう浅ましさに、少しの嫌悪が滲んだ。
どうせどこにいたって、最初の気持ちの疚しさからは逃れることはできないのであれば、奥まで汚れて仕舞えばいい。
黒い感情に、飲み込まれていく感覚を覚えた。
『彼は、あの容姿だもの。ハニートラップもお手の物よ。』
小さく、彼女の声が聞こえた。
「それが、望みですか?」
「唯一です。私は、貴方の偽りの恋人になることを、見返りとして提示します。」
落胆したような、悲しそうな、そんな色が、彼の瞳に見えた。
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