06
カチリと、時計の針が動く音がする。
それが大きく聞こえるのは、この沈黙がいかに静かなのかを物語っているのだろう。
今までは梓だけだったから、シフトもそこまで気にする必要がなかったが、これからはそれを確認しなければならないということだろう。
以前挨拶した金髪の彼との時間に、少しの緊張のまま、体を固くした。
話すつもりはないのだが、かと言ってたまにはお話をしようと、仕事道具であるPCを置いてきた私には、やれることが限られている。
そしてそのやれることの一つであろうスマートフォンは、そろそろ電池が切れそうだ。
電源を落として、ふぅ、とため息をついた。
店内を見渡して見れば、他にお客さんはいない。
時計は、午後三時を指しており、そろそろ学校帰りの女子高生達がここに来る時間だった。
「そういえば、」
ふと声が聞こえて、私の体が途端に硬くなった。
以前の初対面以来、初めての彼と2人のみの空間にどうしたらいいかわからない。
戸惑いと、刺されたようなあの視線をまた思い出し、顔を上げることができないまま彼の言葉を黙って聞いた。
「夢さんは、読書が好きだとお伺いしたんですが、どんな物を読まれるんですか?」
彼の質問に、変わらず顔を上げることはせず、考える。
この場合の伺ったというのは、言わずもがな今はこの場にいない同級生のことを差しているのだろう。
そして、彼女は私の事をいくらか彼に話しているようだった。
「…そうですね、コラムや啓発本なんかも読みはしますが、一番好きなのは小説でしょうか。」
「小説…ミステリーなんかも読まれるんですか?」
「ミステリーも読みますし…ホラーやファンタジーも、あまり選り好みはしません。」
「それはいいですね。僕も読書は好きなんです。」
「そう…ですか。」
当たり障りなく、それとない答えを返すと、共通の趣味に彼は関心と思えるの声を漏らす。
真意は、見えない。
見えないからなのか、私はまだ顔を上げることができずにいる。
「では、こちらも読まれたことはあるんでしょうか?」
「…どうして。」
俯く私の視界に入るように見せられたその本は、つい最近出版されたと編集者の方から伺ったものだ。
私が、書いたものだった。
「話題になっていたので気になって。以前から好きなんです、この方の本が。」
「…そうですか。」
普段、顔も出していないから、知られるはずもない。
そう考えながらもドクドクと心臓が高鳴る。
目の前で、自分の本を読んだという方から、お話を聞けることなんてまずない。
私は思わず自分の好奇心に負けて声を出した。
「あの。」
「…はい。」
「どう…でしたか?」
初めて顔を上げて、彼の顔色を伺った。
彼は、私が顔を上げたのを見ると、元々下がり気味の目尻をさらに下げて、にっこりと笑みを見せた。
「この方の書く日本語はとても美しい。」
そう、一言だけ。
それが、私にとってどれほどうれしい言葉なのか、きっとこの人は知らないはずなのに。
求められていた言葉を与えられた喜びなのか、安堵なのか、私は小さく息を吐いた。
「…そうですか。」
返すべき言葉がわからず、ただ私の胸はいっぱいで、そう一言だけつぶやいた。
彼はそれを聞いてか聞かずか、「そういえば」なんて小声を漏らして、お店の奥に入っていく。
そして、すぐに戻ってきて、その本の横に黒いサインペンを置いた。
「…あの。」
「…僕が夢さんにこの本を読んだことがあるかを聞いた際に、あなたはどうして、とひどく驚いたような表情をされていました。そして、この本の著者に対しての印象を聞かれた際にも、少し緊張されたような、何かを隠しているような、そんな顔に変わった。そして、そこからこの本の感想を尋ねられた時に、あなたは初めて僕の顔を見ました。それはきっと真摯に向き合う姿勢を見せたように感じたのです。書物一つでここまでの反応を見せる方はこの本の出版に関わっている者は多いのではないでしょうか?そして、以前から梓さんにお伺いしていたんです。あまり家から出ない仕事だと。来る時間もまばらなようで、とても自由度が高いのではないかと思って。でも、出版社関係や書店関係の方であれば、出勤時間はもちろん、毎日のように家から出るでしょう。と言うことは、あなたはこの本に大きく携わり、且つ出版社や書店から外れた存在。著者の方ではないのでしょうか?」
ゆっくりと、私が言葉を上げてもすぐに声を聞ける程度の速度で、次々と的を得ていってしまう彼は、最後ににっこりと微笑みを私に向けた。
顔を出していなくても、ここまでズバズバと当てられてしまうと、自分の反応から推察を経てここまで言われているのに、なぜだか彼に対しての恐怖心が篭る。
「…あの…以前お会いした時も、とても強い視線を感じましたし…何者なんですか?」
「あぁ、申し訳ありません。あれは、ひどく怯えた様子だったのでなにかやましいことがあったのかとついいつもの癖で。」
「いつもの…?」
「申し遅れました、僕は、プライベート・アイ…探偵です。」
「探偵…さん?」
「この店の上に毛利先生の事務所があるんです。そこで弟子としてお世話になっているんですよ。」
いつぞやに噂は聞いたことがある。
毛利探偵というのは、その推理力もさながら、眠りながら事件の仕組みを披露するというその姿から、眠りの小五郎なんて呼ばれている、とても有名な私立探偵さんだ。
そう説明されて、いろんなものに合点が行った。
刺さるような視線も、恨みを買うこともあるだろう彼からしてみたら、一つ一つ真偽を確認する為のものだったのだろう。
私の仕事がわかったことに対しても、私の行動や情報をひとつずつ組み合わせて、彼自身が注意深くそのパズルを完成させたから分かったことなのだ。
気づいていけば、途端に今までの自分の行動が恥ずかしくなってしまい、隠れたい気持ちで顔を俯かせた。
「誤解を与えてしまって申し訳ありませんでした。」
「いえ、その、私こそ、あの、ほんとうに失礼ばかりで…ごめんなさい。」
「いいえ、誰だってこんな身なりの見たこともない男が見てきたら恐怖心を覚えてもおかしくない。ただ、そうですね…。」
「…はい。」
「では、僕のお願いを聞いていただいてもよろしいでしょうか?」
「はい。」
少しでも私の心が救われるのであればやりましょう請け負いましょう。
ひどく自己中心的な内心を出さないように怯えつつ、彼の言葉を待つ。
彼は、彼の私物である私が書いた本の横に置いていた黒いサインペンを手に取り、私にそれを渡してきた。
思わず、その行動の意図が分からずに顔を上げる。
「サインを頂いてもよろしいでしょうか?花元先生。」
彼は、これを持ってきた時点でそのつもりだったのかもしれない。
ただ、私はそんな彼の真意なんて関係なく、まずはペンを取った。
お話を頂いてたことはあるが、サイン会なんてものもしたことはなく、サインと言うものがわからない。
「あの、表紙のデザインは、私がしたものじゃなくて…だから、外に書くのは、あの」
「では、中表紙に。」
「あと、サインなんてしたことがなくて、あの」
「お名前を頂戴できるだけで光栄です。」
やんわりとした笑顔で押し切られたような感覚がしなくもないが、自分の名前を中表紙に書く。
シンナーの独特な匂いは、ここしばらく味わっていなかった、なんて懐かしい気持ちに駆られながらも、ペンを走らせる。
書き終えたサインを見て、心の中にある罪悪感がすこしだけ、ほんの少しだけ晴れたような気持ちになり、ほっと旨を撫で下ろした。
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